#03:帰り道の秘密
「二次会へ行かれたんじゃ……」
森課長が突然現れた事に驚き、私は高鳴る胸を押さえながら、問いかけていた。
「ああ、ずっと忙しくて睡眠不足が続いていてね、二次会は勘弁してもらったんだ。……それに、若い人たちの二次会に上司がいてはみんな楽しめないだろ?」
いえいえ、女子はみんな課長が目当てなんですから、と心の中で呟きながら「そんな事無いと思いますよ」と答えると、彼は苦笑するようにハハッと笑った。
「ところで、妃さんはR駅を利用しているの?」
まさしく今向かおうとしていた駅の名前を言われ、初めてどうしてここに課長がいるのだろうかと思い至った。
「ええ、森課長もR駅へ行かれるんですか?」
「ああ、いつもは車通勤なんだが、今日は飲むと分かっていたから電車にしたんだよ。じゃあ、一緒に行こう」
どうりで、いつもの通勤では見ないはずだ。役付きは車通勤が認められているのだ。
森課長はそう言うと駅に向かって歩き出した。その隣を歩きながら、会社の女子に見つかったら、恨まれそうだと思いながらも、胸の高鳴りはなかなか鎮まらない。
「タクシーで帰っても良かったんだけど、月が綺麗でなんだか歩きたくなってね。君が立ち止まって月を見上げていたから、思わず声をかけてしまったよ」
少し照れながら、私に声をかけるまでの様子を説明する彼は、なんだか可愛い。課長の初めて見る姿に、又心臓のドキドキは早くなった。
「今夜は十三夜らしいですよ。十五夜の次に美しい月らしいです」
私は胸の高鳴りを悟られないように、落ち着いた声で言った。それを受けて彼は「へぇ~、そうなんだ」と少し砕けた相槌を打ち、こちらを見てニッコリと笑った。
な、な、なんですか。ここでそんな笑顔は反則ですよ。
慌てた内心を悟られたくなくて、私は顔をそむけるように前を向いた。夜で良かった。もしかすると、顔が紅くなってるかも知れない。
「森課長もこちらの路線沿線に住んでいらっしゃるんですか?」
しばらく無言のまま歩いていたが、黙っているのも居た堪れなくて、差しさわりの無い話題を選んだつもりだったけれど、言ってしまってから思いっきりプライベートな事だと気付いた。それでも彼は気にした様子が無いので、ホッと胸をなでおろす。
「もともと車通勤の予定だったから、電車の路線なんて考えて無くて、不動産屋に紹介してもらった中から急いで選んだんだ。急な転勤だったしね。それにしても毎日R駅と会社の間の徒歩は大変だね」
「慣れるとそうでもないですよ。運動に丁度良いんです」
そう言って彼の方を見上げると、彼もこちらを見てフッと笑った。
「なんだか妃さんらしいね。真面目と言うか、前向きと言うか、愚痴や不満なんて君の口から聞いた事が無い。どんな事も嫌な顔せずに引き受けてくれるし、未熟な営業マンのフォローもしてくれるし、何よりも商品の知識は営業マンよりも上なんじゃないかな」
いきなりの褒め言葉の連続に驚いて呆気に取られたけれど、私は急に羞恥心に襲われた。
「森課長、酔ってらっしゃるんですか? そんなに褒めて、仕事を沢山回そうとか思ってらっしゃるんじゃないでしょうね」
私が少し睨んで言うと、彼はハハハッと笑った。
「いや、いや、いや、取引先からも評判が良いんだよ、君は。妃さんを営業担当にして欲しいと言われるぐらいなんだよ」
取引先から問い合わせがあると、担当営業社員が外へ出ている事が多いので、代わりに話を聞いて分かる範囲で答えてはいたが、もちろん後から担当者にフォローはしてもらっていた。けれど、そもそも取引先への資料などは女性社員がつくっているので、詳しくなって当たり前なのだ。
「とんでもないです。仕事上商品の事には詳しくなりますけど、営業としてのスキルはありません」
「そうかな? 君の電話対応は素晴らしいと聞いているよ」
「もぉ、どこの誰ですか? そんなデマを飛ばしているのは。きっと皆そうやって褒めて、私に電話を押しつけようと言う魂胆なんですよ」
確かに、取引先からの電話で私を指名してくださる事も多少なりともある。でも、素晴らしいと言うレベルでは無い。
私の言葉に、彼は又笑いだした。
こんなに笑う人だったかな?
そんな風に思っていると、彼の方も「君って面白い人なんだね」と言うではないか。
私は驚いて彼の方を見上げると、彼は先程と同じように優しい笑顔を見せた。
私は内心慌てた。心臓が壊れたのだろうかと思う程、ドキドキしている。
思わず顔をそらして前を見ると、やっと目的地の駅が見えて来て、私はホッとしたのだった。
「妃さんの姓って……」
「えっ?」
森課長が何か言いかけたけれど、自分の胸の高鳴りを悟られまいとしていた私の耳にはよく聞こえず、問い返すと、彼は「何でもない」と話を打ち切り券売機の方へ向かって行った。
彼を待つべきだろうかと一瞬思案したが、鞄から定期を出すとゆっくりと改札に向かった。その内に追いついて来るだろう。
「妃さんもこちらのホーム?」
追いついてきた彼の何気ない問いかけに、彼も同じ方面行きだと知る。私が頷くと「どこまで?」と重ねて聞いてきた彼には、別に他意は無いのだろう。
「S駅です」と、ここから3つ先の駅名を告げる。すると彼の顔が驚いた様な表情に変わった。
「へぇ~、同じ駅だなんて、ご近所さんだったんだね。この一カ月、会社と自宅の往復だけだったから、自宅周辺もまだよく知らないんだ」
驚いた。まさか同じ駅周辺に住んでいるなんて。でも、同じ駅を利用していても、東口方面と西口方面では、街の様子が全然違う。私の住んでいる西口方面は昔からの住宅街と商店街のある地域で、東口方面は最近開けて来た新しい街だ。おしゃれな商業施設やマンションが増えつつある。
森課長はどちら側に住んでいるのだろうかと思ったけれど、どちらにしても私には関係ない事だと思い直した。
「驚きました。会社の人は近所ではあまり見かけないので」
「妃さんは、ご家族と住んでいるの?」
「いえ、大学からそこで一人暮らしをしています。とても気に入ってる所なんです」
「じゃあ、良い所なんだね。又、美味しいお店とか教えてもらえると嬉しいな」
彼はそう言うと、また私の方を見てニッコリと笑った。いつも会社で見せているよそ行き用の爽やかな笑顔では無くて、親しみを感じる優しい笑顔。見惚れそうになった私は、慌てて「私の気に入っているお店で良ければ」と笑顔を返した。
やってきた電車に乗り込み、乗降口近くの手すりを掴んでたつと、彼は私を庇うように手すりの上部に手をかけて立った。週末のせいかこの時間でも乗客は多い。
こんなに傍に立たれると、余計に意識してしまう。こんなに背が高かったんだと、今更ながら思いながらも、目の前にある彼の胸の厚みに男性である事を意識してしまう。何ときめいてるのよ! と、自分にツッコミながら、視線をそらした。
やがてS駅に着くと二人は降り、彼が自分とは反対の東口方面の改札へ向かうのが分かり、私は声をかけた。
「森課長、私は西口なので、ここで失礼します」
「ああ、妃さんは反対側なんだね。住まいは駅から近いの? 送っていこうか?」
「いいえ、大丈夫です。駅前の商店街を抜けたすぐの所なので、急げば10分もかからない位ですから」
「そう、じゃあ、気を付けて。今日はお疲れさまでした」
「はい、失礼します」
私は会釈するとくるりと背を向けて、反対方向へ歩き出した。しかし、急にある事に思い至り、振り返った。
振り返った途端、彼と目が合った。なんと彼は、まだそこに佇んだまま、こちらを見ていたのだ。
一瞬ドキリとしたけれど、平静を装って彼の傍へ戻った。
「森課長、今日一緒に帰った事、会社の人には内緒にしておいてくれますか? 森課長は女子社員に人気があるから、恨まれそうだから……」
私の話にきょとんとした彼は、冗談だと思ったのか、ハハハッと笑い出した。
「それは、妃さんが彼に知られると嫌だからかな?」
「彼なんていません。本当に森課長ファンが沢山いるんですよ」
「まあ、そう言う事にしておきましょう。今日の事は秘密と言う事だね?」
どこか楽しそうに言う彼に私は頷くと、「よろしくお願いします」と頭を下げ、今度こそ本当に「失礼します」と踵を返した。