#07:課長のマンション
車はゆっくりと動き出し、自然な速さで流れに乗った。彼のその運転の仕方に、彼の性格が表れているように思うのは、買被り過ぎか。
それよりも、さっきから肩を震わせて抑え気味に笑っているのに、運転には何の影響も及ぼさない彼の運転技術が素晴らしいのか……。
「森課長、何がそんなに可笑しいんですか? 運転に集中してください」
どうも自分が笑われているような気がして、意味不明な彼の様子に耐えきれず、思わず強い調子で言ってしまった。
「いや、失礼。君が人目を気にする様子が余りに普段の君とはギャップがあって……でも、前に駅まで歩いた時も秘密だと言ってたね。そんなに気になりますか?」
丁度赤信号で車が停まり、彼は私の方へ真っ直ぐに視線を向けて問いかけた。それだけで又心拍数が上がった様な気がした。
危ない、危ない、まともに目が合ってしまった。この近さは、危険距離だ。
私は不自然にならないように目を反らしながら、彼の問いかけについて思案した。
気になると言うより、又会社の女の子たちに何か言われるのが嫌なのだ。けれど、それは彼の預かり知らぬ事で、彼のせいでも何でもない。彼にそれを言うのは、あまりに理不尽だ。
「会社の子達は会社の人間が男女二人でいるのを見ると、ある事無い事噂するんです。それだと課長にご迷惑をかけてしまいますから……」
「僕は噂なんて気にしないよ。でも、女性は噂が気になるんだろうね」
「いえ、私だけの事でしたらそんなに噂になる事も無いので気にならないのですが、森課長の事は皆さんが気になるらしくて……特に女性が」
「ハハハ、こんな30過ぎたオジサンでも気にしてもらえるのかな? 今はまだ物珍しいだけだと思うよ」
「そんな事ないです。森課長がオジサンなら、私だってオバサンです。大丈夫です。森課長は充分イケてますから」
私の返答が壺に入ったのか、彼はもう笑いを隠さず大笑いしていたが、信号が青に変わると再びスムーズに車を発進させた。
「妹にね、子供が二人いるんだけど、子供達からおじさんなんて呼ばれるから、もうオジサンなんだなって思ってたんだけどね」
「ああ、私も姉に子供がいるからおばさんなんですけど、子供達からは『お姉ちゃん』とか『莉奈ちゃん』とか呼ばれてますよ? 森課長も『お兄ちゃん』とか名前とかで読んでもらったらいかがですか?」
「最初はね、妹が『お兄ちゃん』って僕の事を呼ぶから子供達も真似して『お兄ちゃん』って呼んでくれてたんだけど、妹がそれはおかしいって言い出して『おじさん』に訂正させたんだよ。まあ、正論だから否定もできなくてね。それで『おじさん』って呼ばれてるうちに暗示にかかってしまったのかなぁ」
そんな風に話しながら、彼は苦笑している。話を聞いていても『おじさん』と呼ばれる事を嫌がっている様子は無い。
「森課長、甥や姪からの『おじさん』と女性からの『オジサン』は一緒じゃないです。自分で『オジサン』なんて言ってたらダメですよ。森課長は今支社の中で女性からの注目NO1なんですから」
私は自分でも不思議なぐらい力を入れて言いきった。私の話を聞いた彼はチラリと私の方を見てクククッと笑う。
「やっぱり妃さんはフォローが上手だ」
なんですか、それは!
なんだか入っていた力が、一気に抜けてしまった。それでも嫌な気分では無く、どこかのんびりとした彼に驚きながらも、かえって親しみを感じる。
それにしても、仕事ではキレ者の彼だが、本当ははのんびりとした性格なのだろうか?
やだ、またドキドキして来たじゃないか。
これって、ギャップ萌えって言う奴?
こんな彼を自分だけが知ってしまった事に、嬉しい様なヤバイ様な複雑な心境だ。
ダメダメ、莉奈。惚れちゃダメだよ。
しっかり自分に言い聞かせる。
こんなレベルの高い人は可能性ゼロの上に、もう2番目なんて不毛な恋はしないんだから。
「妃さん、この後どう行けばいいかな?」
一人考え込んでいた私に、彼が声をかける。慌てて外を見渡せばずいぶん目的地に近づいてきているようだ。
「そうですね、R駅の東口方面へ進んで頂けますか?」
私は車に乗った時から案内しようと思っていた店の位置を思い浮かべた。私にとってはこのR駅付近で一押しのお店だ。ちょっと分かりづらい所にあるのが難点だが穴場的なお店で、2年ほど前にオープンし口コミで広がっているのか、最近お客が増えて来ているように思う。
先日も最近近くへ引っ越して来た大学時代の友人カップルを案内したら、とても気に入ってくれたから、きっと大丈夫。
「了解。それから、今から行く予定のお店は駐車場はあるかな?」
「あっ! そう言えば、ありません」
普段車に乗らないから駐車場の事まで考えが及ばなかった。急にガックリと気持ちが沈んだ。
「そこは、東口から近いの?」
「ええ、10分もかからないと思います」
「じゃあ、僕のマンションの駐車場へ停めて、歩いて行けるかも知れないね」
えっ? 森課長のマンション? そんな個人情報を私に教えていいの? と言うより、そんな事を知ってしまうのが怖い気がする。それに、誰かに見られないとも限らないし……。
「じゃあ、私R駅前で降りて待っています」
「えっ? そう? でも……そのお店はどちら方面なのかな? もし、僕のマンションから行く方が近かったら、一緒に行った方が時間も無駄にならないし」
「でも……森課長のご自宅まで一緒に行くのはどうかと……」
私の言葉に彼は一瞬絶句して、私の方をチラリと見ると急にハハハと笑い出した。
「妃さん、心配しなくても連れ込もうなんて思って無いし、駐車場まで行くだけだから」
「いや、そう言う意味じゃなくてですね、誰かに見られたら誤解されるんじゃないかと……」
彼の言葉に一気に羞恥心でパニックになり、私は必死で言い訳をした。
「君はそんなに人の目が気になるの?」
さっきまでののんびりとした雰囲気ががらりと変わり、少し低めの声で彼は問いかけて来た。
返答にぐっと言葉が詰まる。あなたと歩いているだけで、あなたのファンから責められるのと言ってしまえればいいのだけれど、何となくそれだと何の罪もない森課長を責めている様で、こちらも後味が悪い。
結局のところ私が人目が気になるのは、今回の事に限った事では無いと言う事は分かっているのだ。
あの美しい姉と外で一緒にいる所を誰かに見られて、似ていない妹だとガッカリされるのが嫌だった。だから、このイケメン課長と一緒にいて、釣り合わないと思われるのが嫌なのだ。全ては私の自信の無さ故なのだろうと、この年になってだんだんと分かって来た。
だけど、今回は自ら彼の誘いに乗ったのだから、そんな気持ちは全て呑み込んで、楽しまなくっちゃ。人気の森課長と二人で食事に行けるなんてラッキーぐらいに思わなくちゃ。
私はどうにか自分のコンプレックスに折り合いを付け、顔を上げた。
「すいません。私なんかが森課長と一緒にいて変に誤解されたら申し訳ないと思ってしまって……森課長が気にされないのなら、私ももう気にしません」
彼は私の話を聞いて、小さく溜息を吐いた。呆れられてしまっただろうか。
「さっきも話したように僕は噂なんて気にしないよ。別に疾しい事がある訳じゃないし、何が真実か本人達が分かっていればそれでいいと思う。ただね、君に誤解されたくない人がいるのなら、無理には誘わないから言って欲しいんだ。上司が誘うから断れないんだとしたらパワハラになるしね」
「いえ、パワハラだなんて、とんでもないです。私はただ、ご近所さんと美味しいお店の情報を共有できたらと思ってるだけで……先日も近所へ引っ越してきた友達に紹介して評判の良かったお店なんですよ」
私は彼に話しながら、彼のお誘いに乗った理由を自分自身に対して言い訳して納得させた。そう、決して惚れた訳じゃありません。
「そうそう、ご近所さんのよしみで情報を共有しましょう。それに一人で食べるより二人の方が美味しさも共有できるからね」
彼がまた明るい声を出したので、私はホッとして「そうですね」と明るく返した。けれど、美味しさの共有は今回限り、こんな社交辞令をまともに受けてはいけないと、どこか喜んでいる自分を諌めた。
「もう近くまで来ているかな?」
「あ、そうですね。二つ先の信号を右折してください」
もうそろそろ案内をしなくてはと思っていたら、タイミングよく訪ねられ、指示を出す。
「右折してから先は遠いの?」
「いえ、すぐですよ」
「じゃあ、その前に僕のマンションに車を停めますね。マンションは2つ目の信号の手前なんですよ」
私はもう反論する事無く素直に「わかりました」と返した。そして車が左のウインカーを出したと思ったら静かに左折し、マンションの敷地内に入って行く。
私はあれ?どこか見覚えがあるマンションと思い目を凝らすと、あっと驚いた。
ここは最近友人カップルが引っ越して来たマンションだ。大学時代のサークルの仲間だった友人達が、いつの間にか恋人同士になり、結婚を前提とした同棲を始めるため、このマンションに引っ越して来たのだった。
引っ越しの時に手伝いに来ていたので、ここの場所もマンションの建物も良く分かっている。おまけに今から案内するお店にその引越しの時にここから歩いていったのだった。
私が驚いているうちに、車は停められた。
「さあ、行こうか?」
彼の言葉に押されて私も車の外へ出る。やっぱり寒い。脱いでいたコートをもう一度着て彼の方を見ると、待っている間私の様子を見ていたようだ。目が合うと優しく微笑まれた。
私はカッとほほが熱くなるのを感じ、誤魔化すように俯いてコートのボタンを留める。
「やっぱり外は寒いね」
暖かかった車内から出たせいだけでは無く、彼はスーツだけだ。きっと車移動ばかりだから、コートの必要が無いのかもしれない。
「少し歩きますけど、上に着るもの無くても大丈夫ですか?」
「ああ、そうだね。あまり外を歩かないから上に着るものって考えて無かったよ。じゃあ、ちょっと待っていてくれるかな? 部屋まで行ってコートを取って来るよ」
私が分かりましたと承諾すると、彼は寒いからエントランスで待つように言い、一緒に入り口の自動ドアから入った。そして私をエントランスに残しエレベーターに乗って行った。
こんな所で待つのは何となく居心地が悪い。周りを見回すと防犯カメラを見つけ、少しでも映らないよう壁際に寄る。
何してんだ、私。と心の中で苦笑していると、入口の自動ドアが開いて、人が入って来た。驚いてそちらを見ると、その人と目が合い、再び驚いた。
「あれ、莉奈ちゃん、どうしたの?」
ああ、どうしてこのタイミングなの?
少し驚きながらも、いつものぽやんとした微笑みで近づいて来たのは、このマンションに住む友人カップルの片割れだった。