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最終章 青い果実 その二

 紬の瞳は、捉えていた。

 朝の蒼い光の差し込む森の中で立ち尽くす紬を目指し、小さな鉛の塊が迫ってくる。

 鉛は、すずからもらった小袖の襟を引き千切り、皮膚を突き破った。

 堪えがたい熱が体内へ忍び込み、命を守る最後の砦である肋骨が粉微塵に砕け、破片が肉と内臓を痛め付ける。

 熱は、一切の慈悲もなく、肉を引き裂きながら進み、そして心臓を食い破った。

 刹那、視界の全てを闇に葬られ、如何なる意志にも指先一つは微動だにしてくれない。

 思い知らされる。

 これが生命の終わる瞬間だと――。


「ヒスイ様!」


 悲鳴を上げながら紬は、上体を起こし、周囲の様子を窺った。

 傍らには、火の消えた囲炉裏がある。

 自在鍵に掛けられている鍋の底には、白い液体や野菜のくずが僅かに残されていた。

 小屋の中には、紬以外誰も居らず、一人きりだ。

 なぜこんな場所に?

 ヒスイは、どこに?

 そんな疑問を自らに投げかけ、


「私は……逃げたんだ」


 帰ってきた答えに、落胆する。

 昨日の夜に起きた事、全てが夢であれば、どれほど楽だったか。

 今や世界中のどこにも、紬の安全が保障されている場所はない。


 昨晩は、故郷の村に帰りたい一心であったが、帰った所でどうするのか?

 妙の言うように、両親に事情を話して、一緒に逃げてもらう?

 事情を話せば、迷わずに、そうしてくれる両親だ。

 けれどそれは、両親がヒスイに狩られる対象になる事を意味している。

 迷惑は、かけられない。


 しかもここは、蛇時雨に近すぎる。

 長く潜伏していれば、いずれヒスイに気付かれる可能性が高い。

 仮にハルの協力を得られたとしても、紬が精霊成りと知りながら匿っていたのがばれたら、彼も狩られるのがオチだ。

 犠牲を最小限に抑えるためにも、紬は誰にも頼らず、永遠に逃げ続けなければらない。

 誰かに頼らず生きた経験は、紬にはなかった。


 故郷では、両親に。

 旅では、ヒスイに。

 今も、ハルに。

 料理の一つすら満足に出来ず、金を稼ぐ手段も知らない。

 子供の紬に出来る事は、あまりに少なかった。


 今ですら空になった鍋を見て、昨日もっとシチューを食べておけばよかったなどと、後悔している始末だ。

 食べ物すら誰かから与えて貰わずには生きてゆけない。

 そして尚も減り続ける腹具合が、紬に宿命を突き付けた。

 せめて腹さえ空かないようになれば、今すぐにでもヒスイの元に帰れるのに。

 結局考えているのは、誰かに頼って生きる道ばかりだ。


 ならばヒスイに運命を委ね、死を甘んじて受け入れるのか?


 それすら出来ない。

 誰かに頼らずに生きていけない。

 でも死にたくないし、自分の願望を最大限に叶えたい。

 紬には、自分が子供である事が恨めしく思えた。

 子供なりに出来るのは、ハルに迷惑をかけないようにするぐらいだろう。


 幸いハルは、外に出ているようだ。

 ハルに引き止められたら、きっと決心が鈍ってしまう。

 今の内に出て行こうと、紬が立ち上がった瞬間、玄関の引き戸を開け、ハルが小屋に入ってきた。

 背中には、竹籠を背負っており、紬を見つけると唇にうっすらと笑みを灯した。


「おはよう。身体痛くない?」

「身体?」

「布団敷かずに寝ちゃったからね。起こそうかとも思ったんだけど、疲れているみたいだったから」


 ハルは、背負っていた籠を土間に下すと、右手を中に突っ込み、何かを一つ掴んだ。


「朝ごはん取ってきたんだ」


 靴を脱いで居間に上がったハルは、紬に手にしていた物を見せてくる。

 それは、楕円状の果実であった。

 大きさは、大人の男の手に余る程。

 冷めるように蒼い果皮には、白く細かい毛が生えており、少々金臭い香りが漂ってくる。


 恐らくは、近辺で採れる自然の物であろうが、そうと断じる事が難しいのは、果実の形状があまりに均整の取れた楕円であるからだ。

 熟練の木彫り職人が、丹精を込めて削り上げたように美しい楕円は、自然物とは思えない。

 蛇時雨の大樹が近くにあるから、恐らくこれも大樹のなせる業か。

 しかし均整の取れ過ぎた形状と、金臭い香りは、お世辞にも食欲をそそるとは言い難い。

 とは言え、わざわざ食料を取って来てくれたハルの心遣いが嬉しく、紬は深くお辞儀した。


「昨日は、ありがとうございました。あとごめんなさい。助けてくださったのに、失礼な態度を取ってしまって」

「失礼な態度って?」

「食事の時、怒鳴ってしまって」

「ああ、あれかい。気にしなくていいよ。事情があるのは、分かるから」


 柔和な笑顔をハルは、向けてくる。

 このままハルと居ると、もっと甘えたくなってしまいそうだ。

 

 ――お礼を言って、今すぐ出て行こう。

 

 そんな覚悟を打ち消すように、紬の腹が音を鳴らし、空腹を強く訴えてくる。

 はにかみ、俯く紬の視線に、あの青い果実が割り込んできた。


「よかったら、食べて」


 やはりお世辞にも美味そうには見えない。

 だが、好意を無下にしてしまうのは憚れ、渋々としかし、それを表には出さずに紬は、果実を受け取った。


 手触りは、赤子の頬のように柔らかく、並の果実なら腐れていると誤解しそうである。

 果実に歯を立てると、手触りに反して弾力があり、犬歯を立ててようやく噛み千切った。

 口内に染み出す果汁は、金気の香りが強い。

 味も果実特有の甘さはなく、強く感じるのは塩味で、後味にまったりとした甘みが残る。

 甘くない果実など食べた事がない。


 だが、止まらない。

 二口目も、三口目も、意志を介さず、自然と手が口まで運び、咀嚼する。

 口の周りを果汁で汚し、上品などとは程遠く、獣が肉を貪るように食べ進め、気付けば果実は手の内から消えていた。


「相当お腹が空いていたんだね」

「そう……ですね」


 それだけとは思えななかった。

 腹は、確かに空いていた。

 おまけに果実は、美味とは言い難い。

 けれど食べる事に抗えなかった。

 何を食べさせられたのだ?

 疑念が膨らみ、尋ねようとした瞬間、玄関の戸を叩く音が響いた。


「すいません」


 ヒスイの声だ。

 紬は、全身をイバラで締め付けられたように動けなくなった。

 小屋の出入り口は玄関しかなく、逃げるにもヒスイと顔を合わせざるを得ない。


 会った所で見逃してくれるだろうか?

 謝れば、許してくれるだろうか?

 あり得ないと、紬は断じる事が出来た。


 彼がここに居るという事は、妙を狩ったという事。

 妙を狩ったのなら、ヒスイの中に紬を狩る事への躊躇は、存在していないと見ていい。

 紬は見つかり次第、即狩られ、ハルが紬を庇い盾すれば、彼も狩られかねないだろう。

 現状は疑いようもなく最悪。

 打破するための切り札も今の紬にはない。

 なら、せめてハルを犠牲にしないためにも、自らヒスイの前に立つ事が今出来る最善手。


 結論を出した紬を縛るものはなく、一歩を踏み出す足取りもしっかりしている。

 さらに一歩踏み出すと、ハルの手が紬の肩を掴んできた。

 立ち止まり、ハルに向き直ると、彼は破顔しながら紬の手を引き、押し入れの襖を開ける。

 中には、布団一式が一つ収められているだけでだ。紬一人なら苦もなく入れるだろう。


「この中に、お入り」


 か細い声でハルは言い、同じ声量で紬が返した。


「匿っているのがばれたら……」

「大丈夫」


 ハルは頷いてから、紬を押し入れに入れると襖を閉じた。

 襖越しにハルの足音が離れ、玄関の戸を開ける音が聞こえてくる。


「なんでしょう?」


 ハルが問うと、


「辺りで娘を見かけませんでしたかね?」


 いつものように飄々とした調子で尋ねるヒスイの声がする。


「娘? どんな?」

「銀髪の蒼い目をした」

「さぁ? 最近辺りで見たのは、あんたぐらいさ」

「そうですかい。失敬」


 気付いていないのか、ヒスイはあっさりと引き下がり、玄関の戸を閉める音が響いてくる。

 一分程もすると、足音が押し入れに近付いてきた。

 息を飲む紬であったが、襖が開いたのがハルである事に安堵する。


「もう行ったよ」

「ありがとうございます」

「あれに追われているの? 人狩りに見えたが?」


 安堵も束の間、今度は激しい後悔が襲ってくる。

 これでハルを加担させてしまった。

 狩られるべき精霊成りを庇った罪は、きっと死に値する。

 現にヒスイがここに来たのが、紬を庇った妙を狩ったという証明に他ならない。

 しかし今すぐ紬がハルの元を去れば、彼が咎められる事はないだろう。

 紬が何も言わなければ、ハルの関与はヒスイにも分からない。

 万が一、匿っている事に気付いていたなら押し入ってでも紬を狩っているはずだ。

 ヒスイが気付いていない今がハルを救う最後の機会である。


「ご迷惑をおかけしました」

「ご迷惑って?」

「全てです。私は、もう少ししたらここを出て行きます。私の事も忘れてください」

「出て行って、どこへ行くんだい?」


 故郷へは帰れない。

 きっとヒスイが探しに来るし、紬を匿えば村の者の命も危うい。

 他の場所も同様だ。誰かと繋がりを持ってしまえば、その誰かに危害が読んでしまう。

 だから誰にも頼れないし、一つ所に留まる事もしてはいけない。


「どこへでも」

「行く宛ては?」

「どこか遠くへ」

「下手に出歩いた方が、あれと鉢合わせになるかもしれないよ」

「分かっています。見つかる可能性の方が高い事は」


 死への恐怖が失せたわけではないが、誰かを巻き添えにしてまで、生き延びようとも思わない。


「でも、ここに居たら、私を匿っている事が知れたら、あなたまで狩られる。情け容赦のない人です。私を探しに来たって事は、きっと」

「きっと?」

「私を逃がしてくれた妙と言う女の人も、あの人に……」

「人狩りは、怖いものだからね」

「でも、理からすれば、あの人は正しい。私が異質なんです。異物を排除するのは、生物であれば当然の事なんです。風邪をひいたら治さなくては」

「人狩りを世界の医師と呼ぶのは、中々に的を射てるかもしれない。でも僕は、杓子定規に規範を守り、尊厳すら無視するのは嫌いだ」


 ハルは、紬の頭を撫でながら玄関を見やった。


「しばらくは、ここに来ないだろう」

「また来たら?」

「上手くやるさ」


 ハルの顔には、確信の色が浮かんでいる。

 何故断言出来るのか。

 紬には、あの青い果実が関係しているように思えた。

 きっと尋常の物ではない。


「何で親切にしてくれるんですか?」

「私の父は、狩られてしまったのだよ」

 何故?と、問うてはいけない気がした。


 ハルには、黒い部分がある。

 その暗部が形を成したのが、青い果実だ。


「僕は、あの時、理がひどく理不尽だと知った」


 狩られるに足るものが、ハルの中にも存在している。

 紬の抱いていた重荷は、溶けていった。

 同じように狩られるべきならば、共に居て、最後の時が来たとしても、気負わずに済む。


「ここに居たいと思うまで、居てくれて構わない。出ていきたいと思ったら出てゆけばいい」


 ハルが狩られるなら、責は紬を庇った事ではない。

 青い果実に伴う何かだ。

 この男にとっての尋常は、人の狂気の中でも最も淀んだ部類であろう。

 直感と理性は、そう結論付けながらも、ハルの差し出した手を取る紬に迷いはなかった。

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