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最終章 青い果実 その三

 蛇時雨の北東に位置する迷いの森は、春の盛りだった。

 暖かい陽光を受け、青々と育った木々の下、牡丹一華・馬酔木・花韮等が咲き誇り、森を彩っている。

 迷いの森と呼ばれるのは、立ち入ると出る事が難しく、反対に再び訪れようとすると、何故か辿り着けない事からそう呼ばれるようになった。

 森の存在を知る蛇時雨の住人は、子供であっても付近には近寄らないが、事情を知らない旅の者が時折訪れ、難儀してしまう。

 深更の空に満月が照り、人の目でも歩くに難儀しないその日の夜、紬とハルの暮らす小屋を和装姿の若い夫婦が訪ねてきた。


「どうされました?」


 ハルが出迎えると、夫婦は二人で息を合わせたようにお辞儀してきた。


「妻と旅をしているのですが、夜道で迷ってしまい、難儀しています」

「それは大変だ。さぁ、どうぞ」


 ハルが夫婦を小屋の中に迎え入れると、二人は草鞋を脱いで居間に上がった。

 今の中央にある囲炉裏の前には、紬が座しており、夫婦を見やって会釈した。


「妹さんかしら?」


 妻の方が尋ねると、ハルが答えた。


「ええ。母違いの」

「だから髪と瞳の色が違うのね。北方の方かしら?」

「妹の母が、そうでした」


 ハルは、木匙と漆の椀を四つずつ持って紬の隣に胡坐をかくと、囲炉裏の自在鍵にかかっている鍋を指差した。


「さぁ、どうぞ。口に合うかは分かりませんが」


 ハルの勧めで夫婦な遠慮がちに、ハルと紬と向かい合うように並んで座した。

 夫の方が鍋を覗き込むと、中ではシチューが煮立っている。


「こりゃ珍しい。洋風の料理ですか」

「妹の得意料理でしてね」


 夫婦は、漆の椀と木匙を受け取り、シチューをよそい、口に運んだ。


「美味しいわ。妹さん料理上手なのね」

「こりゃいいお嫁さんになるよ。うちのにも見習ってほしいよ」

「失礼ね!」


 夫婦のじゃれ合いを嬉々として眺めながら紬は、シチューを一匙、口に含んだ。

 その途端、微笑は消え失せ、紬は立ち上がると、押し入れに向かって歩き出した。

 ハルもシチューに口を付けるや、眉尻を下げ、不快感に唇を歪めている。


「やはりシチューはまずいね」

「そうかしら? とても美味しいですよ?」

「僕は、気に入りましたよ」


 訝しむ夫婦を見つめながら、ハルは手にしていた木匙をシチューの入った鍋に投げ捨てた。


「我ら二人には、俗世の喰い物が如何にまずいかを知らしめる手段なんです。食とは、快楽ですよ。紬、そうだろう?」

「ハルさんの言う通り」


 頷く紬の手には、錆びた鉈が握られている。


「真の美味を知れば、人は抗えない」


 夫婦が狂気の存在に気付き、生じた数瞬の怯み。

 人の反射速度すら置き去りにして、紬は距離を詰め、鉈を振るった。

 精霊と化した膂力は、錆びついた鉈を名刀の切れ味に等しく変じさせ、夫婦の首を一撫でに切り落とした。

 噴き出た鮮血がシチュー鍋に注ぎ、紅色に彩っていく。

 紬は鉈を捨てて、右手で夫の襟首を持ち、左手で落ちた頭の髪を鷲掴みにした。

 ハルは、妻の方を同じようにして持ち、二人は小屋を後にする。


 足が向くのは、迷いの森の北東。

 紬の髪と同じ色の月光が降り注ぐ中、一時間ばかり歩くと人の背丈ほどの小さな木が一本、赤い花に囲まれて生えている。

 赤い花は、十三の菱形の赤く小さな花弁で、紬の目線の高さにある。

 花自体の大きさは、紬の小指の爪ほどで、茎も針金のように細い。

 輪廻草である。


 その中央にある木は、大人の男の腕ほどの太さで、捩じれながら伸びている。

 枝には、葉が一枚も生えておらず、傍目には枯れ木に見えた。

 紬とハルが、夫婦の亡骸を木の根元に置くと、根が蛇のようにうねりながら幾百も地面を突き破り、夫婦の亡骸を貪るように包み込んだ。

 暫く待つと、根は解けて地中に帰り、残されたのは、夫婦の着ていた着物の切れ端だけであった。


 さらに待つと、一番太い枝先に小さな青い果実が二つ実ってみるみる膨らみ、ハルの手に余る程大きく育っている。

 紬とハルは、一つずつ手に取ると、たまらない様子でしゃぶり付き、青い果汁で口元をべしょべじょに濡らした。

 果実は、ものの数秒で二人の手の内から無くなり、掌に残った汁を名残惜しげに舐めながら紬が言った。


「もうなくなってしまいました」

「心配は、いらないさ。また人がここに来る。一度迷い込んだら出られない」


 ハルは、輪廻草の一輪に手を伸ばし、切なげな指付きで花弁を撫でた。


「人の血を吸って育つ輪廻草は、精霊を惑わせず、人をよく惑わせる。辿り着きたい者は辿り着けず、辿り着きたくない者は辿り着く。故にあの人狩りは、ここへは来れぬ」


 ヒスイは、一度小屋を訪ねて以降、二度と来る事はなかった。

 辿り着きたい者は、辿り着けない故だろう。

 しかし紬は?

 逃げ場所を求め、走り続ける内に、ハルと出会った。

 紬は、精霊成りだが、根本は人のまま。

 ならばハルの元に辿り着いたのは、ここが紬にとって辿り着きたくない場所だからではないだろうか?


「紬。お前に出会えてよかった」


 それでも紬の居場所は、ハルの傍しかない。

 ここで生きる以外、狩られずに済む場所はないのだから。


「果実の甘露を分かち合えるのは、お前だけだ」


 ハルは、紬に向き直ると、あどけない身体を抱き寄せ、愛でるように背中を擦った。


「どこにもいかないでおくれ。ずっとここに居ておくれ。私は、お前が居ない日々を思い返すと、寂しさに殺されそうになる」

「紬の居場所は、あなたの隣だけです。どこにも行きませんよ」


 狂気の群れに飲まれようとも、紬が居られるのは、ここだけ。

 ただ一つ、不満があるとすれば、


「けれど、最近は、お腹が空いて仕方ありません」

「ああ。収穫が少なく、腹が膨れないな。何故だろう? 何時もなら、もっと人が来るのに」


 ヒスイの来訪から数週間が過ぎた頃から、迷い人の来訪がめっきり減ったのである。

 紬がハルと暮らし始めた頃には、数日置きに迷い人が訪れ、青い果実をたらふく食する事が出来た。

 しかし人の迷い込む間隔が開いていき、今では青い果実を食べるのは、週一度か、そこら。

 収穫がない時は、当然果実以外の物を食する。


 迷いの森は、肥沃な土地で、冬ですら食べるには難儀しない。

 だから最近は、春の豊かな食材を使い、さまざまな料理を試していたが、二人の舌が満足する事はなかった。

 ある日は、紬が問ってきた桜鱒を炭火で塩焼きにしたが、


「まずいですね」

「ああ、果実が食べたい」


 ある日は、ハルが取ってきた山菜を天ぷらにしてみたが、


「油がくどくて美味しくないです。果実が恋しい」

「食べられたものじゃないな。果実はまだか。旅人はまだか」


 ある日は、卵焼きを作ったが、これもやはり、


「もどしてしまいそう。果実が欲しい」

「気持ちが悪い食べ物だ。果実が喰いたい」


 どんな美味も二人の舌は受け付けず、あの夫婦を最後に旅人が来ないままま、気付けば夏になっていた。

 夕焼けで蒸された小屋の中で、紬は痩せ細った身体を横たえて天井を見やり、ハルは土間にしゃがみ込んで、虚ろな瞳で玄関を眺めている。

 そんな日々を過ごしていたある日、紬の鼻腔にかぐわしい香りが滑り込んできた。


「この匂い……」


 肉の焼ける匂いのようであった。

 何と甘美で、蠱惑的なのだろう。

 干からびた口内が数ヶ月ぶりに唾液で潤っていく。


「ハルさん、美味しそうな匂いが」

「匂い?」

「外から」

「本当だ。美味そうだ」

「ええ、美味しそうな――」


 紬は、自分の感覚を疑った。

 青い果実以外は、何も受け付けなかったのに、何故肉の焼ける匂いをこうも愛おしく思うのだろう。

 どうして今更肉などを美味そうだと思うのだろう。

 違和感に背中を押され、紬は、裸足のまま小屋を飛び出した。


 匂いを辿り、迷いの森を走り抜ける。

 慣れた道故、今の紬は、迷わず森のどこへでも行けた。

 匂いが強くなる内、比例して紬の不安が膨らんでいく。

 所々に生える葦の葉に擦れ、手や足首が切れる。

けれど痛みを感じられないほど、紬の頭は、一つの事柄に支配されていた。

 匂いのする先にある物――。


「ああ! そんな!」


 青い果実のなる木と輪廻草が燃え盛り、空に向かって、白煙を上げている。

 呆然とし、紬は、その場に膝から崩れて落ちた。


「どうした紬!」


 背後から春の声が響き、紬が振り返ると、彼も焼ける木と輪廻草の姿に瞳を揺らした。


「なんで、こんな事に? 僕の大切な……」


 もう二度と、あの美味を味わう事は出来ない。

 あれ以外は、身体が受け付けないのに。

 誰が焼いたのだ?

 どうして焼かれたのだ?

 あれほどの美味をどうして失う必要があったのか?


「ハルさん。これからどうすれば」


 青い果実が食べられないのなら。餓死する以外に道はない。

 空腹のせいで解決策が浮かばず、ハルを頼る以外にないと思った。

 しかし――。


「紬。お前のせいだ」


 ハルの瞳に暗い情が宿っている。

 数ヶ月の暮らしの中で、初めて紬に向けられる感情だった。


「父さんや爺さんが大切にしてきた木を……お前が来たせいで、こんな事に」


 殺意。

 敵意。

 害意。

 全ての責を紬にあると思い、人の持ち得るあらゆる後ろ暗い気配をぶつけてくる。


 ――殺される。


 紬の脳裏を予感が過り、気付けば紬は、地面を蹴り、宙を舞っていた。


 ――殺されるぐらいなら。


 眼下のハルを目掛け、落下の勢いを活かし、突き出した右手は、ハルの腹部を容易く穿った。

 傷口から弾ける臓腑に爪を立て、力の限り引きずり出す。

 ハルは、痙攣する両手を紬に伸ばし、潰れた声で懇願した。


「助け……」


 紬の耳には、届かなかった。

 精霊と化した膂力は、容易く人体を腑分け、ついにハルは、肉塊へと変り果てる。

 両手にまとわりつく血を舐め取り、紬は、小腸へと手を伸ばした。

 そぶり、と噛めば、甘く美味な油が口へと広がる。

 

 ――肝臓はどうか?


 こびり付いた土を払い、歯を立てると、これまた得も言われぬ上品な歯ざわりだ。


 脳も。


 ――美味也。


 目玉も。


 ――美味也。


 胃も。


 ――美味也。


 どれも得難い美味也。


 ――嗚呼、甘露。

 

 月が中天にかかる頃には、ハルであったものは、全て紬の腹の中に納まっていた。

 血の塩気が喉を乾かし、水気を欲しがらせた。

 紬は、満腹感に腹を擦りながら森を南下する事にした。


 迷いの森の南側に、川が流れており、ハルと暮らしていた頃は、いつもそこで飲み水を汲んでいる。

 裸足には川辺の小石は鬱陶しいが、紬は、気にせず川縁まで歩き、しゃがみ込む。

 煮沸せずとも飲めるほど綺麗な水で、月の光の跳ねる水面は、鏡のように紬の姿を映し込んだ。


 銀色だった髪は、根元から黒に染まり、毛先以外は、精霊成りとなる以前に戻っている。

 輝くように白かった歯と瑞々しく輝いていた爪は、果実の汁で蒼く染まり、すずから譲り受けた桜色の小袖は果実の汁で紫に、藍色の袴は土と乾いた血の茶に染まっていた。

 北方の民と見紛う程の碧眼も、今は褪せて薄黒く色づいている。


「なにこれ?」


 紬の見つめる異形は、人でも、まして精霊でもない。

 しいて言い表す言葉があるなら、人の黒い想いと、精霊に力に溺れて成れ果てた者。

 これを人は、精霊成りと呼んだのだろう。

 だからヒスイは、狩ろうとしたのだ。

 浅ましと化す前に、綺麗なままの紬を守るため。

 紬は、水面に映る自分から逃げ出すように駆け出した。


 小石に、小枝に、木の葉に、足の裏がズタズタと引き裂かれ、血が滲んでも止まらずに。


 日が昇り、落ち、また昇り、けれど一睡もせず、止まらずに。


 空腹に耐えかねた胃に穴が開き、渇きに喉が裂けても、止まらずに。


 間もなく初秋に差し掛かる頃、見慣れた景色にようやく足を止めた。


 故郷の村を去る時、通ってきた大樹の若木の森である。

 紬が木々の一つに歩み寄り、目を凝らした。

 木肌は、磨いた白石のような艶がありながら、ざらざらと蠢いている。

 大樹の若木であると確信し、紬が森に入ると、足元で軋むような音が鳴った。

 時折水の流れるような音が耳まで登ってくる。

 大樹の若木が道案内をしてくれているのだ。

 案内に従い、紬は歩を進めた。


 空は葉と枝に覆われ、太陽の輝きは届かないが、葉の一枚一枚が白く淡々とした光を放ち、昇り始めた朝日のように眩しかった。

 光に目を細めながら、紬は、想う。

 故郷に帰ったら何をしよう?

 何処から話せばいいのだろう?

 何を話せばいいのだろう?

 こんな浅ましい姿と化した娘を愛してくれるのか?


 自問しても答えは出ない。

 けれど大樹の若木が案内してくれるのならきっと、そこには紬にとって素晴らしい事が待っているはずだ。

 そんな願いが叶ったかのように、故郷へと道に立ちはだかる男が一人。


「ヒスイ様」


 紬が誰より望んでやまなかった人がそこに居た。

 手には小銃を持ち、けれど紬を見つめる翡翠色は、慈愛に満ち溢れている。


「久しいな」


 紬にあるのは、安堵であった。

 だから恐れず、あの頃のような笑顔で。


「はい。どうしてあれっきり来なかったのですか?」

「輪廻草に阻まれて入れなくてな。ここで待っていればと思ってね」

「何でもお見通しなのですね、ヒスイ様は」

「違うさ。あの男が何をしているのか、知ったのは森を出た後だった。迂闊だった。もっと注意を払うべきだった」

「青い果実の木に、火を点けたのはヒスイ様ですか?」

「土竜の大将に頼んでね。あれは、産実うぶみと言ってな。根で人の血肉を分解し、果実として再構成する。あれになる実は、人の赤子の味がするという」


 ハルの肉を喰らった時、青い果実と同じ充実感と美味が紬の身体を震わせた。

 あの特有の甘露は確かに、同じ物であったのだ。


「私の心は、壊れています」


 抗えなかった。

 あの美味に。

 死への恐怖に。

 だから森に残り、ハルの狂気に加担した。

 自分の欲の為だけに。


「私は、ヒスイ様が想っていた通りの、化け物でした」

「化け物なんかじゃない。人とは、そういう物なんだ。黒くもあれば、白くもある。自分の行いを後悔している時点で、やはりおまえはどうしょうもなく人なのだよ」


 だからこそ受け入れねばならない事がある。


「紬。すまなかった。俺が、最初から事情を話していればよかったのだ」

「いいえ。ヒスイ様は、最善を尽くしてくださいました。自分の起こした結果は、自分で背負います」


 紬は、小袖の懐に手を入れ、薄汚れた浅黄色の巾着袋を取り出した。

 すずが、村を出る直前、渡してくれた遅れ米が収められている小袋である。


「ヒスイ様。私を狩ってください」


 紬が小袋を差し出すと、ヒスイは受け取り、中の遅れ米を改めた。


「これで足りますか?」

「ああ。十分だ」


 ヒスイは、一つ頷くと、銃口を向け、躊躇いもなく引き金を引いた。

 胸を食い破り、突き進む熱が堪えがたい苦痛を与えたのは数瞬にも満たず、全身から力が抜け出すと同時に、紬は安息に落ちていく。

 死への恐怖はない。

 あるのは、怪物が葬られていく安堵だった。

 意識を黒く塗り潰され、崩れ落ちる紬を支えるように地面から大樹の根が伸び、抱き留める。

 ヒスイは、槓桿こうかんを引き、飛び出した薬莢を拾い上げた。

 紬の右手を開き、薬莢を握らせると、大樹の根は、繭のように紬を包み、地面へ引きずり込んだ。


「紬。おやすみ」


 ヒスイは、真っ白な表情で、そう呟くと、大樹の若木の森の奥へと消えて行った。







 月下の銀世界を貫くように生えた無数の稲穂が、ずっしりと頭をもたげている。


「珍しい。この間出来たばかりなのに、また遅れ米か」

「しかも今年は、稀遅れだ」

「めでたいのう。めでたいのう」


 村の者は、嬉々として盛大な宴に身を委ねている。

 遅れ米は、時折誰も精霊成りにしないで実る時があり、これを稀遅れと呼ぶ。

 その土地を故郷とする精霊成りが完全な精霊へと変じた時、起こるとされ、精霊成りが二度と帰れぬ故郷へする恩返しとも言われていた。

 宴会の会場に向かうべく、すずと団蔵が雪道を行く。

 ふと、すずが田畑を見つめると、たわわに実った稀遅れの稲穂の海を行く、犬とも猫とも狼ともつかない獣が居た。

 雪のようであり、月のようでもある銀色の毛色をしている。

 恐らくは精霊であろう。


「この辺りまで精霊が下りてくるのは珍しい」

「ええ、本当に」


 すずが足を止め、精霊を見つめていると、精霊もすずを見つめ返してくる。

 青い瞳は、獣のような身体とは異なり、人のようであり、


「ありがとう」


 すずは、精霊に頭を下げ、団蔵の後を追い、歩き出す。

 精霊は、すずの姿が見えなくなるまで見送り、風が穂を一撫ですると、姿を消していた。

 以後この村では、二度と遅れ米が実る事はなかったが、それを期に肥沃な土地に生まれ変わり、村の者は、以前より豊かに暮らし続けたという。

                                   おわり

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