花の香
リルの耳朶には昨日ジルからもらったピアスが揺れている。
鏡を見なければほとんど存在を感じさせないはずなのに、ふとそこに触れて確かめる癖がついた事にリルは気がついた。
先日つけたばかりのそこを触ると、彼の事を思い出してしまう。それはもしかすると、彼の狙いなのかもしれない。
この日は前に魔法使いが処理した現場がその後、問題がないかを見るという調査であった。
山の沼地には魔法的な問題も見当たらず、ひとしきり調査を終えて昼休憩に入った。いつものようにラグを敷いて、バゲットサンドを袋から出した。
風がそよそよとしていて、心地よい天気とも相まって現場にも何の問題もなかったことから、寛いだ空気が漂う。
「そういえばリルちゃん、ピアスあけたんだね」
ナルドがそう気がついて言ってきた。
「女の子らしいね。そういうの」
「本当だ、可愛らしくて似合ってる」
トウリもそう褒めてくる。
「あ、ありがとうございます」
リルは礼を言った。
隣に座ったアラシはしばらく無言で昼食を食べていたが、ちらりとリルを見ると全く違うことを口にした。
「…今日は香水でもつけてるのか?匂う」
アラシがちらりとリルを見ながら不快そうに眉をひそめて言ってきて、リルは首を傾げた。これまでと何も変えていないからである。
「え?何もつけてないのに?」
リルは慌ててアラシと距離をあけた。
「匂うって…アラシは全く。言葉をちゃんと選びな」
ナルドがピシリと言う。
「匂うものは匂うと言っている」
「俺は全く気にならないな。神経質だなアラシは」
トウリが呆れたように言う。
リルはふんふんと体を嗅いでみる。
気になると言うことはきっと嫌な匂いなのだろう。
「ゴメンね、ちゃんと洗ってるはずなのに…」
「洗ってないと言ってる訳じゃない花の香のような」
「花?」
アラシがそう言ってもリルにはわからなかった。
何にせよリルの何かが、アラシを不快にさせているのだなと感じさせてペアになる前より日に日にアラシとの壁が出来てゆく気分がしていた。まだ話さない時期の方がアラシをそっと遠くから見ていられたが、今はもう見ることさえ躊躇われてくる。
「気にするなよリルちゃん。俺らにはちっともわからないから」
トウリがフォローしてくれるので
「はい…」
つい目を伏せてしまう。
休憩している最中に、リルのもとへ空から黒猫が駆け寄ってくる。
これはマユリからの手紙である。
「なぉーん」
首もとにらリボンがついている。魔法使いの猫であるから実体はでないのでリルがリボンを取るとそのまま虚空に消えてしまう。
手の中でリボンは手紙に変じた
『リル、元気?
アラシったら相変わらずリルに優しい言葉なんて言わないだろうから、心配だよ』
マユリの字は相変わらずの癖字で幼馴染みであるから辛うじて読めるのだ。
のたくった字はとてつもなく読みづらい。
紙から溢れんばかりのその元気溢れる文字にリルはくすっと笑った。実はマユリの心配するような気分になっていたのだから。
さすが長年の親友はタイミングが良いものだと、感心してしまう。
『マユリへ
私は元気よ。時々やっぱり凹んじゃうけど、魔法の方はだんだん合うようになってきたよ』
リルはそれを花に変じさせると、魔法で出した白い小鳥に加えさせた。花はマユリの手に触れることで手紙に変わるのだ。
指に止まった小鳥に軽くキスをして
「マユリによお願いね」
小鳥は本物のように羽を動かして飛び立つ。
「小鳥か、リルちゃんらしいね」
にこにことナルドが褒めてくる。きっとリルとアラシの微妙な空気をどうにかしないといけないと思っているのだろう。
アラシと二人きりで無くて良かったとリルは心底、ナルドの明るさに感謝した。
その日の夜、銀狼がリルのもとを訪れる。
リルの手に触れた瞬間にそれは手紙に変じた。
『リル 何かあった?もしも落ち込んでるなら俺に話して。マユリがこの文面だとかなりリルは落ち込んでいると話していたよ。いつでも君の力になりたい ジル』
マユリにはやっぱりわかってしまうのだな…。豪快なマユリだけれど、友人の気持ちには敏感に反応してくれる。それが、なんだかとても嬉しい。
『ジルへ
手紙をありがとう、落ち込んでいるとついそれが出ちゃうのね。アラシには前から嫌われてるのは分かってるから…。仕方ないわ 次の休み迄にはきっと気分も落ち着いていると思うの 心配しないで平気よ リル』
嫌われてるのは前からと…文字にしてしまうと、なんだか本当に切なくなってくる。アラシは嫌ってはないと言っていたけれど、彼は時々不器用な優しさを見せてくるから…、それは優しさだったのかと思わせる。
自分が親しく思っている人に嫌われるというのは辛いものだ。きゅっと胸が締め付けられるそんな気分になる。
「これをジルへ届けてね」
リルの小鳥は花をくわえて夜空に飛び立っていく。
1度…たった1度でいいから、笑いかけて…そう思うのは高望みで過ぎた願いなのだろうか。無条件にみんな友達だと思えていた頃…その時からはすでに何年も過ぎ、自分もみんなも等しく成長した。
女の子は女らしく、男の子は男らしく、そう…。みんなが言うようにもう子供ではないのだ。
あの、干し草をたくさんくっつけて走り回ったあの日々も、笑い転げて遊んだ日々も
あの頃のあの子達は、もう幻のような過ぎ去った過去にある。
思えば、リルは母の顔も父の顔も、昨日の夢を思い出すかのようにしっかりと思い出せない。
耳朶にあいたピアスの穴のように、どれも少し痛い。
アラシ…。
アランシェット・サフィリス・ルーン・シン・ランカスター・ディナンシア
その名は、心の中にいつも刻まれていた。
忘れようにも、この魔法使いの世界は狭すぎて、そして彼の存在は強烈にリルの胸を射つから…。
誰か…この胸から彼を追い出して…忘れさせて…。
そんな狡い思いを抱いてしまう。




