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⊱φωφ⊰ 江戸 ⊱φωφ⊰

 初夏とは言え、日の出の頃はまだ寒う御座います。清々しい朝の気を肺腑いっぱいに吸いこむと、自然と背筋がしゃんとしてくるから不思議ですね。

 縁側に腰を下ろし、朝日に手を合わす日々が送れるのも倅のおかげです。


 我が倅、松太郎があの夜に旅立って、早八年。

 つい先だって七回忌の法要を終えたばかりだというのに、早いものです。


 主人は早くに亡くなりました。お勤めの最中の殉死です。武士として立派な死に様です。

 跡を継いだ松太郎も、二十五の若さで、先に行ってしまいました。


 松太郎の最後は立派なものでした。さすが主人の子供。

 秘密のお話なので大きな声では言えませんが、公方様の盾となって死んだのです。討ち死にと申しましょうか。


 武士たる者、主を守って命を落とす。誉れで御座います。

 昨今、武士道が廃れたと申しますが、松太郎こそ武士を体現した武士。まさに武士(もののふ)の鑑で御座います。


 上のお方も、松太郎の忠義奉公を見過ごすことはありません。


 即座に弟の竹太郎が家を継ぐ許可を頂き、あまつさえ勘定方の役人として、千代田のお城勤め。大出世に御座います。

 忠義者の弟、三男の梅太郎も大きな旗本の家から婿養子として迎えられました。

 おまけに中元の伝助まで可愛いお嫁さんを貰うことができました。


 どれもこれも全て松太郎の手柄。

 伊尾田家中興の祖として、末代まで語り継がれることでしょう。


 悲しいことなどありません。葬式でも涙一つ流しませんでした。

 母として、鼻が大変に高こう御座います。

 厳しく躾けた甲斐があったというもの。


「母上、ここにおいででしたか、今朝は早出ですのでこれからお城へ参ります」


 竹太郎です。これは朝の出立の挨拶です。


「竹太郎、ご飯は頂いたのですか。武士たる者、腹を空かせて働けないなどもってのほかですよ」

「はははっ! ご心配には及ばず。握り飯を三つ頂きました」


「これからお勤めというのに、そのようにヘラヘラと! 武士たる者――」

「今朝が今生の別れと思いなさい! で御座いますね」


「解っているなら――」

「おっと、登城に遅れてしまいます。松之進のこと、よろしくお頼み申しますぞ! では御免!」


 早足で出ていく竹太郎。まったく! 次男は大らかな性格になると申しますが、まさにその通り。少しは松太郎を見習って欲しいものです!

 孫の松之進は、この御婆様が厳しく鍛えてあげましょう。伊尾田家の跡継ぎですからね。嫁の手になど安心して任せられません!


「おばあさま!」

 噂をすると、松之進です。


 今年で六歳になりました。『数えで5歳、幼稚園年少さんですね』

 はて。いまのはどこから聞こえてきたのでしょうか。


 とてとてと歩いてきて、ぺたんと座り込みました。


「おばあさま。明け方、夢を見まちた」

「松之進。朝の挨拶を忘れていませんか」


 小さい頃から礼儀は厳しく躾けなくてはいけません。


「おあようごぁいます」

「ちゃんと言えて――」

「まつたろう叔父上の夢を見まちた」


 ま、松太郎の夢?

 松之進は松太郎が死んで三年後に生まれた子です。松太郎の事は話しでしか知らないはずです。


「赤いそでの……紺色のはかまで……刀をさちて……ながい槍を持ってまちた」


 ほほほ。松太郎は、甥っ子の夢の中でも勇ましいのですね。


「ねこを連れていまちた。ぼうけんの旅、とかをちているそうでつ」

「ぼうけん。ああ、冒険ね。松之進は難しい言葉を知っているのですね」


 冒険なんて難しい言葉、いつこの子に教えたのかしら?


「叔父上はイセカイというトチで旅をちているとのことでつ」


 イセカイ。世界という言葉が付いているから、あの世のどこかで御座いましょうか。


「かたき討ちで十にんの山賊をやっつけたり、仲間といっちょに二十六匹の青鬼を退治ちたり、だい活躍ちているそうでつ」

「まあまあ。叔父様はあの世で大活躍しているのですね」


 かような小さき子の口から、思わず松太郎の話が聞けるとは。

 なんでしょう。心が和むと申しましょうか。


「盗賊をやっちゅけたり、この国には無いようなおっきな川でお船に乗ったり、あと、あと、あたたたかい国に向かって旅をちているそうです」


「そうですか。よかったですね。さあ、お婆さまのお膝にお座りなさい」

「はい!」


 元気に答えて、松太郎はお膝にお座りしました。


「お話の続きを聞かせておくれ」


「ここにはおいしいお料理がたくさんあると申しておりまちた」

「おっしゃっていた、でしょう」

「はい! おっしゃらしゃっていまちた」


 ……まあ良いでしょう。努力を認めましょう。

 お婆を見上げるその顔。可愛いです。こうしてみると松太郎の小さい頃そっくり。特に笑顔がうり二つ。


 なぜに。なぜに、愛しい者から先に死んで行ってしまうのでしょうね……。


「松太郎は元気で生きてるとおっしゃらしゃっていまちた。えーっと、お婆さまによろしくお伝えくだされ。でちゅ」


 まるであの子の口調そのまま。松之進は松太郎と会ったことがないというのに。

 松太郎。もう一度だけ会いたい。

 

「お婆さま。泣いておられるのでつか」


 え? 泣いてなど。武士の妻が泣いてなど。

 夫の死にも、倅の死にも、涙一つ溢さなかったわたしが?





「ま、松太郎ぅ……」 

 



まもなく再開です。

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