#04:月見効果
月曜日、いつもの日常が始まった。朝の準備をし席に着く頃、早朝の役職会議を終えた森課長が戻って来る。いつもの様に爽やかな笑顔で皆に挨拶をしながら自分の席へと向かって行く。きっと今頃給湯室では、誰が森課長にお茶を入れるかでもめているだろう。
「おはようございます」
私の後ろを通ろうとしていた彼を見上げて挨拶をする。私に視線を向けた彼の目元が少し緩んで「おはよう」と挨拶が返って来た。
たったそれだけの事なのに、心臓が跳ねた。
今までの彼なら、どこか一線を引いた笑顔だったけれど、今日は違って見えた。おそらく金曜日の歓迎会の後の駅までの同行で、いつもと違う彼の顔を見たせいだ。
話をしてみると普段知らなかったいろいろな顔を知り、その上ご近所さんだったと言う事が、より近しく感じたからだろう。
そう、ただそれだけの事のはずなのに、私の心臓はやけに早い。
こんな事を考えていたせいか、頬まで熱くなってきたような気がして、私は誰にも気付かれないように(気持ちは焦って)トイレへと向かった。
まだ就業前で良かった。
私はトイレの鏡の前で、大きく息を吐き出すと自分の顔を見つめた。うっすらと頬が赤く感じるのは、意識し過ぎているせいか。
そもそも森課長の笑顔は女性には毒なのよ。あまーい毒。その気が無くても、あの笑顔を見せられたら、誰だってドキドキして当りまえ。
自分を擁護するように、心の中でぼやいてみるけれど、イケメンに弱い女心が情けなくなった。
さあさ、こんな事ばかり考えてないで、仕事よ。
自分に活を入れ、用をたすために個室へ入ると、数人の女性がトイレへ入って来たのか、複数の声が聞こえて来た。
「なんだか木下さん、必死だよねぇ」
「そうそう、森課長のお茶出し、先週も木下さん一番多かったよね」
「ジャンケンであんなに必死になられてもねぇ」
どうやら営業部の女子で私の次に勤続年数の長い、2コ下の木下さんが今日の森課長のお茶当番になったらしい。
「木下さん、妃さんみたいになりたくないから、寿退社狙ってるんでしょう」
「それで森課長を狙うって、身の程知らずだよねぇ」
な、なに?
何やら聞き捨てならない事言わなかった?
私みたいになりたくない、って?
どう言う事よ?
「妃さんって、たしかもう29なんでしょ? 営業部の女子って、30になると移動させられるって、ホント?」
「そうらしいよぉ。部長、若い娘好きだもんね」
「それで、木下さん焦ってる訳か」
「妃さんが他へ移動しちゃったら、木下さんが一番上になっちゃうもんね。それは焦るよねぇ」
30になるとと言うのは単なる噂じゃなく、今までがそうだった。だからと言って、そういう規定がある訳じゃないので、上司次第なのかもしれないけれど……。
今お喋りしている娘達は皆入社3年以内で、腰掛けのつもりの女子ばかりだ。会社自体もそう言う風潮を推奨している様な所があるし……。私自身もそんな風潮に流されていた時もあった。
それにしても、皆にあんな風に思われてる事はなんとなく分かっていたけど……そんな事言ってるあなた達だって、すぐに年を取るんだからね。
心の中で悪態を吐きながらも、今トイレから出て行くのは憚れる。一番奥の個室で良かった。ここのトイレのドアは、人が入っていても入っていなくても閉まった状態なので、気付かれにくいのだ。
どうやら彼女達はお喋りと化粧チェックのためだけにトイレに来たようで、誰も個室に入る様子は無かった。
「それにしてもさ、最近転勤組にいい人いなかったけど、森課長は久々のヒットだよね」
「今は恋愛事は考えられないって言ってたけど、やっぱり彼女はいないのかな?」
「いたとしても、前の支社からだと遠距離でしょう? 毎日顔を合わす私達の方がチャンスありじゃない?」
「私、森課長の事、本気で狙おうかな」
「ひやぁ~、江梨香がライバルじゃ、誰も敵わないわね。でも、社内恋愛は嫌だって言ってたじゃない?」
「そうだけど、森課長は別よ。森課長って女性に対して一線を引いた様な態度だったから、彼女がいるのかと思ったけど……今はその気になれないなら、ならせてみたいわね」
藤川江梨香は入社3年目の25歳。地元の市のミスコンや大学のミスコンで優勝しているらしい。この支社一の美人と言われているし、彼女自身も自分の容姿に自信があるのが良く分かる。
へぇ、彼女も森課長狙いなのか……。まあ、一部を除いた支社中の独身女性が彼を狙っているだろう。それ程彼はその容姿も仕事のキャリアも最高の部類に入るのだから。
モテモテですね、森課長。まあ、私は除いた一部に入るのだけど。けしてこの胸のドキドキは、よくある理由じゃありませんから。
誰に言い訳してるんだかと心の中で苦笑しながら、若いっていいわねと思った自分にまた呆れてしまった。
職場に戻り午前の仕事を始めてしまうと、今朝のドキドキも、後輩達のお喋りも忘れ、没頭する事が出来た。しかしそれも、森課長が声をかけて来るまでだった。
「妃さん、この提案書の事だけど……」
胸に沁み入る様な低音に名前を呼ばれた途端、又心臓が跳ねた。
なんなの? 森課長の声に条件反射のように跳ねるこの心臓は。
森課長は今までの課長のように自分の席まで呼び付けるのじゃなく、フットワーク軽く用事のある人の所へやって来る事が多い。
それじゃぁ、課長の威厳が危ういですよ。
傍に立った課長の顔を見上げたけれど、すぐに差し出された資料に目を落とした。
あぶない、あぶない。こんなに近くから彼の顔をまともに見たら、又心臓が暴走しかねない。
私も学習しないとね。
こんなに近くであの毒の笑顔を見せられたりしたら、また顔が赤くなるかもしれないもの。
森課長と会話を続けながら、視線は資料から離さなかった。
「それじゃあ、変更の直し、よろしくね」
「わかりました。午前中に直しておきます」
私はやはり課長の方を見ずに視線をモニターへ移しながら答えた。
そして遠ざかる足音を聞き、私はやっと安堵の息を吐いたのだった。
それにしても、この心臓の条件反射はいつになったら解除されるのだろう?
人間の一生における心拍数は決まっていると言うから、森課長に声をかけられるたびにドキドキしてたら、寿命が縮まるっちゅーの。
あの時のあの言葉がいけなかったのよね。
『月が綺麗だね』
あの胸に染み入るような低音で、こんな事言われたら、誰だって惚れてまうやろ!! って、古すぎるギャグでした。
いや、私、惚れたわけじゃありませんから。
これは、そう、あれよ。あれと同じ。「吊り橋効果」ってやつ。
揺れる吊り橋を渡る緊張と興奮から来るドキドキを、吊橋で出会った女性の魅力にドキドキしていると錯覚してしまうと言う、あれ。錯覚によって恋をしたと思い込むらしい。
今回の場合は、『月が綺麗だね』と言う言葉からあの小説を思い出し、愛の言葉のように聞こえてドキドキした事が、どうやら私の心臓に影響を及ぼしたようだ。
これは要するに、「吊り橋効果」ならぬ「月見効果」ってやつだろうか。
私はキーボードを打ちながら、頭の片隅でそんな事を考え、心の中で自嘲の笑みをこぼした。