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【蠍の棘シリーズスピンオフ】大晦日に死んだ私~浩二視点~第1話【全9話】

※本作品はフィクションです。

・登場人物はすべて18歳以上の架空の人物です

・実在の人物・団体とは一切関係ありません

すべて架空の物語であり、現実の行為を推奨するものではありません。


挿絵(By みてみん)

◆死を待つだけの実験動物


緑豊かな山間に、その『処理場』はあった。

かつての古い結核療養所を買い取り、外装のみを目新しい白に塗り替えた「白蓮緩和ケア病院」。一見すると清潔な医療施設に見えるが、その実は古びて堅牢なコンクリートの塊だ。周囲の原生林から悪目立ちするようにそびえ立つその建物は、外界から完全に隔絶された、秘密結社『蠍の棘』管理下のデータ集積場だった。


廊下には影を消すように無影灯が均一に配置され、視覚的なノイズが徹底的に排除されている。無機質な空間を支配しているのは、空気清浄機が発する低く乾いた稼働音だけだ。


104号室。 ベッドに横たわる男は、かつて自分がラボで取り扱っていた薬剤の「被検体」に成り下がっていた。 相沢浩二、53歳。

彼の静脈に繋がれた輸液回路を流れるのは、単なる鎮痛剤ではない。蠍の棘が開発した洗脳発情薬『アンタレスプロトタイプ』——その長期暴露によって生じた全身性の悪性腫瘍が、死の瞬間までどのような速度で増殖し、組織を浸潤していくのか。それを最短距離で観測するためのバイパスであった。


投与されるオピオイドの用量は、彼の思考能力を奪わないギリギリのラインで精密にコントロールされている。意識の明晰さと引き換えに、肉体の崩壊を克明に自覚させるための拷問に近い処置だ。

浩二の顔はげっそりと削げ落ち、紙のように薄くなった皮膚の下には骨がくっきりと浮き出ている。肺転移の影響か、呼吸は浅く荒い。ぎょろりとした双眸の白目は、肝機能不全を物語るように不自然な黄色に濁っていた。


壁面に埋め込まれた不可視のセンサーが、そんな浩二のバイタルサインを余さず拾い上げ、組織の中枢サーバーへと送り続けている。ここでは、死にゆく者の全てが「生体データ」という名の単なるログでしかない。


三重構造の防弾ガラスを隔てた窓の外では、冬の顔をした灰色の霧が、無機質な外壁を濡らしていた。


(季節はもう冬か……全身への転移を告知されたのは、いつだったか)


彼を取り囲んでいるのは、山間ならではの穏やかな静寂ではない。一人の非正規ラボテクニシャンという資源を、最後の一滴まで絞り尽くそうとする巨大なシステム——その執拗なまでの支配の静寂だった。


◆◆◆


浩二は長く勤めていた製薬会社のラボを早期退職した後、再就職先を探していた。

年齢的な壁もあり難航していた中で、破格の好条件を提示する求人を見つけたのが、すべての運の尽きだった。恐る恐る応募したものの、拍子抜けするほどすんなりと採用が決まった。

『先進医療研究財団』という表向きの看板を掲げたその施設の地下三階。浩二と共に採用された、年齢も経歴もまちまちな十人の有資格者たちは、そこで日々作業に明け暮れていた。


ラボでは白衣に二重の手袋、N95マスク、ゴーグルを装着し、常に換気を怠らなかった。 彼らに与えられた業務は『A-prototypeの安定化』。

用いられていたのは、強烈な毒性を持つアルキル化剤系の化合物だった。


フラスコに前駆体を入れ、撹拌機を回す。温度は精密に60度をキープ。

反応が始まると、室内に特有の「甘い匂い」が漂ってくる。ドラフトチャンバーの風が吸い込んでくれるはずなのに、フードの隙間から微量な気体が漏れ出しているのだ。

浩二が分析用のHPLC(高速液体クロマトグラフィー)で純度を確認する頃には、いつも胸の奥に鉛を飲んだような違和感を覚えていた。


動物実験用の注射液を作る工程は、さらに危険を伴った。

薬剤を充填する際、細い注射針が手袋を突き破る。そんな些細なアクシデントは月に何度か発生していたが、フロアのリーダーは「そのくらい、よく洗えば大丈夫だ」と楽観的に笑い飛ばすだけだった。

だが、アルキル化剤は一滴でも細胞のDNAに結合し、修復不能なエラーを刻み込む。長期の微量暴露によって二次性癌のリスクが跳ね上がるのだと浩二が知ったのは、全身を癌に侵され、この緩和ケア病院に収容される道すがら、スマホで医学論文を探し当てた時だった。


「今日は……ちょっと臭うな」


隣のベンチで同じ作業をしていた田中が、怪訝そうな顔でマスクを直したのは、働き始めて半年が経つ頃だった。

その数日後、田中は突然ラボの床に崩れ落ちた。胸を搔きむしり、小刻みに震えながら悶え苦しむ田中を見て、浩二は慌ててリーダーの元へ走った。しかし、居合わせた全員が救急隊を待つ間に、田中が動かなくなるのを見届けるしかなかった。


後日、朝礼の席でリーダーは、田中の死因を『急性心臓肥大』だと告げた。


『あの薬剤には、強烈な心不全を引き起こす副作用があるのではないか?』


以前からラボの仲間内で囁かれていた噂が、田中の死によって確信へと変わった瞬間だった。破格のバイトだと浮かれていた職場が、死と隣り合わせの地獄へと変貌したのだ。


そこからは、堰を切ったように次々と人が倒れていった。

まるで出来の悪いデスゲームだった。次は誰が倒れるのかとフロア全体が疑心暗鬼に陥る中、亡くなった同僚の遺族には多額の「見舞金」が支払われていることを知る。

命が、はした金と引き換えにされていく。

だが、逃げることはできなかった。就労時の誓約書により期間内の離脱は許されず、契約時に「守秘義務のため」という名目で体内にマイクロチップを埋め込まれていたからだ。逃亡しても、すぐに足がつく。


最終的に、あの地下ラボで生き延びていたのは、浩二を含めてたった三人だけだった。


◆悪魔の訪問と指令


午後二時。 山間の陽光は静かに降り注いでいるはずだが、分厚い三重ガラスを通過する間に、その光は生気を抜かれた冷ややかなものへと変化していた。

本来なら、鳥が歌い、木々が風にざわめく穏やかな時間帯だろう。しかし、この施設を支配しているのは、極限まで純化された「静止」だ。

浩二は、シーツの上に落ちた光と影の境界線を、ぼんやりと眺めていた。


ここには昼間の回診はない。

その代わり、壁に埋め込まれたセンサーが一定間隔で目に見えないスキャニングを刻み、彼の生体データを数キロ離れた監視室へと送信し続けている。

傍らで、輸液ポンプが微かなモーター音を立てた。全身を食い破る痛みをぼやかし、意識だけを維持させるための液体が、一滴、また一滴と彼の血管へと吸い込まれていく。


浩二は億劫そうに首を傾けた。 窓の外には、濃い藍色をした冬の空がただ広がっている。今となっては、それが彼にとっての「唯一の世界」だった。

この場所には、午後の穏やかなひと時など存在しない。あるのはただ、見えない監視に守られた、静かで残酷な「死の停滞」だけだった。


オピオイドの作用でまぶたが重くなり、半ば眠りに落ちようとしたその時——。 静かに、ドアを叩く音がした。


短いノックの後、音もなくドアが開く。 そこには、コートを手に持ち、仕立ての良いスーツを着こなした初老の男性が立っていた。

浩二は薄く目を開け、その訪問者を見上げる。男性は薄い唇をわずかに吊り上げると、穏やかに微笑んだ。


「相沢君。気分はどうだね」

「……」


(この男は、誰なんだ……)

浩二は警戒を強めた。ラボで自分たちを顎で使っていた研究員たちとは、明らかに『人種』が違う。

相手の正体が分からず答えあぐねていると、男性は勝手に丸椅子を引き、ベッドサイドに腰を下ろした。


「君たちは、我々の開発する薬剤の製品化に多大な貢献をしてくれた。感謝しているよ」

「……いえ……出来る事を、したまでです……」


男性の声は穏やかで気遣いに満ちているように聞こえるが、その裏には絶対的な支配者としての無言の圧力が潜んでいた。反射的に、浩二は掠れた声で何とか返事を絞り出す。

男性は、浩二の土気色の顔と、病衣の下でやせ衰えた身体を舐めるように検分し、満足げに頷いた。そして、思いもよらない言葉を口にした。


「もう、今年も終わろうとしている。君には『最後の外出許可』をあげようと思ってね。外の世界も、いい加減恋しいだろう?」

「い、いいんですか……?」


今度は浩二の方が男をじっと見つめた。

上質なスーツの生地、計算された所作。そして男から立ち上る、他人を平然と踏みにじってきた者特有の「支配的な匂い」。この男が、あの悪魔のような薬剤を開発させた組織の上層部であることは間違いなかった。


「そして、朗報だ。君たちが心血を注いで製品化にこぎつけた薬剤……『アンタレスプロトタイプ』が完成した。君は外へ出て、その実証実験の第一号を選び、投与して来たまえ」


それは提案ではなく、絶対の命令だった。 逆らう余地など、非正規のラボテクニシャンに与えられているはずもない。

狼狽える浩二を見下ろしながら、男性はサイドテーブルの上に、アンプルの入った銀色のケース、新品のスマートフォン、そして一通の黒い封筒を無造作に置いた。


浩二は呼吸を忘れ、目を見開いた。

点滴の管を引きずりながらゆっくりと上体を起こし、震える手で銀のケースを開ける。そこには、琥珀色の液体の入ったアンプルと細い注射針が収まっていた。

入院するまでに、ラボで嫌というほど見続けてきた『あの液体』だった。


「この黒い封筒は、アンタレスプロトタイプとリンクしている。投与した人間にこの封筒を渡すか、荷物に紛れ込ませろ。君は投与するだけでいい。後は我々が被験者を追跡する」


一方的に説明を終えると、長居は無用とばかりに男性は立ち上がった。

浩二はあっと声を上げ、部屋を出て行こうとする男性の背中を慌てて呼び止めた。もちろん、拒絶する権利などないことは痛いほど分かっている。


「……誰でも……いいんですか?」


恐怖のあまり口を突いて出たのは、ひどく間抜けな質問だった。

薬剤の効果を知らないわけではない。だが、公には知らされていない以上、浩二はどうしても、組織の人間からその薬剤の「本当の用途」についての言質を取りたかった。

ドアノブを握った男は、肩越しに振り返る。


「そうだな……君の好きな女とでも使えば、随分と盛り上がれるんじゃないかな?」


男は、上品な着こなしにはおよそ似つかわしくない、下卑た嘲りの笑いを浮かべた。そして、そのまま静かにドアの向こうへと消えていった。


(やっぱり……!)


浩二は、最悪の推測が確信に変わったことで、強烈な身震いを覚えた。緊張で脂汗の滲んだ拳を、シーツの上で固く握り締める。


三年前の作業開始前のミーティングでは、ただの『化合物Xの安定化プロセス』だと聞かされていた。だが、毎日あの分子構造式を睨んでいれば、嫌でも気づく。脳の神経伝達物質を破壊し、強制的な発情と絶対的な服従を引き起こす構造……。


(あれは間違いなく、人間の理性を奪う強力な洗脳薬だ。組織は一体、あれを使って何を企んでいる……?)


浩二の顔から一気に血の気が引いた。 衝動的にサイドテーブルに置かれたアンプルと封筒を乱暴に掴み、引き出しの奥へと放り投げる。

再びベッドに潜り込もうと柵を掴んだ手は、カタカタと情けない音を立てて震えていた。


三年前、あの地下ラボに集められた十人の非正規作業員。

その最後の生き残りである自分の「使い道」——それは、死の淵に立たされてなお、組織の人体実験の手先として悪魔の薬をばら撒くことだった。


最後までご覧いただきありがとうございます。

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