第二章 輪廻草と大樹の蜜 その五
定食屋での食事を終えたヒスイと紬は、シュウと呼ばれる男の屋敷に向かった。
シュウの屋敷は、町の中心部にあり、紫電樹で最も大樹に近く、最も広い敷地に建てられている。
二階建て、三階建てが珍しくない紫電樹にあって、平屋であり、また石や煉瓦ではなく、木造だ。
塀は、木製の縦格子であるが、ヒスイは、縦格子を指でなぞりながら、したり顔になる。
「なるほどね」
「どうなさいました?」
「材木がな。面白いもんさね」
「材木?」
「まぁ聞いていてくれ」
と言った途端、ヒスイは、縦格子を平手で叩いた。
随分と強く叩いた様子だったが、音が響く事はない。
「どうだね?」
ヒスイが何をしたかったのか、紬の理解は及ばなかった。
「どうと言われましても……」
「なら、もう一度」
ヒスイは、再び縦格子を叩く。
しかしこれと言って、何かが起きるわけではなく、先程とまったく同様である。
またもヒスイは、縦格子を叩いたが、やはり今までと同じだ。
けれど三度目で紬は、ようやく気付く。
「音がしない?」
「正解」
ヒスイは、笑んで頷くと、縦格子の木材を軽く拳で叩いた。
普通ならコツコツと小さいながらも音がするはずだが、如何なる音も聞こえてこない。
「振食と呼ばれる木だ」
「振食?」
「音は、噛み砕いた表現をすれば、振動だ。振食は、振動を栄養素にして育つのさ」
「音を食べるという事ですか?」
「厳密には違う。こいつは、あらゆる振動を喰うのさ。大地震なんかは、最高の餌さね」
「でも地震って大和では、めったに起きないのでは?」
紬が読んだ本には、そのように書いてあったし、生まれてから十数年の間に、地震を経験した事はなかった。
「実は、大和は、古来地震が多発する土地だったそうな」
「そうなのですか?」
「だが、大樹が生まれ、大樹から振食が生まれ、地震は起きなくなった。これは振食が地脈にまで根を伸ばし、地震が起きた時、地表に影響が出る前に、揺れを喰っちまうからさね。だから振食がよく育った時には、地下が激しく揺れていた証拠とも言われる」
ヒスイは、言いながら振食で出来た縦格子に拳を叩きつけたが、一切の音が生じる事はなかった。
「材木になったら、さすがに成長はせんが、振動を喰らう性質は消えん。防音材として、この樹木ほど優れた物はない」
ヒスイの解説は、理解出来た紬だったが、理解したからこそ生まれた疑念が一つある。
「でもどうして、そんなものを使っているんですか?」
「中の音が外に漏れんようにだろう。振食は、木材にすると檜に似ているから遠目じゃ見分けが難しいんだが、恐らく屋敷に使われている木材全てが振食だろう」
ヒスイは、紬の手を引いて、門を潜った。
「紬、俺から離れん事だ。どうやら面倒な仕事になる」
紬は、無言で頷いた。
ヒスイが紬の手を引いたまま屋敷の玄関前に立つと、引き戸が開かれる。
やはり音はせず、玄関の戸も振食で作られているらしい。
戸を開いたのは、ボロを纏った男だった。
顔には、幾重にも包帯が巻かれており、茶の染みが所々を汚している。
鬼灯のように充血した瞳と、剥き出しになった黄ばんだ歯だけが包帯に隠れておらず、ぬらぬらと淀んだ光を放っていた。
「どちらさまで?」
明瞭としない声で、男は、たどたどしく言った。
随分と話し辛そうだ。
「人狩りのヒスイという者だ。ここにシュウと言う方が居ると聞いたのだが」
「人狩り? そんな方が主人にどのような?」
「理由は、直接本人に言いたい。居るかね?」
男は、唸りながら鬱陶しそうに眼を掻き毟っている。
――この人、瞬きをしていない?
紬が訝しんで居ると、男は目を擦ったまま、ヒスイと紬に背を向けた。
「では、今から聞いて参ります。少々お待ちを」
言われるまま、ヒスイと紬が待っていると、数分もしないうちに男が帰ってきて、
「お会いになるそうです。応接間へどうぞ」
屋敷の中に通され、男の案内に従い、ヒスイと紬は、廊下を進んでいく。
床も壁も天井も、同じ材質の木材が使われており、一見すると檜にしか見えなかった。
やはりこれも振食を使っていると思っていい。
何故シュウは、これほどまでに音に敏感なのか?
屋敷の中で何が行われているのか?
きっと密蜂の中で行われていた精霊の奉仕よりも、浅ましい何かだ。
紬は、ヒスイのコートの裾を力強く握り締め、寄り添いながら歩いていると、突如男が立ち止り、障子戸を開いた。
「ここで主人がお待ちです」
応接間は、廊下とは違い、畳が敷かれており、壁も漆喰である。
天井だけは、やはり振食で出来ているようだが、電灯の類は見受けられない。
電灯の明かりを使わないのは、紫電樹において珍しい事だ。
中央に紫檀で出来た座卓が置かれており、そこに一人の若い男が座している。
彼がシュウであろう。
精霊たちは、憐れな顔をしていると話していたが、一見すると女子のような水気を孕んだ美しい男であった。
黒い着流しをふわりと纏った姿は、男ですら、見惚れさせるかもしれない。
「どうぞ。腰を下ろしてください」
シュウの提案に、ヒスイは従わなかった。
そんなヒスイを見て、紬も下ろしかけていた腰を強引に立たせた。
「あんたがシュウかい?」
ヒスイは、シュウをまっすぐに見つめつつ、肩から下げた小銃の入った袋に手を掛けた。
「ええ。そうですが」
シュウは、笑んでいるが、紬はシュウが心底から笑みを浮かべているようには、感じられなかった。
紬の語彙で適当な言葉を選ぶなら、空虚であろうか。
感情を知らない何かが、それらしい真似事をしている。
人間ではない何かが、人間らしく振舞おうとしている。
笑顔のような物であり、笑顔ではない。
空の笑みを浮かべ続けるシュウの感情は、読めない。
しかしヒスイも、内心を悟らせる事を拒絶するかのように、空っぽの破顔をしている。
腹の探り合いは、そのまま暫し続き、先に口火を切ったのは、シュウであった。
「人狩りとは、珍しいお客だ」
「ヒスイと申します」
「誰ぞに私を狩れとでも?」
シュウの言葉に、紬の肩が跳ね上がる。
「おや。お嬢さんは正直だ」
――やってしまった。
反応してしまった自分を責める紬だったが、ヒスイは、紬を咎める事はせず、ひたすらにシュウを見つめたままだった。
「まぁ、そういう事です」
あっさりと認めたヒスイに対し、シュウは動揺を見せなかった。
「人狩りとは、必ず狩る相手の前に現れるものなのですか?」
などと、軽口を叩く始末だ。
「状況によりけり、かね」
ヒスイは、小銃を取り出すと、空になった袋を紬に手渡してきた。
「ご存知でしょうが、依頼を受けたからと言って人狩りは、必ず狩りを行うわけではない」
「存じています。狩るに足るかをご自身の目で見定めるのでしょう? では、ヒスイ殿。私は、如何かな?」
「何とも言えませんな。仮面を被っていては」
シュウの顔色が微かではあるが、曇った。
「仮面とは?」
表情以上に、声音に乗る動揺は深い。
もっとも指摘されたくない部分をヒスイは、見事に射抜いたのだろう。
だが、紬には、仮面と言う言葉の意を上手く解釈する事が出来なかった。
もちろん言葉の意味するところは知っているが、それがシュウと、どのように関係しているのかだ。
そんな紬の抱いた疑問を見透かしたように、ヒスイは言った。
「気に入った顔があると、剥ぐのでしょう?」
「剥ぐ?」
紬が思わず呟くと、ヒスイは、視線をシュウに向けたまま続けた。
「大樹の樹液を糊にすれば、顔にもよく張り付くし、他人から剥いだ皮が腐る事もない。表情らしきものも作れるだろう」
紬が感じたシュウの笑顔の違和感。
真実は、雪のように冷たい汗となって、紬のうなじを伝い落ちていく。
「ヒスイ様、顔を剥がれた人って……」
「当然死ぬだろうな。あるいは生きていても人形にされるのさ。大樹の樹液を悪用すれば、それも容易い」
「人形って……」
思い当たる節が紬にはあった。
ヒスイと紬を出迎えてくれた男である。
彼の包帯に巻かれた顔の中で唯一外に出ていた充血した瞳と黄色い歯。
彼は、瞬きはせず、瞳を掻き毟り、歯を剥き出しにして酷く喋り辛そうにしていた。
瞼や唇がないせいでは、ないだろうか?
だとしたら、彼の瞼や唇は、一体何処に?
「まさか……ヒスイ様」
「まさかだよ、紬。精霊との交わりを餌にして、釣れた連中の顔を剥ぎ、自分の物にするんだろ? その為だけに密蜂を生み、精霊を捕え、人の顔を剥いできた」
悍ましい真実を突き付けられたシュウだったが、却って冷静になっているようだった。
自分の行いへの後悔や贖罪の念は、微塵もない。
曖昧で薄ら寒い笑顔とは違い、シュウの浮かべる無表情は、この上もなく、彼の男の内心を表しているようだった。
「さて、これを見逃すべきか、狩るべきか」
ヒスイは、銃口をシュウに向けた。
けれど、シュウから死への恐れは、匂いたっていない。
「狩れるものなら――」
シュウは、微笑んだ。
造ったような空っぽではなく、心底からの笑みだった。
「好きにするがいい」




