江原忠清
こんにちは!
「すまぬが菓子を譲ってくれんか?」と男に言われた。期待を持たせ、寸前のところでお預けを食らうのは嫌なのだが、男はかなり必死の形相をしている。
「まさか……あんたが食うからよこせ、と?」
嫌味を言ってみるが、男が頷くとは思っていない。身なりのいい男が必死の形相をするには、なんらかのわけがあるのだろうと左近は考えている。
「いや、違う。理由は聞かずに譲って欲しい」
男は深々と頭を下げた。喫茶店の店内の視線が左近と男に集まる。
愚直な男だ。左近は顎を撫でる。
この国では年上に奉仕するのが美徳であるという儒教的価値観がある。
そのため、年上は年下に対してわりと横暴な態度をとることも多々あるのだ。実際、年齢を盾にすれば左近から菓子を奪っても誰からも文句は言われない。
しかし、目の前の男には、年上だからという理由で左近から菓子を奪うような姿勢や考え方を持っていない、と左近は感じ取った。
ふむ。では答えは決まっているな。
「わかった。理由は聞かない。持って行きな」
「ありがとう。恩にきる」
「気にするな。俺はあんたを気に入って譲るのだ」
「そうか。……そうだ。何か困ったことがあればここに尋ねて来てくれ」
男は名刺を左近に渡す。左近は名刺を素直に受け取った。ここで拒否をすると返って男の株を落とすと考えてのことだ。
できあがった生菓子を二つ、男は箱に詰めると深々と礼をして店を後にした。
ふふん。良いことをした。左近は名刺に視線を落とす。あの男は江原忠清という名らしい。苗字があるということは元武士か。気持ちのいい男だった。
いずれ、そのうち、彼の家を訪ねてみよう。
「……ん? どうした騒々しいな?」
外国の本を読んでいた春香が、ようやく顔を上げた。そうとう集中していたらしく、事態が読めないでいた。
左近がカクカクしかじかと、ことのあらましを少し話を盛りながら説明した。最終的には左近の話は、男と殴り合ったすえ、和解して生菓子を譲ってやったという内容になっていた。
静かに聞いていた春香だが、突然片手を上げて机を全力で叩いた。喫茶店の店内が静けさに満ちた。
いきなりどうしたのだろうと思い、左近は春香に尋ねた。
「どうした春香?」
「……別にお前の生菓子を男にやっても私が文句を言うのはお門違いだが、なぜ私の菓子も男にやった?」
「……話の流れでです……はい」
「ほぉー! 話の流れ? 普通、許可くらいとるよね?」
「そう……だと思います、はい」
「さーこーんー!」
春香はスクっと椅子から立ち上がると、「キィィィ」と奇声をあげて殴りかかってきた。
「ごめん! ごめんなさい!」
「許さない! 許さないぞ! 絶対に許さんぞー!」
☆
「焼菓子というのも美味だな」
可否茶館からの帰り道、サクサクと焼菓子を頬張る春香。一通り暴れたあと、可否茶館の店主から振る舞われた列強の菓子だ。もちろん、左近は自身の分を春香へ献上している。
「良き香りだな。その菓子は」
「ふん。お前は香りだけで我慢するんだな、馬鹿左近」
「はいはい。我慢しますよ」
左近は春香に噛まれて腕を撫でながら呟いた。
「ところで、私の生菓子を奪った奴の名刺、見せなさいよ」
「なんだ、お礼参りにでも行くのか?」
「行かないわよ! 馬鹿!」
左近は春香に名刺を渡す。春香は焼菓子を口に入れたまま、名刺に視線を落とした。
「江原忠清? 江原……あんた、これくれたのどんな人だった?」
「ん? 気持ちのいい男だったぞ」
「そうじゃないわよ、馬鹿。外見よ外見! 豪奢な髭をはやしていたとか、身なりが良かったとか。あるでしょ?」
「豪奢な髭をはやして、良い身なりをしていたな。年の頃は五十から六十だったな」
「あんた、すごい人とお近づきになったわね」
「そうなのか?」
「生菓子二つでこの人の名刺一枚。姉さんに言ったら、口から泡吹くかもね。大切に取っておきなさいな、その名刺」
「うむ」
春香達の住む屋敷が見えてくると、何台もの馬車が入り口から出入りしていた。
「おりょ?」左近が呟く。
「なにかあったのかしら?」春香が首を傾げる。
二人は屋敷へと急いだ。
か
ん
そ
う
ちょ
う
だ
い