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#01:イケメン課長がやってきた

十三夜の今日、連載を始めます。

どうぞよろしく。

私がそれを知ったのは、たまたま読んだオンラインノベルだった。


 大財閥のお嬢様と、彼女の教育係兼ボディーガードだった男との悲恋物語。

 お嬢様が初等部に上がった時から、彼女に付き添うようになったその男は、彼女よりも18歳上で、寡黙な上に勉強の教え方は厳しく、それでも常に寄り添う彼の眼差しに、お嬢様は守られている安心と信頼を感じていた。彼女にとって、忙しい両親や年の離れた兄よりも、最も身近な存在だった。

 そして思春期になった彼女の中で、彼の存在が異性に対する物へと徐々に変化していった。でも、彼女は分かっていた。それはけして表に出してはいけない感情だと言う事を。

 そんな彼女が高校生になったある時、英語の教師から夏目漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳したと言う話を聞いた。彼女は昔の日本人の奥ゆかしさに感動し、自分の中の秘めた想いもいつかそんな言葉で告げる事が出来たらと、小さな願いを持つようになった。

 いつも傍にいる彼は、月夜に「月が綺麗ですね」と言ったら、ただ言葉のままに受けとるだろうか? それとも、博識の彼の事、夏目漱石のこの逸話も当然のごとく知っていて、彼女の気持ちに気付くだろうか?

 彼女はこの小さな願いが胸の中で大きな勇気に育ったら、きっと彼に告げてみようと決心していた。

 しかし現実は彼女のそんな願いなど関係無く、彼女が20歳になった頃、親の決めた人と婚約する事になった。そして、大学の卒業と同時に結婚する事に決まった。彼女の小さな願いは大きく育つ前に、胸の中で永久凍結されてしまった。

 結婚を間近に控えたある夜、料理教室からの帰りの車の中から見た冬空に冷たく輝く満月の光に、彼女の胸の奥深く永久凍結させたはずの願いが共鳴した。

 彼女は運転する彼に、少し外の空気が吸いたいから車を停めて欲しいと願いでる。停めた車から降りた二人は、ピンと張りつめたような夜の冷たい空気の中、夜空を見上げた。

「今夜は月が綺麗ですね」

 彼女の背後から聞こえて来たのは、寡黙な彼の低音の声。その瞬間、彼女の胸に熱い想いが込み上げ、見上げている月がぼやけ出した。

「ええ、そうね。本当に綺麗」

 彼女は、それだけ言うのがやっとだった。

 結婚もせずに彼女に寄り添い続けた彼の胸の内は分からないけれど、彼女はそれで全てが報われたような気がしたのだった。


  

「はぁ~、月が綺麗ですね、か……」 

 私はこのお話を読むまで、夏目漱石の「I Love You」の訳についての話を知らなかった。

 今時「月が綺麗ですね」と言われて、それが愛の言葉だと思う人はいないだろう。けれど、夏目漱石の訳を知っている人が、その想いを込めて言ったのだとしたら?

 そんなの、相手も夏目漱石の訳を知らなかったら、意味ないじゃない。

 そんな風に思っても、知ってしまった今となっては、誰かに何の意図もなく「月が綺麗ですね」と言われても、なんだかドキドキしてしまいそうだ。


               *****


 私、妃莉奈(きさきりな)は大学卒業後、中堅どころのメーカーの支社に就職し、営業部に配属されて7年目。気付けば、同じ部署の女子社員の中で一番年上になっていた。

(きさき)さん、今度来る課長、イケメンの独身だって知ってました?」

 職場の後輩が嬉しそうに瞳を輝かせて話しかけて来た。

 課長が病気で入院し、復帰までに時間がかかるとの事で、急きょ別の支社から課長が来る事になったのだ。この後輩は人事課に同期がいるので、そちらからの情報だろう。

「知らなかったけど、若いの?」

 今までの課長が40代だったので、独身と聞いてもいくつぐらいか見当もつかない。

「33歳ですって。この若さで課長だなんて、大抜擢らしいですよ」

「へ~そうなんだ」

 若い課長って、どうなんだろう? 

「新しい課長が来るの、楽しみですね」

 彼女はまた嬉しそうに笑った。


 新課長がやって来た10月の初め、支社中の女性社員が色めきたった。新課長は噂通りの、否、噂以上のイケメンだったからだ。

 背が高く、整った顔に爽やかな笑顔の森課長は、その気の無い私の目までも惹きつける。その上私の好きな俳優に少し似ているのが悔しい。こんな時、イケメンに弱い女性ゆえの心情に嘆息する。これで見た目だけの課長だったら、早々に見る目が変わるのだろうけれど、やはり課長に大抜擢されただけあって、嫌味の無い人柄や仕事に対する精力的で真摯な態度は、すぐに同僚達に受け入れられた。特に女性から熱い眼差しを向けられても、一線を引いた様な公平な態度が、男性社員に受けが良かったようだった。


「新しい課長、モテモテみたいだけど、上司としてどう?」

 同期の友人で総務部の上条美奈子(かみじょうみなこ)から興味津々に訊かれたのは、森課長が来て3日程経った社員食堂だった。

「前の課長より良いかもしれない。……ただね、営業の女子達が気もそぞろになってるのがねぇ」

 前の課長は少々頑固で融通が聞かないところがあったけれど、森課長は年齢的にも近いせいか、私達の気持ちを理解してくみ取ってくれようとする。私の中で森課長の評価は前課長よりずっと高かった。それより、朝から誰が森課長にお茶を出すかでもめている女子社員達の方がうんざりしてしまう。

「あれは仕方ないよ」

 そう言って友人はクスクスと笑っている。

「まあ、課長の方も慣れているのか、あしらいが上手いけどね」

「ふ~ん。それで、どうなの? 莉奈は森課長争奪戦に参戦しないの?」

「バカな事言わないで。転勤組はもううんざりよ」

 この会社の男性は本社採用と支社採用があり、本社採用は全国及び海外にある支社や営業所を数年単位で転勤し、最終的に本社勤務もしくは支社長等に着くのが慣例であり、いわゆるエリートだった。支社採用の男性は転勤がなく、必然的に出世はあまり望めない。女性は全て転勤の無い本社もしくは支社採用だった。

 そもそもこの会社は男性優位の会社で、女性の仕事は男性の補助的なもので、キャリア志向の女性は早々に見切りを付けて転職していく。また、仕事よりも安定を選んだ女性は転勤組のエリートの男性の中から結婚相手を見つけて、その相手の次の転勤と共に結婚退職をしていく。そんな慣例に乗りきれない、もしくは乗らない女子社員もいるが、転勤組がよくやって来る営業部の女子社員は、結婚退職していく率が高いのだった。


「莉奈、あれは転勤組だからじゃなくて、あの男が悪かっただけでしょ。あんな浮気者と結婚しなくて良かったじゃないの」

 辛辣な美奈子の言葉に、嫌な過去を思い出す。

 そう、私も慣例に従うがごとく転勤組の彼と付き合っていた事があった。私の入社2年目の頃に転勤してきた彼と出会い、その約1年後に付き合い始めた。ただ、私と彼が付き合っていた事を知っているのは美奈子だけだった。彼が、同じ職場で付き合っていると周りに気を使わせるから内緒にしておこうと言ったからだった。

 付き合って2年になる頃、彼の転勤話が持ち上がった。そのことを最初に聞いたのは彼の口からではなく、同僚の情報通からの噂だった。他の人の口から聞かされたのは多少ショックの気持ちもあったけれど、それよりもこの転勤が切っ掛けでプロポーズされるんじゃないかと、私の心は俄然期待で膨らんだのだった。

 しかし、彼から言われたのは別れ話だった。彼(いわ)く『仕事を一生懸命している君が好きだから仕事を続けて欲しい。でも俺は、遠距離恋愛はできそうに無いし、離れてから自然消滅してしまうより、ここできっぱりと別れた方がお互いのためだと思うんだ』と。

 彼が余にもあっさりと別れを口にするから、私は仕事を辞めて付いて行きたいと言えなくなってしまった。彼がそれを望んでいない事がショックで、何も言わないまま別れを受け入れてしまった。

 本当は薄々気づいていた。彼は私が想うほどには、私の事を想ってくれていない事。でも、ずっと気付かないフリをしてきた。彼の傍にいられる幸せを手放したくなかったから。

 彼が転勤して半年が過ぎ、やっと気持ちも落ち着いた頃、同じ営業部の同僚が研修会で彼に会ったと話していた。その同僚の話す彼の近況は、想像もしない衝撃だった。

『あいつ、結婚したんだって。こっちにいた時はそんなそぶりも見せなかったけど、ずっと長くつきあっていた彼女がいたらしい。どうりで、ここの女子社員に見向きもしなかったはずだ。遠距離なんて、案外あいつも一途なんだな』

 

 自分が単なる浮気相手でしかなかった事が、自分の全てを否定されている様な気がして、その後恋する事が怖くなってしまった。特に転勤でやってきた人は信じられない。いつかまた転勤してしまう人は恋愛対象では無い。どんなに素敵な人でも。

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