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第二章 輪廻草と大樹の蜜 その四

 紫電樹は、元々紫電の大樹と呼ばれる世界でもっと小さな二十メートルほどしかない大樹に、人々が寄り添って出来た村だ。

 やがて時を経るにつれ、大樹の恩恵に預かろうと人の出入りが増え、大和で最も栄える町の一つとなった。

 大樹を囲むように作られた円形の町には、現在三万もの民が暮らし、各地から旅行者や商売人が足を運んでくる。

 地面は、石畳で舗装され、建物も木造ではなく、石や煉瓦の造りが主だ。


 紫電樹の大樹は、松に似た大樹で、金属質の樹皮と葉を持っており、落雷を寄せ、膨大な電気を蓄える習性がある。

 その蓄えた電気を利用して、紫電樹の民は暮らしており、大樹から家々に、電気を届けるための電線が人々の頭上を網の目状に走っていた。


 学者曰く、紫電樹は、現在の大和で、最も過去の文明に近い暮らしをしている町らしい。

 ただし、以前の文明は、今の紫電樹以上に、電気に依存していたらしく、膨大な電力をどのようにして、捻出していたのかは、謎に包まれている。


 秋雨の住む塔から二日かけて、紬とヒスイは、紫電樹に辿り着いた。

 ちょうど昼時の頃であった。

 初めて見る栄えた街並みと行き交う人々に、紬の目は、新しいおもちゃを得た幼子のように輝いている。

 ヒスイは、茶色い粒を一つ、齧りながら一件の定食屋に目を止めた。

 三階建ての煉瓦造りの建物の一階部分で営業されており、二階は酒屋、三階は宿屋になっている。


「紬、腹は減ったか?」


 定食屋を指差しながらヒスイが尋ねてくる。

 紫電樹に着くまで、二日間も歩き通しだったし、道中口にしたのは、木の実や干し肉ばかり。

 本音を言えば、足を休めたいし、まともな食事をたらふく腹に詰め込みたい。

 食事処なんて村には、なかったものだから、一度でいいから入ってみたくもある。


 けれど紬は、ヒスイにとって足手まといの自覚があった。

 蔦虫の一件では、忠告を無視して迷惑をかけ、日々の食事もヒスイは、自分よりも紬の分を多くしてくれている。

 だから紬も、なるべく食べる量を減らし、疲れてもわがままを言う事は我慢した。

 やせ我慢も限界に近い。

 しかし今更曲げて、甘えてしまうのも憚られた。


「少しだけ、空いてますが……」

「遠慮しなくていい。疲れてもいるだろう」

「本当に大丈夫です」

「紬」


 名前を呼ぶヒスイの声は、珍しく強張っていた。


「大事な事だ」


 諌めるように。

 諭すように。

 本音を言わない方が、却ってヒスイの迷惑になる気がした。


「すごく……空いてます」

「そうか」


 紬が白状した途端、ヒスイがいつも通りの飄々とした声音に戻っていた。


「仕事は、飯を食ってからにしよう」


 ヒスイが定食屋の紫檀で出来た扉を開けると、ふうわりと良い香りが紬の鼻をくすぐった。

 煮詰まった醤油の香りに、魚の焼けた油。他にも嗅いだ事のない多様な匂いが重なり合って、嗅げば嗅ぐだけ腹が空いていく。

 店内には、二十ほどのテーブルがあり、半分が既に埋まっている。

 天井には、電灯の明かりが灯っており、紬にとって初めて見る人が作り上げた光は、特に目を引いた。


「いらっしゃい!」


 小袖と袴姿の若い女性が、活気のある声が出迎えてくれ、ヒスイは、窓際の席を指差した。


「あそこ、いいかね?」

「どうぞ!」


 女性の了解を待ってからヒスイと紬は、窓際の席に着いた。

 紬は、本でしか知らないテーブルという家具を見るのは、初めてであり、好奇心に任せて撫で回す。

 ニスのすべすべとした手座りは、新鮮でいつまでも触っていられそうだ。


「さてと、何を食べるかねぇ」


 ヒスイは、テーブルの上に置かれていた革張りの品書きを開いて、紬に見せてくる。

 一番品数が多いのは卵料理で、次いで魚料理だ。

 現在の大和では、以前の人々のように、獣肉の類は殆ど口にしない。

 獣の狩りは、禁じられているし、人が獣肉を口に出来るのは、寿命による死期を悟った獣が自らの肉を他の生物の糧として捧げた時ぐらいだ。

 この時も、病であれば、他の生物へ病を広げないため、肉を提供する事はなく、人に頼み、亡骸を焼いて処理してもらう。


 魚は、獣とは違い、言葉を発する事もなく、知恵が発達する事もなかったため、以前の文明同様、食されている。

 海にまでは大樹の影響もなく、恩恵にも与れないため、獣のように変じなかったのではないか、と言われている。

 川魚に関しては、生涯を川で終える魚に限って、獣同様、人語を操るが、通し回遊を行う魚については、この限りではない。

 そのため人は、通し回遊を行わない川魚は食さず、それ以外の魚全般を食する。


 卵に関しては、鳥にとって羽化しない無精卵は価値がなく、人の育てる作物との交換に使えるため、実質的な貨幣としての扱いである。

 人からすれば、天候や海の状態で不良になり、安定的とは言えない魚より、鳥たちから安定的に供給される卵が主要なタンパク源となっていた。


「紬。どれがいい?」


 紬は、即答出来なかった。

 卵だけでも、卵焼き・オムレツ・目玉焼き・野菜と煎り卵の炒め物等あるし、魚も単なる塩焼きから、蒸したり、揚げたり、村では口にする事の出来なかった調理法が並んでいる。


「少し考えてもいいですか?」

「ごゆっくり」


 紬は、ヒスイから品書きを受け取って凝視する。

 どちらかと言えば、魚よりも卵が好みだ。

 しかし天ぷらや、洋食のムニエルも本で読んだだけで、一度も食べた事がないから捨てがたい。


「どれにしようかな……」

「二つ注文したらどう?」


 ヒスイからの魅力的な提案になびきそうになる。

 だが、紬も女だ。

 食べた分は、きっちり体形に反映される事は知っている。


「さ、さすがに。それは、太るので」

「若いんだから、気にせず、いくらでも食べればいいさね」

「誘惑しないでください。屈しそうになるので」

「では、一つに絞らんとなぁ」

「じゃ、じゃあ……天ぷら定食を」

「俺もそれにしよう。天ぷら定食二つ!」

「はいよ!」


 店員の活気の良い声が、紬の期待を煽っていく。

 一度も食べた事のない料理への渇望は、精霊となっても消えないらしい。

 まだか、まだかと待つ時間は、一分であっても長く感じられる。


「まだですかね?」

「揚げ物は、時間がかかるからなぁ」


 五分待ってもまだ来ない。


「まだですかね?」

「美味い物は時間がかかるのさ」


 七分が過ぎ、


「まだ……」

「さね」


 十分が経ち。


「まだ――」

「紬。少し落ち着きなさいよ」

「お待たせ!」


 店員の声と共に、本の挿絵でしか知らなかった料理の乗った盆が、紬とヒスイの前に、置かれる。

 紬の手では少々持て余す丼に、こんもりと白飯が盛られ、敷き紙の敷かれた皿の上には、海老・鱚・穴子の天ぷらが一尾ずつと、あとは舞茸・獅子唐・茄子の天ぷらが一つずつ。

 他に天ぷら用のつゆが入った小鉢があり、汁物は、豆腐とわかめの味噌汁で、箸休めに瓜の漬物がついている。

 黄金色の衣から香ばしい匂いが、湯気にくるまれて立ち上り、紬の食欲を堪えがたく煽った。


「おいしそう」

「普段は、俺もあまり喰わんが、美味いぞ」

「頂きます!」


 まず紬が箸を伸ばしたのは、海老だ。

 つゆにつけてから半分ほども一気に齧ると、衣がさくりと解け、ぷるっと弾力のある身から旨みと油が混じり合い、口の中を広がっていく。


「おいしい!」


 残った海老を平らげ、次に鱚を頬張った。

 こちらも衣の心地良い食感と、鱚のほろりとした身が合わさり、心地良さすら覚えさせる。

 まだ口の中に残っている風味を追いかけるように飯をかっ込んだ。


「ご飯に合う……」


 飯が虚穴にでも吸い込まれるように進んでしまう。

 どんぶり飯を見た時、紬は食べ切れないかもと、幾ばくか不安を覚えたが、杞憂に終わる事を確信した。

 まるで男児のように、天ぷらを食べ進める紬を眺めるヒスイは、気分良さげにしている。


「たくさん食べな」


 紬に聞こえるか、聞こえないかの声量で呟き、ヒスイは、穴子に箸を付けた。

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