雨にも負けず
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
あっ! 先輩、いいところに! 傘に入れてもらえませんか?
ふう、助かっちゃいました。参ったなあ、まさかいつも入れていたはずの、折り畳み傘が入ってなかったなんて。長い傘、久しく使っていないから、完全に油断していました。
……えへへ、先輩と相合い傘だあ。私の小さい身体は、この時のためにあったんですね。
だって、大きかったら、先輩は気を遣って、傘を私の方に傾けちゃうんじゃないですか。結果、肩どころか半身を濡らすことに。先輩に風邪とか引いてほしくないですし。
――俺という人間を、買い被り過ぎだ? もう、謙遜しちゃって。
そういえば、最近、先輩の傘はコンビニとかで売っている、ビニール傘ですね。少し前はダークな色の布傘だった記憶がありますけど。もしかして、この間の嵐じみた日に壊しちゃいました?
やっぱりですか。あの日も、次の日もズタボロになった傘の残骸が、街中に散らばっていましたしね。ゴミ処理してくれた皆さんに感謝ですね。誰が使ったか分からない傘、私は触りたくありませんし。
――何かあったのか? あ、いえ、私自身が体験したわけじゃないんですけど、ちょっと聞いたことがあって。
ああ、先輩はこういう話に興味ありましたよね。じゃあ、学校に着くまでの間で。
私のおじさんが体験したことになります。
おじさんが学生だった時から、傘をめぐる色々な問題があったようなんですよ。さっき話題に挙げた、町中に転がる、壊れてしまった傘なんかもそうです。それと並んで、問題になったのが、置き傘と忘れ傘の問題。実際におじさんも、それに関わったことがあったとか。
その日、おじさんは委員会の活動があり、終わった時には下校時間が間近で、ほとんどの生徒が帰っていました。
委員会が終わる、ほんの十数分前から雨が降り始めていたそうです。おじさんが昇降口に着くころには、大きな音を立てるほど、ひどくなっていました。朝はよく晴れていましたから、おじさんは傘を持っていません。他の委員の人も同じでしたが、彼らはそろって家が近く、走って帰ればたいした濡れることはなかったそうです。
おじさんの家は歩いて30分はかかります。降りはますます強くなり、雷の音さえ聞こえてきました。この中を手ぶらで突っ込むには、ちょっと勇気が必要だったとか。
昇降口の下駄箱。そこからつながる玄関の傘立てには、何本か傘が入っています。
――ちょっとだけ、拝借しようか。
おじさんは軽く物色したあと、いかにも新しい、透明なビニール傘を選びました。親骨が長く、70センチはあり、比較的背が高いおじさんの身体を、すっぽり覆うことができるくらいだったとか。
更に、撥水性が高いのか、学校から家まで、ほぼどしゃぶりの中を歩いたにも関わらず、家の軒先に着いて、表面を見やった時には、ほとんど水滴が垂れ落ちていたそうです。
――こいつは、いい。今の俺の傘より、ずっと。
おじさんは、思わず薄ら笑いを浮かべてしまった、と話していました。
翌日。朝のホームルームで、傘がなくなったという申し出があったことが、先生から伝えられました。訴えてきたのは、おじさんと同じクラスのケイタくんだそうです。
ケイタくんの名前が出た時、一瞬、みんなが彼を見やるのに合わせ、おじさんも一瞥しました。
乱れのない七三分けと、セルフレームの眼鏡は、どこか厳格さを感じさせます。顔の輪郭はそれなりに整っているものの、目をひくほどの美男子というわけではありません。
クラスでは常に半歩ほど距離を取っていて、自分から輪に入ることは少なく、みんながはしゃいでいるのを、ぼんやり眺めるような人だったそうです。何度か声を掛けられることがありましたが、「気にしないで」とそっけなく返すばかりだったとか。
今回も先生から「持っていった人と思う人は、素直に申し出なさい」という注意があったものの、わざわざ彼は「申し出てこなくても構いません。自然に出てくると思いますから」と補足したみたいです。
よくわからない発言に、クラスはわずかにざわつきました。おじさんも内心では、「なんだ、こいつ」と鼻持ちならなかったとか。
――意味不明の自信持ちってか。じゃあ言質をとったと見ていいんだな。あの傘、お前のだとしても、俺が使わせてもらうぜ。
傘には名前が書かれていません。もし、ケイタくんが自分から詰め寄ったとしても、証拠がないのです。おじさんは意地でも、彼に返すものか、と思ったそうですね。
それからおじさんは、雨が来るたびに例のビニール傘を使い続けたそうです。水をはじく力は証明済みでしたし、今までの自分の傘はさびだらけで、みっともないという気持ちもあったからです。
傘立てにも堂々と入れていましたが、ケイタくんは見向きもしません。本当に、自分の言葉を信じて疑っていないようなのです。おじさんは日々、不審さを募らせながらも、それをおくびにも出さず、厚顔に過ごしていたのだとか。
けれど、少しずつおじさんの生活は、ケチがつきはじめました。
それはほんの些細なこと。例えば、おじさんが何か買い物をしようとすると、目当ての品物が自分の寸前になって、売り切れてしまう。一度や二度ならまだしも、十回ほど連続で続いた時には、辟易してしまったとか。
くじ引きや、もろもろのゲームでも、運がらみのものは勝てません。おじさんが触った機械類は、ことごとく壊れていってしまいます。
こんなことは、今まで全然ありませんでした。あの傘を使うようになるまでは。
たまたまだ、と思うのにも限界が来ており、おじさんは心がやつれていくのを感じていたそうです。
そして、台風が近づいてきた放課後のこと。おじさんは例の傘を使っていました。親は外出していて、迎えに来られません。学校で待たせてもらうにも、時間を追ってますます風雨が強まり、これ以上ひどくならないうちに、と思い切って、出てきたのです。
好きで使っていたわけではありません。今朝がた、ついに決心して、昔の自分の傘を使ったのですが、家を出て数分も経たないうちに、全身骨折。他の傘も、同じ運命をたどり、残ったのがこの傘だったのです。登校時間の関係もあり、新しい傘を買いに行く時間もありませんでした。
相変わらず、傘は水を弾きます。気のせいか、手にした当初に比べると、ますます効果が上がったらしく、もはや水は表面でひとりでに流れ落ち、受け付けられないと言っても過言ではありません。
とにかく、帰ったらこの傘と別れないと。おじさんは、自分が臨んで拝借していた傘にも関わらず、そんな身勝手な思いで一杯でした。
叩きつけるような雨と風。傘をさすというより、盾のように構えなくては、雨粒が目に入って痛いのです。靴の中は、水たまりに入っているわけでもないのに、一歩一歩が「ぐじゅ、ぐじゅ」とうめきました。
いっそう、風が強く吹き、思わずおじさんが足を止めた時。
すぐ脇を、小料理店の旗が通り過ぎていきました。もしや、と前を見たおじさんは、息を飲みました。
置き看板。それもキャスターがついて、電灯を内蔵した重たいもの。それが野球の剛速球もかくや、という勢いでおじさん目がけて飛んできたのです。すでに視界をほぼ覆いつくす距離。かわせません。
せめてもの抵抗、とおじさんが目をつぶり、頭をかばいながらかがみこみます。
衝撃。金属音。ですが、続く重さと痛みはありません。おじさんが顔を上げると、先ほどの看板が自分の頭上数メートルを、高々と飛んでいくのです。
何が起こったのか、呆然とするおじさん。ふと、前方を見ると、もう一度同じような立て看板が迫ってきます。
今度は見ました。看板は傘の表面にぶつかったかと思うと、上空へと跳ね上がるのです。硬いものに激突したかのように。
ビニールが看板を防げるわけがない。それも二回。明らかに、傘じゃない。
おじさんは、この得体の知れない傘を捨てていきたくなりましたが、同じようなものが飛んできた時、生身だったらひとたまりもありません。
家に着くまでだ、とおじさんは風に逆らって、歩き続けました。
どうにか軒先につき、傘を閉じたおじさん。預かった家の鍵を取り出し、玄関の戸を開けたところで、傘の先をぐっと掴まれ、後ろに引っ張られます。振り返っておじさんは、ぎょっとしました。
びしょ濡れのケイタくんが立っていたのです。天よりもたらされた、強力な整髪液の影響で、髪はべっとりと彼の顔に張り付き、目元と鼻はほとんど隠れています。
「性能、見せてもらったよ」
それだけで、おじさんは震え上がりました。すべては仕組まれたことだったのだと。
「君の『運』によって、またこの傘は鍛えられた。礼を言うよ。もう君からの強化は望めそうにない。返してもらうよ」
ケイタくんは、傘の先。おじさんは傘の取っ手。明らかにおじさんの方が強く握れるのに、ケイタくんはおじさんの身体ごと、強引に引きずりながら、傘をぶんどりました。おじさんが起き上がった時には、もうケイタくんの姿はなかったそうです。
それからもケイタくんは学校に通い続け、相変わらず、みんなの輪に入ろうとはしませんでした。
おじさんは傘を手放したあとも、小さな損や生傷が絶えなかったとか。それは今でも続いているそうです。