とある山中にて
第2稿
二、三日前に嫌味のように降った雪のせいで、いつも以上に寒い。三月の川辺は肌寒く人の姿はなかった。こんな時期に山の中で釣りをする奇特な人物は、おそらく左近くらいしかいないだろう。山の民ならこの時期は山を下りて生活しているし、釣れない魚を釣るために一日を無駄にはしない。
川べりに腰掛けた左近はあくびをひとつする。川の流れる音が心地いい。たまに撥ねる水しぶきが顔にかかり非常に寒い。
夏になると騒がしい生に満ちた森も、今は死んだかのように静かだ。
釣れないとわかっていても、実際に魚が釣れないと面白くない。
左近は頭をあげる。太陽の位置からしてお昼の少し前だろう。今度は水面に映る自分の顔を見る。気の抜けた若造とでも表現すべき自分の顔がうつっている。
朝からずっと同じ姿勢をとっているので腰が痛い。着物の上にどてらを着てその上に藁であんだミノを着ているが、寒風で顔や手も針を突き立てられたかのように痛い。
枯れた木々は雪化粧をしている。まだ若葉は生えていないが、もう一ヶ月もすればすぐに暖かくなり、新芽が茶色の世界を青々と侵略していくだろう。
今年も、あの人の桜をみなければなぁ……とぼんやりと考える。
「はぁ。早く釣れないかなぁ……」
自虐的な呟きと川の流れる音に紛れて、遠くで足音が聞こえた。茶色の枯れた木をパキパキと折り、雪化粧をほどこした草をざくざくと踏みしめて近づいてくる足音。左近は足音のするほうへ視線を向けた。
そこには狐面と天狗面を被った変な二人組がいた。
絶句。
こんな時期に川に近づく奴なんてろくな奴じゃない。ろくな奴じゃないうえに面をつけて山中をフラフラしている奴なんて、まともな奴じゃない。
いろいろ考え、見なかったことにするのが一番だとと結論付けた左近は、川の流れに翻弄されている釣り針へ視線を落とす。
ひとつの足音が近づいて来る。嫌だなぁと思いつつ、ちらりと足音のほうに視線を向けた。
「こんにちは」
狐面が親しいそうに声をかけてきた。声からして若い男だろう。
狐面は膝まで隠れそうな黒色の長い外套を羽織っているが、腰の部分に盛り上がりがあり、刀を帯びていることに左近は目ざとく気付く。狐面は全身黒ずくめなのに、狐の面だけが白色をしていてなんだかおかしいな、と左近は思った。
「こんにちは」
左近が黙っていると、また狐面の男が親し気に挨拶をしてきた。左近は愛想笑いを浮かべてペコリと頷くように応じる。人の好さそうな人物を演じておこうと判断したのだ。
「こんな寒い中ご苦労ですね」
「好きでやっているんだ……。やることが無くてね」
「嘘おっしゃいなさい。僕たちを誘うために毎日、こんな人気のない場所に来ていたんでしょ?」
狐面の指摘に、左近の視線が鋭く輝く。その輝きに気が付いた狐面は楽しそうに声をあげて笑った。
「気づいていたのかい」と左近は不愉快そうに尋ねた。
「雪の日も釣りをしていましたよね、その時に気が付いたのです」
狐面は子供に教えるような調子で答える。
さすがに雪の日まで釣りをしたのは露骨だったか……。
左近は気まずそうに額を撫でた。そして尋ねる。
「で、お前たちは誰かな? 誰の命令で来た」
「皇夜教会から派遣された導士です」
こうやきょうかい……。知らない。聞いたことがない。
「なんだいそりゃ?」
左近は訊ねた。
狐面は答えることなく外套を脱ぐと、腰に帯びている刀を抜いた。刀には変わった文様が彫られている。左近はぼんやりとその様子を眺める。
「ありていに言えば、国を憂う者どもです。そして大変申し訳ないが、護国のため、天誅を下します」
発言とは裏腹に狐目の声色からは申し訳なさがみじんも伝わらなかった。左近は眉を顰める。
「え、意味がわからんのだが……」
困惑する左近をよそに、狐面は猛然と迫って来た。
「我、護国の鬼なり!」
狐面はもう楽しく会話をする気がないようだ。左近は釣り糸を手繰りよせながら考える。
別に斬られてしまっても構わないが、それでは勘定があわない。では、あいつを殺してしまうか? よし、それなら勘定が合うな。
左近はゆっくり立ち上がると、狐面の首を狙い横薙ぎに釣り竿を振った。ひゅんと甲高い音がする。狐面は飛ぶ。釣り竿を避けるためだ。尋常じゃない脚力に、空高く飛ぶ狐面を見上げ、左近は目を剥く。
狐面は左近の脳天めがけ刀を振り下ろす。とっさに釣り竿で頭を守るも、風切り音が耳元をかすめ、左近の左肩に刀がえぐり込む。めきめきと釣り竿と筋肉、骨を断ち割り胸まで刃が達したところで刀が止まった。
傷口が痛い……というよりも熱い。左近は苦痛に顔をゆがめる。血が噴き出し、白い狐面を赤く染めた。
そこで狐面は異変に気が付いたようだ。
「肋骨で止まったんだ、刀を捨てろ!」
天狗面が叫んだ。
狐面は左近の体から刀を引き抜こうとするも抜けない。一瞬、刀を捨てるのをためらった狐面の顔面に、斬られた釣り竿が突き刺された。
「あ」だの「ぐあ」だの声をもらし、狐面はよろめく。間髪入れず、左近は男に抱き着き、体重を乗せて押し倒す。狐面の後頭部は地面に叩きつけられ鈍い音がした。頭蓋が割れたようだ。
「ひひひひ。腕が取れるかと思った」
左近は右手で刀をやすやすと引き抜くと首を鳴らす。奇妙な音を立てて断ち割られた筋肉と骨が再生した。数秒で傷は完治した。痛みはもうないが、一瞬、気が遠くなるほど眠くなる。
頭を振り、組み敷いた狐面を見下ろした。
「人を斬るのは初めてか? もっと豪快に斬らんと刀は骨で止まるぞ」
左近はケラケラと笑う。刀を狐面の首に突き刺した。
ぷしゅっと空気の抜ける音がして血が噴き出す。左近の頬を朱に染める。狐面は首から刀を引き抜こうともがき、刀の切っ先を両手でつかむが、指から血が出るだけで刀は首から抜けない。抜けないと悟ったようで静かになった。
「さて……まだやるかい?」
左近は天狗面に尋ねつつ、刀を抜いた。狐面はまだ生きているようだが、何もすることはできまい。
「ああ、羨ましい。彼は護国の鬼になった。おめでとう。ありがとう」と天狗面は手を叩き、狐面を称えた。
なんじゃそりゃ……? と困惑する左近をよそに、天狗面はひとしきり狐面を称える。称えると着ていた丈長の外套を脱ぎ始めた。
左近は思わず天狗面の豊かな胸に注目してしまう。ふむ……素晴らしい!
天狗面は静かに杖を抜き構え、歌を奏で始める。
左近は、また変な儀式が始まったと思い渋い面をしたが、応じて刀を構える。
その時、足を狐面の男がつかんだ。ぐらっと体の重心が崩れる。ひゅーひゅーと首から空気をもらし狐面は何事か叫ぶ。かろうじて「歌魔法が」なんとかと左近には聞こえた。だが、川音にかき消され、狐面の言葉のほとんどが聞こえなかった。
左近は視線を狐面に移し、絡みつく両腕を断ち切る。再び天狗面へ移す。天狗面がいない。
「逃げたか……」
左近は手に持った血のりの付いた刀を川へ投げ捨てた。血のりで体中がべとべとで気持ち悪い。
「帰るか……」
左近はため息をつき、歩き出した。
★
左近が家にしている場所は、無人となっていた木造のあばら家だった。雨が降れば雨漏りはするし、風が吹けば寒い。最悪な家だが無いよりはましなので住んでいる。
左近が玄関を開けると、白い軍服を着た一人の少女が手持ち無沙汰なようすで、土間に座っていた。
左近はびっくりして「ぎゃ!」と声を上げた。少女も「ひぇ!?」と悲鳴を上げる。
「ちょっと! 驚かせないでって、あなたすごい血! 怪我しているの?」
少女は怒鳴った。しかし、左近が血まみれなのに気が付くと血相を変えて詰め寄ってくる。
たった今、変な人に絡まれた挙句殺したともいえず、左近は口ごもる。
「今、治癒の歌魔法をかけてあげるわ!」
少女が言ったが、左近はしどろもどろになりつつ答える。
「いや、これは……返り血だ」
少女は猫っぽい大きな目を輝かせて、尋ねてきた。
「もしかして、人食い鬼さん?」
「違う! 死ねないだけで人は食わない!」
少女の目がさらに輝く。
「もしかして、あなたが左近? 不死の左近? 本物?」
左近はうなずいた。
「えっと……思ったよりお若いのですね……。もっとお爺さんみたいな話し方をするのかと、その、思っていました。えっと左近様」
「若々しい気持ちでいたいからな。あとお前。無理に敬語を使わんでもいい。なんかこう、むず痒いし、お前の本質が分からなくなる」
「ありがとう。では、遠慮なく」
「ところで、お前は誰だ?」
「私は春香。あなたを守りに来たわ!」
少女――春香は元気満々に宣言した。