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第二章 輪廻草と大樹の蜜 その六

 ヒスイが引き金に、指を掛けた瞬間、シュウの着流しが引き裂けた。

 水音を伴って灰色の触腕が一つ、二つ、三つと踊り、シュウを抱くように包んでいく。

 四つ目が床板を叩き、シュウを飛翔させた。

 獣の知覚すら置き去りする速度域は、容易く天井を突き破り、シュウを人狩りの手から青空の元へと逃避させた。

 幾重もの触腕を操り、飛翔する様は、人の身で叶う業ではない。

 眼前で繰り広げられた奇怪な現象、紬が出した答えは、


「あの人も精霊成りですか!?」

「違う。精霊に寄生しているんだ」

「精霊に寄生?」

「あまりに強い人の意に、精霊が飲まれてしまっている。故に体が溶け合い、人の手足になっているんだ」


 人間の持つ意志の力の強大さは、時に世の法則すら捻じ曲げ、我欲の内側に理を取り込む。


「故に、あれらを我霊と呼ぶ」

「我霊?」

「人の内に巣食う我欲が、精霊を取り込み、昇華した慣れの果てさね」

「どうやって止めるんですか?」


 ヒスイは答えず、小銃を手に駆け出した。

 紬も後を追い、屋敷を飛び出すと、鼓膜を破り裂く程の悲鳴が雪崩れ込んでくる。

 シュウの屋敷の前の通りを、人々が方々へ逃げ惑っており、騒ぎの中心にシュウが仁王立ちしていた。


 触腕の数は、先程の四つからさらに増え、あまりの膨大な数は、紬に数える事を諦めさせた。

 大小様々な触腕は、煮立ったように泡立ちながら、シュウを包み込んでいる。

 シュウの口元が無色の笑みを作ると、特に太い一本が地面を叩き、巨体を舞わせた。

 その身を容易く建物よりも高く張り巡らされた電線の高さまで運び、紐のように細い三本が電線に絡み付いて、シュウを空中で固定した。


 愉悦のままに、眼下を見下ろすシュウに、ヒスイは銃口を向けた。

 鋭利な殺意の余波が、紬の頬を刺してくる。

 だが、ヒスイは狙いを付けたまま微動だにせず、引き金を絞ろうとはしなかった。

 考えがあっての事だとは、紬も理解している。

 実際に狙いを付けてから、まだ三秒も経っていない。

 しかし体感する時間としては、一秒すら何百倍にも膨張して感じられ、ついに紬はねだるように声を上げた。


「ヒスイ様! 早く撃ってください!」

「狙いが……」

「的は、大きいですよ!」

「精霊に当てるわけには、いかんさね」


 人狩りは、人を狩れるが、人以外を狩ってはならない。

 それが理であり、殺す権利を与えられた者に課せられた絶対的な一線だ。

 万が一、精霊に弾が当たり、殺してしまうような事があれば、ヒスイは精霊殺しの大罪人となってしまう。

 シュウが銃口を前にして、電線に絡まって留まるのは、人狩りの掟を見抜いているからに他ならない。


 撃てるものなら撃ってみろ。


 いざとなれば精霊を盾に逃れるさ。


 とでも言わんばかりに、シュウの眼光が暗い光を放っている。

 卑劣な手段を厭わず使ってくる相手を迂闊には撃てない。

 ヒスイは、銃口を下すと、コートのポケットに左手を突っ込んだ。

 シュウは、降伏宣言と取ったのか、ヒスイと紬に背を向ける。

 彼の行いを前に紬は、その浅ましさへの嘲笑を隠さなかった。

 ヒスイに宿る殺意が消え失せていない事に、シュウは気が付いていない。


「貴重品なんだが、言ってられん」


 ぼやくように呟いてヒスイが取り出したのは、小鳥の形をした折り紙だ。

 大きさは、雀の半分ほどで。茶色く薄汚れており、樹液に似た甘い芳香が微かに香ってくる。


「かわいいですけど……役に立つんですか?」


 恐らくは、小銃をも超越したヒスイの切り札のはず。

 だが、とっておきと言う割には、随分と愛らしく、頼り気がない。


「そうかね。俺にゃ、こいつが怖くて仕方がない」


 ヒスイが折り紙に、吐息を吹きかけた途端、折り紙から黄金色の蜜が滲み出してくる。

 陽光の光にも似た輝きを放ちながら溢れた蜜がヒスイの手から零れ落ち、足元の石畳に落ちていく。

 蜜の落ちた石畳が蜜を吸い込むと、突如ひび割れ、小さな秋桜が石畳を突き破りながら咲き乱れた。


 蜜が一滴落ちれば一輪、二滴落ちれ二輪と、次第に数を増していき、ヒスイを囲むように、秋桜の花畑が姿を現す。

 花に見とれていた紬が、鳥に目をやると、それは既に人の身の丈を超える翼を広げて、ヒスイの左腕を両足でがっちりと掴んでいた。

 最早小鳥ではなく、鷲や鷹等、猛禽類の気高さを纏い、蜜で出来た眼でシュウを凝視している。


「狩れ」


 ヒスイの一声で紙の大鷲は羽ばたき、疾風の追随を許さぬ速攻で、シュウの頭を両足で鷲掴みにする。

 我霊の触腕が大鷲を引き剥がそうと伸びた刹那、シュウの左胸を夥しい熱量が貫いた。

 数瞬遅れて届いた破裂音をシュウの耳が拾う事はなく、力なく石畳に墜落したシュウの身体に蜜に塗れた紙片が雪のように降り注いでいく。

 既に大鷲の姿はなく、残されたのは、男の遺骸と微動だにしない触腕の群れ、そして咽るように濃い蜜の甘い香りであった。


 ヒスイは、シュウに近付くと、首筋に指を当てて脈を取る。

 しばらくそうしてから、ヒスイは紬を一瞥し、小さく頷いた。

 近付いても大丈夫と言う合図と悟り、紬はシュウの亡骸に近付き、傍らに落ちている蜜塗れの紙片を一つ拾い上げた。


「ヒスイ様。これは?」

「精霊が、大樹の蜜を染み込ませて、作ってくれた折り紙だ。一時生命を得て、主の命を受ける」

「密虫と同じ原理ですか?」

「本質的にはな。とは言え、より精度の高い高級品だよ」


 ヒスイは、紬の持つ紙片をそっと手に取り、名残惜しそうに眺めた。


「ただ作れる精霊は、一人しかおらんし、一つ作るのに、数年かかる。俺以外にも制作を依頼している者も多くてな。次に手に入るのは、何十年先か」


 ヒスイが重苦しい嘆息を吐き出した途端、突如触腕がうねり出した。

 咄嗟にヒスイを盾に隠れる紬であったが、当のヒスイに警戒の色はない。

 次第に触腕の動きは、激しくなり、


「何という事を」


 くぐもった声が上げながら、シュウの身体から触腕が離れた。

 よくよく見れば、触腕が伸びる根元に、南瓜ぐらいの大きさをした球状の身体があり、牛の耳を持った兎の頭がついている。

 兎の目は、人間の物であり、瞬きながら涙を流している。


「すまぬ。すまぬ。人狩りよ。すまぬ」


 ヒスイは、泣き続ける精霊を抱え上げて、笑みを浮かべた。


「謝るのは、こちらの方です。元の住処へお帰りください。縛ってしまい、同じ人として謝罪します」

「人狩りよ。人狩りよ。すまぬのう。すまぬのう」


 繰り返し謝罪しながら、精霊は、シュウの亡骸を愛おしそうに見つめた。


「あれは憐れな男なのじゃ、あれは酷く憐れな顔をしておるのじゃ」


 そう言い残して、精霊は、霞のように溶けて行き、ヒスイの腕から消え失せた。

 ヒスイは、しゃがんで、シュウの面の皮を摘まむ。

 ずるりずるりと、熟れた柿の皮みたいに、シュウの顔は、容易く剥がれていく。

 きっと尋常のモノではない光景を目の当たりにする。

 そんな確信を抱きながらも、紬の中で、好奇心が勝り、目を離せなかった。


 ヒスイが皮の仮面を剥がし終えると、現れたのは醜さなど欠片もない、ぞっとするほど美しい男の面立ちであった。

 年の頃は、四十の半ばであろうか。

 目元には微かに皺があるものの老いとは映らず、熟れた色香となって、シュウの美貌に花を添えているようだった。

 精霊たちが口を揃えて憐れむ顔ではないように思える。


「とても男前な方に見えますが、これも誰かの皮なのですか?」

「いや。シュウの自然の顔だ」

「でも、精霊の方は、酷く憐れな顔だって」

「憐れとは言っても、醜いとは、誰も言わなかった。若い頃は、誰よりも美しい男だったんだろう。だが美しさに陰りが見え、狂気に走らせた。老いを受け入れられないのは、美しいが故。心持すら歪めてしまうのだ」


 美しくなければ、老いに苦しむ事も、狂気に歪む事もなかったのかもしれない。

 だが、美しさにしがみ付くからこそ、人なのだ。


「精霊からすれば、酷く憐れな顔に違いないさね」


 紬がシュウに向けていた嫌悪の内、小さな一片が憐みへと姿を変えていた。







 シュウの狩りの二日後、ヒスイと紬は、依頼者である秋雨の元を訪れていた。


「終わったかね。あれは、やはり人をも手に掛けておったか。憐れな男よ」


 秋雨は、ヒスイから受け取った薬莢を眺めながら苦笑を零した。


「私もついに、これを受け取る日が来たか」


 ヒスイは、先日、巨狼の依頼を叶えた時にも、薬莢を渡していた。

 最初は、気に留めなかったが、二度目となると意味を知りたくなってくる。

 紬の意を感じ取ったのか、秋雨は、薬莢を弄びながらヒスイを問い詰めるような眼差しで射抜いた。


「これの意味を教えてないのかね?」

「聞かれてないからな」

「まったく、意地の悪い」


 秋雨は、呆れたように眉尻を下げ、紬を見ると一転朗らかに表情を崩した。


「お嬢さん。こいつはね、ヒスイなりのいじわるさ」

「いじわる、ですか?」

「依頼者に渡す意とは、なんだと思う?」

「意味するところ、ですか?」


 薬莢を渡す意味。

 いざ聞かれると、良くは分からない。

 旧文明の頃の習わしなのか、人狩り全員がやるのか、それともヒスイだけが行う事か。


「分かりません――」


 と、観念しようとした瞬間、秋雨が被せるようにして言った。


「殺しの証よ。薬莢を渡すという行為は、引き金を引かせたのは、お前だと思い知らせる事」


 精霊は、人を狩れぬ。

 獣は、人を狩れぬ。

 狩れぬ者の代わりに、狩るのが人狩りの仕事。


「引けぬ我らの代わりに引いた証。我らの意志がヒスイに引き金を引かせた証。実に意地が悪かろう?」


 狩れぬとは、自らの手では、狩れぬという事。

 けれど言葉で頼む事は、理には反しない。

 なればこそヒスイは、一人で背負う事はせず、狩らせた者にも責任を分け与えるのだろう。


「他の人狩りは、こうはせぬがな。だからこそ、我らには、ヒスイが好もしいのさ。並大抵では撃たぬ。黄金を前にしてもぶれぬ。だからこそなのだ」


 金を前にしてもヒスイは、引き金を引かない。

 狩るに足る者しか狩らず、責は必ず依頼者にも背負わせる。

 故にヒスイは、精霊から好かれるのだろう。

 人にも、獣にも、精霊にも、ヒスイは平等に接しているから。


「ヒスイよ、いずれまた。今度は友として会おうぞ。酒か、あるいは、もっと良い物を交わそうぞ」


 秋雨の提案にヒスイは、苦笑とも微笑とも取れる曖昧な表情を浮かべている。


「気が向けば、それも良いかもな」

「主の気が向くのは、果て何年先か」


 秋雨は、呆れ顔で手の中の薬莢を見つめている。


「次は、例の場所へ?」

「輪廻草が使われたのが、あんたの予想が当たっとる証拠さね」


 秋雨の予想とは?

 ヒスイに尋ねようと思った紬だが、目的地へ辿り着けば、自然と分かると踏んで、何も言わなかった。


「いずれまた。お嬢さんも元気で」

「はい。秋雨様もお元気で」

 

 ――また会いたいな


 秋雨との再会を願いながら、手を振ると、秋雨の口元が綻んだ。

 その表情は、故郷の母を紬に思い出させた。

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