森の中再び
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森の中。行けども行けども……。
「も、森の中はね、馬、難しいのよお!」
国境砦を超える道で行けば森なんて通らなくていいんだけど、その為には通行証が必要になる。今回みたいにお忍びだと、この森から抜けるのが一番いいらしいんだけど。
綺麗に生地されている城近くの道とは全然違う。石とか、木の根とか、落ちている枝とか、飛び出してくるウサギとか。私が上手く指示を出せないから、馬も疲れた様子だった。仕方なく馬を下り引いて歩く。
「でも、馬さんがいてくれるおかげで、荷物は持たなくていいですね」
レンが明るい声を出してくれるけれど、私はすっかり疲れきっていた。 馬、難しいのよ、馬……。
それにしても、森の中だ。
前にアルと一緒にユカリナに向かった時は、もう少し日の差し込む森だった気がするのだけれど。まだ昼前だというのに、なんだか暗いし、ざわざわとゆれる木立の音がやけに大きい気がする。
「ねえ、レン」
「はい姫さま」
レンの声が固い。もしかして、もしかしなくても?
「ま、間違った?」
「わ、分かりません。いえ、間違っていないはずです、方角計は正しい向きですし」
私も妙な向きに進んだつもりはない。この森だって、何度も遊んだ事がある場所だ。でも、でもでもでも、これは「ヤバい」気がする。
「一度、戻ろうかな」
「そうですね」
レンが頷いた、その時だった。森の奥で唸るような低い鳴き声が聞こえる。太くて低い、ぞっとする獣の鳴き声だ。
「う、そ」
「熊、でしょうか?」
熊なんてこんな森に来る事はないはずだ。山に住んでいるはずなのだから。でも、確かにあれは爺が昔、ササーラの生き物という勉強の時に見せてくれた熊の鳴き声にそっくりだった。大きくて強くて、そして獰猛。もし、そんな熊と出会ってしまったら、私とレンではどうする事もできない。
「引き返すわね」
レンと顔を見合わせて頷くと、馬の手綱をそっと引く。瞬間、熊の声がまた響いて、突然馬が暴れ出した。
「え、や、ちょっと、落ち着いて」
きっと馬も怖いのだろう。なんとかなだめようとするけれど、ちっとも落ち着かない。熊の声は近づいてくる。
「や、ねえ、落ち着いて、お願い、言う事きいて!」
けれど、我を忘れたような馬には私の声が届いていないようだった。嫌だ嫌だ、このままでは熊と出会ってしまう。一瞬、馬から手を離してレンと二人で逃げようかと思ったけれど、そんな事してもきっとすぐに追いつかれてしまうに違いない。こんな私のわがままでレンに何かあったら、アルにあわす顔もない。
――アル……。
黙ってこんな事して、言う事を聞かなかったから、バチが当たったのかな。
「アル」
「兄さま」
レンを同時に口にして、思わず顔を見合わせる。勝手なんて心の底から分かっているけれど、助けてほしかった。
「アル! 助けて!」
思わず声をあげて、馬の手綱を引く。なんとか乗る事ができそうだと思った時、目の前の茂みが揺れて、何かが飛び出してくる。
「いやー、来ないで!」
レンを馬の上に引きずり上げて、護身用の杖を振りまわすけれど、こんな物が熊に通用するとも思えない。
「いやあ、アル、アル、助けて!」
泣き叫ぶ私とレンの耳に。
「姫! 大丈夫です!」
聞きなれた声が響いた。
こんなにこの声を恋しく思った事なんてない。
涙がにじんだ目を開くと、そこにはアルフレドがいた。
「アル!」
「兄さま!」
アルは馬から飛び降りると、私の馬をあやしにかかってくれる。アルの手に落ち着かされたのか、私の馬はすぐにいつものようなおとなしい馬に変わった。でも、熊の声はまだ近い。
「アル、熊が」
「はい、姫、静かに道を引き返して下さい。大丈夫ですから」
アルが頼もしく笑ってくれたから、私は大きく頷いて静かに静かに道を引き返した。後ろでアルの声が聞こえる。
「熊よ、騒がせて悪かった。しかしここはお前の場所ではない」
剣を抜いた音がして、思わず少し振り返ってしまった先、アルは静かに熊と対峙していた。アルよりも大きな体の熊に震えが止まらなくなる。けれど、アルは少しもひるむ様子なく、熊を睨みつけていた。
それ以上は見る事ができなかったけれど、レンが言うには熊はそのまま森の奥へと消えたみたいだった。
「兄さまの気迫勝ちですわ!」
ああ、やっぱり私のアルフレドは強いのだ。どこか誇らしく思いながら、なんとか森の入口にたどりついた。馬から降りると、へなへなと足が崩れる。
「こ、怖かった」
「姫さま、こ、怖かったです」
レンと抱き合って涙ぐんでいる間に、アルが戻ってくる。開口一番。
「なーにーを、何を、なさっているのですかああ!」
怒られた。
仕方がない。これは本当に怒られる事なのだから。
私とレンは小さくなって首を垂れたままで、アルの説教を聞いた。
ひとしきり怒られ、諭され、愚痴られたあと、不意にアルが静かになったので顔をあげると、アルは目元を手で覆っていた。な、泣かせたのかしら。
「あ、アル、本当にごめんなさい」
アルは目元の手をどけると、鋭い眼で睨んでくる。泣いてなくてよかったと思ったけど、怖い。
「あ、の、熊、なんで森に」
「この時期は時折迷い熊が森へ下りて来る事があるのです。ですから、この森から国境を超えるには、いつもと違う道を行きます」
知りませんでした。つ、辛い。
「ごめんな、さい」
「だいたい姫、無茶にも程があります」
「はい」
「そんなに、マスラ王にお会いしたいのですか」
何かを噛みつぶしたように呟くアルに私は返す言葉もない。代わりにレンが口を開く。
「違うの兄さま、私がドルトラルさまに連絡を取って、市を見せて下さるように頼んで」
「……ドルトラル様? 市、か。そんなに行きたかったのですか、姫」
頷く私に、アルは体中の空気が抜けるのではないかと思うほどのため息をついてから、力なくこぼした。
「もう、分かりましたよ、お供します、ユカリナお忍び市場に」




