#08:素敵なご近所さん
「もしかして、加奈と約束してた?」
友人カップルの片割れである遠山良の問いかけに、一瞬言葉に詰まる。加奈とは、友人カップルのもう一方の方だ。
「いや、してない」
私はとりあえず否定した後、説明した方がいいだろうかと頭の中でグルグル考える。すると、遠山君は「だよね。今日は残業で遅くなるって加奈からメール来てたから……」とちょっとホッとしたように微笑んだ。そして、『じゃあ、どうしてここにいるの?』と言う疑問を顔に貼り付ている。
「あ、あの、知り合いが部屋まで上着を取りに行っているの」
もう早く話を終えて行ってくれと心の中で願いながら、私は観念して説明する。
「ああ、そうなんだ。僕達の他にこのマンションに知り合いがいたんだね」
「私もさっき知ったばかりで……」
私が言い訳のように言うと、背後でエレベーターの到着音がした。
「あっ、エレベーターが来たみたいだから、もう行くね。それじゃあまた、加奈がいる時にでも遊びにおいでよ」
「うん、ありがとう」
背後のエレベーターに神経を集中しながら、友人に何とか作り笑いをする。彼は「じゃあね」とエレベーターの方へ歩いて行った。怖々振り返ると、丁度友人と森課長がすれ違う所だった。
「おまたせ」
コートを手に持った彼が近づいて来る。その声を聞いて友人が驚いて振り返った。そして私を見てニヤリと笑うと、エレベーターに乗り込んだ。私はそんな友人を無視して彼に「いいえ」と弱々しく微笑むと、エレベーターの方から再び友人の声がした。
「莉奈、週末に鍋パーティーするからおいでよ」
驚いてエレベーターの方を見ると、ドアがするすると締まって行く所だった。
あいつ、わざと……。そんな話していなかったのに。いつもぽやんとしてるくせに、結構腹黒なのだ。
「えっ、知り合い?」
私と同じように驚いて振り返った彼が再び私の方を見て問いかける。
「大学時代の友達なんです」
どう思われただろうかと思いながら、簡単に説明する。
「ふ~ん。……じゃあ、行こうか」
「あ、はい」
あまりの反応の無さに、肩すかしをくらったような感じだったが、気に留める程の事でも無いか……。
そして彼は手に持っていたコートを羽織ると、私を促して外へ出た。
森課長と並んで歩き、「ずいぶん寒くなりましたね」とか当り障りのない会話をポツリポツリとしながら目的のお店へと案内する。右折予定の交差点の赤信号で止まると、彼は私の方へ顔を向け「妃さん」と呼んだ。
「さっきマンションで会った大学時代の友達に、僕と一緒にいる所を見られない方がよかったかな?」
「えっ?」
友人の事などすっかり頭の隅へ追いやっていたのに、この人はそんな事を気にしていたのだろうか?
「いや、妃さんは人に見られるのをとても気にしていたから、知り合いに見られたらまずかったかなと……」
「いえ、そんな事気にしてもらわなくてもいいです。友達には多少誤解されてからかわれるだけですから」
私が自嘲気味に言うと、彼は面白そうに「からかわれるんだ?」と笑いを含んだ声で言った。
「そうなんです。さっきの彼は大学時代の私の親友と同棲してるんですけど、その親友から、後で絶対に電話があります。それも今日中に!」
自分でもどうしてこんなに力を入れているんだと言うぐらいに、力んで言いきった。きっと、友達のさっきのニヤリと笑った顔と最後の言葉を思い出して苦々しく思っているからだ。
「ハハハ、それじゃあ、僕は君の友達にネタを提供したと言う事だね」
可笑しそうに笑う彼を見て、私はどこか拍子抜けしてしまった。
友達に会ったことで気遣わせたかと思ったが、森課長って案外何でも面白がるタイプなのかもしれない。
それでも会社ではあまり見ない砕けた笑顔に、私の気持ちとは裏腹に胸はドキドキと高鳴っていたのだった。
* * * * *
「こんなところにこんなお店があるなんて、よく知ってたね?」
キョロキョロと店の様子を見回した森課長が、私の方に笑顔を向けながら言う。
「私、街の探索するの好きなんです。ここは偶然見つけて、今のところ駅の東口側ではここが一押しです」
「それは楽しみだ」
そう言うと嬉しそうな表情でメニューを見ている。普段から人に対しては笑顔率の高い課長だが、やはり今日はいつもと違うと思ってしまうのは、プライベートなせいなのか。この胸の高鳴りのせいなのか。
ダメダメ、いくら相手がイケメンだからってのぼせ上がっては。ご近所さんと言うスタンスを死守するのよと、内心自分に言い聞かせながら、よろめきそうになる心を立て直す。
こんな風に思っても、胸の高鳴りがリアルに恋心に移行していくとはこれっぽっちも思ってはいない。ただ、あまりにも久しぶりのこのドキドキ感がなんとなく懐かしく、気恥かしさと共に嬉しさもあるのだった。
「妃さんは何にするの?」
「私はね……ビーフシチューにしようかな。寒くなるとここのビーフシチューが食べたくなるんです。でも、カニクリームコロッケもお勧めですよ」
「じゃあ、僕もビーフシチューセットにして、カニクリームコロッケは単品で頼んで分け合おうか?」
「えっ?」
分け合うって……親しい相手ならいざ知らず、上司と部下の間でアリなのか?
「そんなに食べられない?」
「いえ、……コロッケ1個ぐらいなら……」
結局食べるのか? と自分にツッコミを入れながら、恐る恐る上司の方を見ると、笑を堪えたような顔で「じゃあ、そうしよう」とメニューを閉じた。
「実はね、この間の休みの日にたまには近所探索をしようと思ってね、歩き回った後でお腹がすいたので適当にお店に入ったんだよ。そうしたらね、あまり美味しくなかったんだ。もっと早く妃さんにお勧めのお店を聞いておけばよかったと後悔したよ」
ビーフシチューを食べながら、彼はとても気さくに話しだした。一緒に注文したワインのせいかもしれないが、仕事の時とは違い彼がいつも他人に対して引いているラインが、今日は少し緩んでいるのかも知れない。
「どこのお店に入ったんですか?」
「駅の東口の方に色々な店舗が入った5階建てのビルがあるだろ? そこの1階の入口の所にあるイタリアンぽいお店だけど……」
彼の話を聞きながら、東口周辺を頭に思い描く、そして思い当った。
「ああ、播磨ビルの一階ですね。あそこは、コロコロお店が変わって定着しないんですよ。今までも評判が良くなかったみたいで……そのイタリアンのお店は知らなかったですけど、またすぐに変わりそうですね」
「そうだったんだ。やはり長く住んでいる人に聞かないとダメだね。飲食店が沢山あり過ぎて、迷った上で入ったお店だったから、ちょっとがっかりだったよ」
その声でがっかり感がよく分かった。
それにしても、森課長の話し方がだんだんと崩れて来て、タメ口っぽい感じだ。こんな素の森課長にドキドキを通り越し親近感がわいた。
こんなイケメンを恋人にしたら心配で堪らなくなるだろうけれど、親しいご近所さんと言う距離感って結構いい感じかも……なんて、彼が上司であることも忘れ、呑気に考えていた。
食事が終わり、僕が誘ったからと言われてご馳走になり、送っていくと言うのを駅までと了解してもらい、10分足らずの道を再び並んで歩く。
もうこの時には誰かに見られたら大変! なんて事はすっかり忘れ、アルコールのせいか少々浮かれた気分で歩いていた。
「森課長、ご近所さんって良いですねぇ。また森課長もおいしいお店や面白いお店を見つけたら教えてくださいね」
「ハハハ、妃さんはお酒を飲むと陽気になるんだね。こちらこそいろいろ教えてもらえると助かるよ。前の所では、結局3年間、会社や営業先の周辺は覚えたけど、寝に帰るだけのマンション周辺は駅からの通り道ぐらいしか知らずに終わったよ」
「えー?! 自分の住んでいる近所の事、知らなかったんですか?」
「まあね、仕事が忙しかったからと言うのは聞こえがいいけど、休日出勤もよくあったし、休みの日でも寝ているか、最低限の家事をしているかだったなぁ」
森課長が遠い目をして過去を振り返っている横顔を盗み見て、横顔も素敵だなと少々鼓動を早めながらも、ふと疑問が湧き上がる。普段だったらけっしてこんなプライベートな事は聞かないのに、今の私はどこか箍が外れていた。
「そんな事言って、本当はデートで忙しかったんじゃないんですか?」
私の発した言葉を聞いて、森課長がゆっくりとこちらを向いた。そして、フッと笑うと「デートか……」と呟いた。彼のその笑いは、やっぱり君もそんな事が気になるのかと言っているようだった。
「いや、すいません。下世話な事訊いたりして……」
私は急に恥ずかしさで居たたまれなくなり、頭を下げた。
「別にかまわないよ。過去の事だしね。まあ、彼女がいた時はそれなりにデートもしてたけど、自分のマンションに連れてきた事はなかったから、デートで近所を歩く事もなかったなぁ」
森課長の淡々とした過去語りを聞いて驚き、思わず『彼女を自分の部屋へ入れないんですか』と訊きそうになった。しかし、これ以上は踏み込んではいけないと、すんでの所で踏み止まった。
「今回はもっと近所を探索してみてください。S駅の東口側は新しいお店や商業施設が多いし、西口側は昔ながらの商店街があって風情がありますよ。この周辺は住みやすくて本当に良い所だと思います。もう10年もここに住んでいる私が言うのだから、間違いありませんよ」
私はこの街の広報係のように、ニッコリと笑って自信満々に言い切った。そうして森課長の恋愛話への興味をねじ伏せたのだった。