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第四章 精霊成り その二

 突如ヒスイは、糸が切れたように脱力し、お膳に乗った鯖や酒を撒き散らしながら倒れ伏した。


「ヒスイ様?」


 紬が声をかけてもヒスイは、微動だにしない。

 あまりに唐突な事態の応酬に、紬の理解は追いつかず、しかし反射的に再度ヒスイの名を叫んだ。


「ヒスイ様!?」


 やはり呼び声に答えてくれない。

 紬は、ヒスイに駆け寄ろうとしたが、それを阻むように妙が紬を抱きしめてくる。


「よくお聞き。精霊成りのお嬢さん」


 妙は、紬の耳に冷たい声を注ぎ込んでくる。

 先程までの母と話しているような温かみは、妙から消え失せており、鼓膜を揺らす残響は、ひたすらに不愉快であった。


「何をしたんですか!?」


 単なる体調不良で倒れたわけでないのは、明白だ。

 先程の言葉も考慮するなら、妙が料理に薬か何かを盛ったのである。

 このままでは自分も何をされるか分からない。

 必死に妙を振り解こうとするが、女の物とは思えない力を両腕に込めて紬を抱き続けている。


「お嬢さん」

「放して!」


 腕を振り解き、ようやく解放された紬は、


「あなた、あの男に殺されるわよ」


 今度は、妙の一声に拘束された。


「え?」


 足が動かない。


「何を?」


 声が震える。


「何を言って――」


 妙の声音に、嘘の気配を感じない。

 妙の表情は、真摯であり、紬の身を案じているのが伝わってくる。

 目の前に居るのが、顔の変わったすずだと言われたら信じてしまうほど、妙が浮かべるのは、純粋無垢な母性であった。


「さっき話したでしょ。人狩りが精霊成りを連れて、この辺りを通るって」


 聞く価値はある。

 むしろ聞くべきだ。

 紬の警戒心がそう訴えてくる。

 話を聞くなでも、言葉を信じるなでもない。

 紬は、ヒスイを一瞥した。

 ピクリとも動かないが、呼吸はあるらしく、静かな呼気が畳を撫でる音が聞こえてくる。

 今すぐに死んでしまう事はないだろうと踏み、紬は妙に向き直った。


「妙さん。どういう事ですか?」

「彼等が目的地とする東の大樹は、地還しの大樹と呼ばれているの」

「地還し?」

「そこはね、精霊成りの墓場なの」

「墓場?」

「人狩りは、そこに精霊成りを連れて行き――」


 そんなはずがない。


「違う!!」


 ありえない。


「ヒスイ様は――」


 絶対にそんな事しないはず。


「お優しい方です!」

「そうよ」


 妙は頷き、床に伏したままのヒスイを見やった。


「人狩りなんて、進んで汚れ仕事を引き受けるような人間よ。けれどもね、迷いもなく、引き金を引けるかしら? お金のためだけに? 何の痛手も感じずに?」


 ヒスイですら、狩りの最中は、感情をなくしたかのように冷酷な振る舞いを見せるが、仕事を終えてしまえば、背負った重荷を依頼者にも背負わせている。

 命を奪うとは、例えヒスイと言えど、一個の人間に背負い切れぬ重荷なのだ。


「あの人らも、苦しい生き方をして、辿り着いたのでしょうね」


 妙の瞳には、人狩りへの憎悪と尊敬が混ざり合っている。


「だから人は、人狩りに畏怖を抱きながら尊敬もする。彼らが居ないと。世は、混迷に陥ってしまう。理を守る者がいなくなってしまう」

「それならなんで、ヒスイ様を!」


 紬は、獣が咆哮するかのように叫び、妙の小袖の襟に掴みかかったが、


「だけどね」


 紬の手を妙の手が包み込んでくる。

 暖かく、安らぐ、母親しか醸せない温もりが宿っていた。


「納得がいかない事もあるの。あなただって、好きでそうなったわけじゃないでしょう?」


 何故妙は、紬の境遇にこれほど親身になってくれるのだろうか。

 理由を推し測る事は出来ない。

 けれどヒスイが紬を狩ろうとしているというのなら――。


「私を納得させてください。ヒスイ様が私を狩ろうとしている理由を!」


 妙は、紬の手を衿からそっと外し、屈んで紬と視線を合わせてくる。


「精霊成りの事は、知っているわね」

「ええ」

「二通りあるのは?」

「二通り? どういう意味ですか?」

「精霊成りには、二つある。一つは、完全に精霊化してしまう者。もう一つは、精霊の力を持ちながら人の自我を失わない者」

「つまり意識が人のままって事ですか?」

「そういう事」


 まるでそれは、紬の現状を言い表すかのようであった。

 紬は、精霊成りとなっても自意識に変化みられない。

 昔のままの自分であると断言出来る。

 体内に住みつく精霊が人間の肉体と混ざり合い、自我が消滅する。

 けれど人間の側には、精神面での変調はない。

 これをヒスイは、精霊成りにとって自然な事だと言っていた。


「何故人狩りが精霊成りを連れて歩くのか? 一つは、どちらの精霊成りかを見極めるため。もう一つは、自我を保ったままの精霊成りに人の浅ましを見せ付け、己が死を受け入れさせるため」


 紬は、ヒスイとの旅を通して、人間の醜さと愚かさを見つめ続けてきた。

 人間の自我を持った精霊成りが、我霊と化したシュウ以上に精霊の力を使いこなせるのなら容易く世の理を破壊しうる。


「精霊の奇跡を、人の我欲で使い得る。精霊成りとは、そう言うもの。だからといって、納得して死ねなんて、言えるものですか」


 妙は、紬の両肩に手を置き、我が子を愛でるかのように擦ってくる。


「あなた、人と同じようにお腹が減るわね」

「はい……」

「精霊というのは、人ほど頻繁にお腹は減らないの。道中、あなたのお腹の減り具合をあそこの人狩りは、とても気にしていなかったかしら?」


 ――どうしてそれを?


 紬は、胸の底から込み上げる吐き気を、口元を両手で覆って押し殺した。


 腹は、減っていないか――。


 妙の指摘通り、ヒスイは過保護に思える程、紬の腹具合を案じてくれた。

 単なる親切心だと思っていたが、妙の話を聞き進める度、ヒスイの与えてくれた優しさへの疑念が膨らんでいく。


「完全に精霊に成ってしまうならそれでよし。狩られる事はない。しかし人の我のままに、精霊の力ばかりが膨らんでいく場合がある。あなたがそうよ」

「その判断基準が、そんな事なんですか? お腹が空き易いとか、難いとか」


 腹が減るから殺される。

 不条理に憤りを覚えずにいられない。

 或いは不条理に憤るからこそ、人であるのか。

 これからずっとヒスイと旅をしていくのだと思っていた。

 楽しい日常に終わりはないと考えていた。


「あの人狩りは、あなたが完全な精霊に成らないと判断してここへ来たの。地還しの大樹に赴き、あなたを殺すために」


 身体が震える。

 真実を受け入れまいと、拒絶するように。

 妙の言葉を否定したいけれど、喉も舌も乾いてしまい、声を絞り出せそうにない。

 築いてきたはずのヒスイへの信頼は、今や薄氷に等しく、些細なきっかけ一つで脆く崩れてしまうだろう。


「逃げなさい」


 その一押しを妙がしてくる。


「私が何とかしてみせるから」

「でも――」

「死にたいの?」

「違う!」

「あのね。私の子もね、あなたと同じだったの」

「わたしと?」


 妙は、頷き、紬を抱き寄せた。


「大樹が近い影響か。ここは微細な精霊の気配が濃くてね。娘はあててられ、精霊成りになってしまった。私は、理だからと娘を人狩りに差し出したの」


 妙は、幼子にするように、紬の背中を撫でてくる。

 すずも、よくこうしてくれた。

 身体の調子を崩した時。

 大切な物をなくした時。

 近しい人が亡くなった時。


「旅をしているのだと思っていた。連れて行った人狩りは、とても人の良さそうな女の人。あの人になら任せていいと思っていたの」


 妙の声に、後悔と殺意が滲んでくる。


「ある日、用があって紫電樹の町に行った時、偶然その人を見かけて、娘が居ない事に気付いた。何が起きたのか察したわ」


 母親にとって子を失う痛手を紬は知らない。

 けれど紬を送り出したすずの様子を見れば分かる。

 紬が理の為に、命を捧げるのだとしら――。


「理なんかどうでもいい。娘を連れて逃げればよかったって」


 きっとすずも、妙と同じ事を言うだろう。


「あなたは、里に帰りなさい。あなたの母さんは、きっと真実を知らない」


 すずは、銀色に埋もれたあの村で団蔵と二人、紬の旅路に思いを馳せているはずだ。


 今は何処を歩いているのだろう?


 どんな人と出会い、どんな暮らしをしているだろう?


 ご飯は、ちゃんと食べているのか?


 風邪をひいていないだろうか?


「殺されるなんて知らないはず。精霊成りが長く土地に居ると、その土地に精霊が集まりすぎて均衡が崩れる。だから精霊成りは、人狩りと共に旅をする」


 精霊の力によって稀に実り、以後実った村に、数十年の安寧を約束する遅れ米。

もしも紬が自分の意志で遅れ米を自在に生み出せるのだとしたら。

 毎年、遅れ米を実らせる事が出来るのなら。

 確かにそれは、理を超越した異質なものであろう。


「きっとあなたの母親も同じように説き伏せられたの。だからしょうがないと、過酷だけれど仕方がないと」


 妙は、紬を抱きしめる手を解き、両手で紬の頬を包んだ。


「真実を知れば、あなたを連れて逃げるはずよ。だから、里に帰って真実を伝えてちょうだい。あなたの母親に」


 ――死にたくない。


「母さん――」


 ――会いたい。


「もう一度会いたいでしょう?」


 紬は、頷き、走り出した。

 去り際、ヒスイの事は、一瞥もしなかった。

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