皇午農民戦争・勃発前夜2
文章がもっと上手くなれば……。
辰雄は人を疑うことを知らない、よくできた青年だった。正義感にあふれ、不正を憎んだ。
江戸の民が差別される現状を嘆いてはいたが、愚痴を口にすることなく、そして腐ることなく現状を変えようと動いていた。
明るく気さくな態度で村民からは一目を置かれていたのだ。
村長が、器量よしで幼なじみのトモと辰雄が身をかためたら家督を譲るという話をしているのを天狗面は耳にしていた。
「そうか……。嫁がいないのは今日、警察署へ差し入れに行ったのか?」
「トモと辰治は、一週間前に事情を聞きに警察署へ行き、今日、片腕をなくした辰治だけが帰ってきた」
鬼の面をつけた導士が、答えた。
「そうか。ひどい話だ」
天狗面は吐き捨てると、村長の家を後にした。あばら屋へ戻ると寝台から落ちて、少し這いずったところで気を失っている辰治を見つけた。天狗面はため息をつき、辰治の腹を蹴った。
呻く辰治に「おとなしく寝ていろと言ったつもりだが?」と天狗面は聞く。
「姉さんは……トモちゃんは帰って来ているのか、導士様!」
「ん? 辰雄も嫁も帰っていない。いいから大人しくしーー」
「なんだって⁉︎ それは本当か! 本当にトモちゃんは帰ってきていないのかい?」
「落ち着け。落ち着けといっている!」
「導士様、後生だ。東の廃村へ俺を連れて行ってくれないか? あそこで、あそこで会う約束をしたんだ! お願いだ!」
錯乱し始めた辰治を面倒臭そうに見下ろしていた天狗面。その天狗面の足にしがみつき、真っ赤に充血した目で彼女を見上げて懇願する辰治。
天狗面は辰治の顔面を蹴り上げた。辰治が離れると、薬箱の中から小さな筒を取り出した。
「はぁ。馬鹿者が。……これは芥子から作った気付け薬だ。一時的にだが力が湧く。使いすぎると廃人になるがな」
筒を辰治に放り投げる。腕のない辰治は筒を取ることができず床に落とす。
「ありがとう……ありがとうございます」
辰治は床に転がった筒の蓋を開けると、薬を一気に煽った。天狗面は静かにその様子を見下ろす。胃の中で暴れる薬の作用に悲鳴を漏らした辰治だが、しばらくすると立ち上がった。
「はぁ、はぁ……体が軽い……はぁ、はぁ……気がする」
「片腕が無いんだ、転ばないようにしっかり歩け」
「ありがとうございます。導士様!」
辰治はヨタヨタと歩き始めた。その後ろを何も言わずに天狗面はついていく。
辰治は茫然と廃村の広場に吊るされた全裸の死体を見ていた。辰雄とトモだった。
辰雄の顔は青黒く腫れあがり、激しい暴行を受けた末に死んだのがわかる。その死体は辱められており、蛆虫が肉をむさぼっていた。
常人なら顔を背けるようなありさまであるが、まだ辰雄のほうが死体としては見られるというのが皮肉だった。
最近、祝言をあげたというトモの死体は、悲惨だった。生前、器量よしだったのが仇になったのだろう。辰雄以上に死体は辱められていた。いや、生きているうちに辱められたのかもしれない。どちらにせよ酷いものだった。
「死んでいる」
天狗面は当たり前のことを呟いた。腰に帯びている刀を抜き、死体の首を吊っている縄を切る。どさっと地面に二人の死体が落ちた。裂かれていたトモの腹から内臓が漏れた。
「女は私が清める……。好いた女の死体、辰治は見たくないだろ」
「……ありがとう、導士様」
「気にすることはない。皇夜教会の私がこのようなことを言うのは変だが、あまり落ち込むな」
「……知事は……トモちゃんだけは助けると言ったんだ。俺の片腕を切り落とすとき、知事と約束したんだ」
「約束は破られたな。ふん、死体の状態からとうの昔に死んでいる。はなから知事はお前と約束をする気なんてなかったんだ」
天狗面は冷たく答えた。その事実を突きつけられた辰治はうずくまり慟哭する。
トモの死体を抱きかかえる。内臓が零れ落ちないよう、自身の服が汚れることなど気にすることなく、しっかりと抱き上げた。
墓を掘りたかったが、片腕のない辰治と女の天狗面では適当な穴を掘ることがかなわず、廃村の廃屋に二人の遺骸を運び込み、火葬とした。
燃え上がる炎を見つめ、辰治はずっと泣いていた。兄が死んだことよりも、好いた女を助けることができなかったのを悔やんでいたのかもしれない。
天狗面は何も言わず、空を見上げていた。その手には、辰雄とトモの遺髪が握られていた。
人が焼ける臭いは、ひどく不愉快だった。