#02:歓迎会
森課長が就任した頃は部内全体が忙しく、彼の歓迎会は一ヶ月近く経った10月の最終金曜日の就業後となった。
「今日の歓迎会は営業部だけだから、他の部の女子から妬まれているんですよ。あー、私、営業部でよかった」
今日の朝、嬉しそうに言っていたのは同じ課の後輩女子。私は曖昧に笑っただけで、同意するほど共感は無かった。
いつもの会社近くの居酒屋で2時間飲み放題と言うコースで始まった歓迎会は、予想通り森課長の周りに若い女性社員が集まった。
「妃女史は行かなくていいんですか?」
女子社員に囲まれて少し照れたように笑っている森課長を遠目に見ながら、飲むよりも食べる方に専念していたら、今年二年目の同じ課の男性社員に声をかけられた。
『女史』と呼ばれているらしいとは聞いていたけれど、いつもそそっかしくて尻拭いの様なフォローをしてやっている後輩に、面と向かって呼ばれるとは思っていなかった。
「女史って……」
思わず口に出てしまったのは、女史だなんてまるでお局様みたいじゃないかと思っていたからだろう。
やっぱり職場の女子で一番年上ともなると、お局様扱いなのか?
それとも20代最後の年となると、もうそんな扱いなのか……。
「ば、ばか、お前妃の事、そんな風に呼ぶな。妃も気にするんじゃないぞ。こいつは妃の事、尊敬を込めて女史って呼んでるんだからな」
同期の男性社員が慌てたように口を挟む。たしかに『女史』とは敬意を込めて呼ぶ場合が正式だろうけれど、現在は皮肉を込めて呼ぶ場合が多いのじゃないだろうか?
でも、そんな慰め要らないよ。
「大丈夫、気にしてないから」
こんな時、部署内での自分の立ち位置を自覚するけれど、私は余裕有り気にニッコリと笑って見せた。
そんな中でキャリア志向でもなく、寿退社の波にも乗れず……って、別に乗りたいとも思って無いんだけどね。たとえ補助的な仕事であっても自分なりに一生懸命働いているし、親元から離れて自立もしている。何ら卑下する事は無いと思っているのだ。
「妃、お前んとこの課長なんだから、酌でもしてこなくていいのか?」
「やっぱり行かないとダメかな?」
「一応歓迎会なんだから、よろしくお願いしますぐらい言っといた方が良いんじゃないか? それに、他の女子みたいに、あのイケメン課長に興味ないの?」
このお節介な同期は、早くに結婚して子供までいるからか、いつまでも結婚しないどころか、イケメンにも興味を示さない私を心配してくれているらしい。
「私が興味ないんじゃなくて、向うが私なんかに興味ないでしょ。まあ、ちょっと挨拶でもしてくるよ」
そう言うと私は傍にあったビール瓶を持って立ち上がった。
森課長に近づいて行くと、彼を取り囲む女子社員の声が聞こえて来た。
「森課長は彼女いらっしゃるんですか?」
この事が今の支社の独身女性の一番の関心ごとに違いない。さっきは同期にあんな事を言ったけれど、わたしもやっぱり森課長の返事に耳をすませていた。
「今は仕事の事しか頭に無くてね。課長になったばかりなので、恋愛事を考える余裕が無いんだよ。当分そう言う事は考えられないかな?」
森課長の返事に、その場の女性達は「えー!」と残念さを漂わせたブーイングをしながらも、どこか安堵の表情が見えた。
けれど私は、彼が彼女がいるともいないとも答えていない事に気付いた。もしかしたら彼も遠距離の彼女を隠しているのかもしれない。あんなに素敵な人なのだから、彼女がいないなんて考えられない。
それでもいると言わないのは、女性達の好意を利用して仕事を円滑に進めたいと考えているのかもしれない。
やっぱり早くに課長にまでなる人だから、結構策士なのかも。でも私は騙されない。
私は改めて気合を入れ直して、森課長に近づいた。
「森課長、赴任されてから忙しい日々が続いてお疲れさまでした。これからも宜しくお願いします」
私は挨拶をすると森課長のグラスにビールを注いだ。
「妃さんにはいろいろと教えて頂いて助かりました。こちらこそよろしくお願いします」
森課長は女性達が見惚れる爽やかな笑顔で、グラスにビールを受けながら言葉を返してくれた。
森課長、その笑顔、女性にはやっぱり毒ですよ。
目の前の森課長の笑顔に、無意識に見惚れてしまった事に気付き苦笑する。
きっと彼女の前ではもっと甘い笑顔を見せるのだろうと想像して、私は自分の中でときめきそうになる心を牽制した。
歓迎会がお開きになると、2次会へ行く者たちがぞろぞろと連れ立って歩き出した中に主役の課長の姿もあった。
私は彼らの後姿を見送った後、駅に向かって歩き出した。
私の普段利用している私鉄路線は、会社の最寄駅の路線とは違い、会社から一番近い駅でも、その倍以上の距離がある。
乗換えをすれば最寄り駅からでも帰れるのだが、ずいぶん遠回りになってしまい、駅までの距離が遠くても、結局自宅へ帰り着くのはこちらの方が早いのだった。
学生の頃から住んでいるアパートは、古めだけれど愛着がわいているし、駅に近い事も、駅とアパートの間に古い商店街がある事も気に入っていて、就職後も引っ越しをする事は考えなかった。
営業部の同僚の中にこちらの路線を利用している人がいないせいか、駅までの道のりは一人きりだ。その事を寂しく思うより、やっと解放された様な気になって、知らずに入っていた肩の力が抜けた。
秋は確実に深まり、夜の空気はコートが無いと寒いぐらいになっている。それでもお酒でほんのりと火照った頬には気持ちが良かった。私は少し距離のある駅までの道を、いつもよりゆっくり目な歩調で歩きながら、先程の歓迎会の時の課長の言葉を思い出した。
今は仕事の事で一杯で恋愛事は考えられない、か……。それでは牽制になっていませんよ、森課長。じゃあ、仕事に慣れたら考えるんですかとか、私が考えられるようにしてあげましょうって言う、積極的な肉食系女子がいるんですよ。
私は心のどこかで、あのイケメンで感じの良い課長が、二股とか、適当にこの支社の女子社員を摘み食いするような人であって欲しくないと思っている。でも、またどこかで、外見の良い男なんか信用してはダメだと言う声が聞こえるのが悲しかった。
そんな思いに囚われた自分を嫌悪しながら、課長の事を頭の中から追い出す。
まあ、課長もそのうち、ここの女子のしたたかさを思い知るでしょう。
通りを行きかう車のヘッドライトと、街灯や建物の灯りのせいで空を見上げても星はよく見えない。それでも、頭上高くに上って来たまあるい月は、地上の光に負けずに輝いている。
確か、十三夜だったっけ?
今朝のTVの情報番組でそんな事を言っていたなと思い出しながら、十三夜と言う名の響きが好きだなと思う。
いつの間にか足を止めて、私は夜空を見上げていた。空気が澄んでいるせいかくっきりと見える月の姿に、すっかり囚われていた。
「月が綺麗だね」
聞き覚えのある低音に、胸が震えた。
デジャブの様に感じるのは、何度も読み返したあの小説に似たシチュエーションのせいか。
これは私に言われた言葉だろうかと思案する暇もなく、思わず振り返った私の眼に映ったのは、みんなと二次会に行ったはずの森課長。
彼の言葉はそのままの意味だと分かっているのに、心臓がドキドキと走り出す。
私と目があった彼は、優しい笑顔を見せた。