#06:姉へのコンプレックスと課長のお誘い
歓迎会から一ヶ月程が経った11月の下旬、定時に仕事を終え帰路に着いた私は、もうすっかり暗くなった街を駅に向かって歩いていた。
暗くなったと言っても大通り沿いの歩道は、ビルやお店の灯りと外灯の灯り、そして行きかう車のヘッドライトで、不安を感じるものではない。ただ、この時間になるとずいぶん冷え込み、無意識にコートの襟元に手をやり首をすくめていた。
空を見上げて、もう今年もあと一ヶ月でお終いだとと小さく息を吐く。
来年はいよいよ30代に突入する。20代と30代の間には大きな壁が存在すると思っていたのに、このままではスルリと30代になってしまいそうで怖い。
そもそも自分がこの年まで独身でいるなんて、想像さえしていなかった。
昨夜の母親からの電話を思い出した。
「莉奈、本当にお付き合いしている人はいないの?」
去年あたりから、母親からのこんな電話が増えた。私が「いない」と答えると、決まって「こちらへ帰ってらっしゃい」と言う。いい年した娘がいつまでも都会で一人暮らししているのが心配らしい。もう10年以上一人暮らしをしていると言うのに。
「こちらに帰ってきたら、昂也さんに、誰か紹介してもらえると思うのよ。今の支店には結構独身の人多いんですって」
昂也さんと言うのは姉由梨の夫だ。義兄は地元の地方銀行に勤めている。結婚当初は義兄がアメリカ赴任中だったため、小学校の教師をしていた姉は結婚と同時に仕事を辞め、義兄についてアメリカへ行ってしまった。そして5年前、地元へ帰って来ると、婿養子と言う事もあり、私の実家で両親と同居している。姉は地元へ戻ってから、もう一度教員採用試験を受けて再び教師をしていた。
今年のお盆に実家へ帰った時、母親は冗談ののように「莉奈のお婿さんにいい人居ないかしら?」とわざわざ私の前で義兄に話しかけた。それは当てつけだと思い、私がムッとして母を睨んでも、母はどこ吹く風だ。
お義兄さんの方が気を使って「莉奈ちゃんなら、自分でいい人を見つけますよ」と私を庇うように言ってくれた。
それでも、母は諦めていないようで、こうして何度も『帰ってこい』コールをかけてくる。
「なかなか結婚しないのは由梨の方だと思ってたけど……莉奈は別に結婚したくない訳じゃないんでしょう?」
昨夜の母は溜息交じりにそんな事を聞いて来た。私はそれに答えるより、母の言葉に引っかかった。
「何言ってるの。お姉ちゃんなら、引く手あまたなんだから、相手はいくらでもいたでしょう? 現に早く結婚したじゃない」
そう、姉は私より4歳上で、近所でも評判の……いえ、誰の目をも釘づけにする程美しかった。凛として侵しがたい美しさのオーラがあり、微笑めば聖母の慈愛のようなものを感じさせた。これはけして大げさでは無く、身内の欲目でも無い。けれど私は、同じ親から生まれたと言うのに、ちっとも姉には似ていなかった。
あの姉の妹だと分かると、皆驚き、そして一様に同情の眼差しを向けるか、私を通じて姉に取り入ろうとする。ただ、4歳離れていたおかげで、中学・高校と重なる事は無く過ごせたのは幸いだった。
小さい頃から比べられ続けて来た私には、姉は自慢でもあり憧れでもあったけれど、一方でずっとコンプレックスも感じ続けていた。
私が中三になる頃には姉は遠く離れた他県の大学へ進学し、4年後教師になるために地元へ帰って来ると、入れ替わりで私が家を出て都会の大学へと進学した。そして、そのまま都会で就職し、現在に至る。
だから、姉とは14歳までしか一緒に暮らしていないし、その後も年に数回会うだけだった私には、姉の恋愛も結婚に至る過程も知らない。
姉の結婚が決まって、初めて義兄となる昂也さんを紹介された時、私は驚きと失望を感じた事を覚えている。姉の結婚相手は絶対にカッコよくてイケメンだと信じていたからだ。そう、あの森課長の様な人を想像していたのだ。
「莉奈は何も知らなかったわね。由梨は、いろいろ嫌な目にあってすっかり男性不信になっちゃって、絶対に結婚なんかしないって言ってたのよ。それで、女一人でも生きて行けるようにって教師になったの。それがいきなり結婚したい人がいるって言い出したから驚いたのよね」
「嫌な目って? お姉ちゃんに何があったの?!」
私の知ってる姉は、いつも皆から注目され、男の人にモテモテだと思っていた。それが嫌な目って……まさか……。
「莉奈ったら、変な事想像してないでしょうね? 余りにモテ過ぎると、妬みや恨みを買ったり、ストーカーまがいの事があったりとかね、大変だったのよ」
そんな事……何も知らなかった。私は私のコンプレックスと戦うので精一杯だった。姉の大変さなんて、思いもしなかった。
しばし私が絶句していると、母はクスクス笑いながら「でも、昂也さんのお陰で、由梨は今、とっても幸せでしょ? だから、莉奈も早く結婚しなさい」と話を締めくくったのだった。
結局それが言いたいのか……。
確かにお義兄さんはイケメンじゃないけど、とても優しくていい人だと思う。だからと言ってお義兄さんに誰かいい人を紹介して欲しいとは、とても思えない。だって、あの美人の奥さんの妹だって言ったら、皆期待するじゃない! そして実物を見てガッカリなんてされたら……。
「お母さん、お義兄さんに紹介してなんて頼まなくていいからね。結婚したくない訳でもないし、自分で何とかするから……しばらく放っておいて」
私は言い捨てるように言うと通話を切った。何かまだ言っていたようだったけれど、もう知らない。
つらつらと昨夜の母との電話を思い出し、又余計に落ち込んだ。
自分で何とかするって……当てもないのに。結婚どころか、恋愛さえできそうにない。第一出会いもないし……と思った所で、すぐ傍からクラクションの音が聞こえ、驚いて足を止め車道を見た。
クラクションを鳴らした車が、私の歩調に合わせて停まる。巷でよく見るハイブリッドの国産車。すぐに助手席側の窓が開いた。
「妃さん、お疲れ様」
「も、森課長!」
運転席から助手席の方へ乗り出すようにして、開けた窓から声をかけて来たのは、相変わらず月見効果によって胸が高鳴る相手で……今回も余りの突然の登場に心臓は大きく飛び跳ねた。
「もう帰るんでしょう? 僕も直帰なんだ。一緒の方向だから、乗って行きませんか?」
「と、とんでもないです。お気遣いありがとうございます。でも、もう駅はそこですので、大丈夫ですから……」
森課長の車になんか乗っているのを見られたら、今度はどんなに責められるか……恐ろしい!
「ほら、前に約束したでしょう? 美味しいお店を教えてくれると。今日は時間もあるし、出来たらお願いできないかな? それとも何か用事がある?」
うっ、と言葉に詰まった。約束と言われると、無下に断れない。あの時は社交辞令だと思って安請け合いをしてしまった。
お店の場所だけ教えるって言うのはダメかな? って、森課長は今から一緒に行きましょうって言ってるんだよね?
一回だけ教えれば、約束を果たした事になるかな?
「ごめん。余りに突然で不躾だったね。また、妃さんの都合のよい時にでも教えてくれるかな?」
しばし逡巡していたせいで困っていると思ったのか、森課長は気を回して突然の誘いを撤回した。それでもお店を教えて欲しいのは本気のようだ。
相手に引かれると、急に残念な気持ちになってしまうのは、どう言う事だろう。
「いえ、大丈夫です。この後は帰るだけでしたから」
慌てて引きとめるように言った自分自身に驚いた。
「本当にいいのかな?」
彼は尚も心配気に尋ね返す。
「ええ、私のお勧めのお店でよければ」
私はすっかり覚悟を決め、ニッコリと微笑んだ。そして彼の勧めるまま、助手席に乗ろうとドアノブに手をかけた所で、キョロキョロと周りを見回した。
危ない、危ない。もうすっかり夜の帳が下りたと言っても、ビルやお店の灯りでそれなりに明るい歩道では、誰の目があるかも分からない。
私は見える範囲にこちらを見ている人がいない事を確認してから、素早く車に乗り込んだのだった。