最終話 窓口のあちら側
あの男の顔を、私は一生忘れることはない。
名札には「腰塚」とあった。まだ若い感じがした。清潔感のある顔をしていた。悪人には見えなかった。それが、余計に腹立たしかった。
一年前の春。母に連れられて市役所に行った。弟の蓮は母の腕の中で眠っていた。私は椅子に座って、窓口の向こう側を見ていた。
母が、震える声で事情を説明した。父からの養育費が二ヶ月途切れている。パートの収入だけでは三人を養えない。
通帳を差し出した。腰塚は書類を見たまま、少しの間、指を止めた。
その時、私は思った。この人は迷っている。だったら、助けてくれるかもしれない。困ったら国は助けてくれるものだと、高校生ながら感じていた。
「……今回の申請は、一度保留とさせていただきます。規則ですので」
母が、大きなため息をついた。通帳を机に叩きつけるようにして立ち上がった。
腰塚は、母の背中も、私の顔も、見なかった。
私は立ち上がりながら、もう一度だけ腰塚を見た。彼はすでに次の書類に視線を落としていた。
私たちは、もうそこにいなかった。
その後の一年は、じわじわと壊れていくような日々だった。
保留のまま審査が長引き、家計は限界を超えた。母は夜中に一人で泣くようになった。食事の量が減った。笑わなくなった。
私は高校を辞めた。母に黙って、先に退学届を出してバイトを始めた。母は泣いて怒った。でも、止めなかった。止められなかったのだと思う。
今、母はパートを二つ掛け持ちしている。顔色はいつも悪く、休日は一日中ソファで眠っている。蓮と妹の紗希は、私が面倒を見ている。母が笑うのは、蓮が何か面白いことをした時だけだ。その笑顔が、かつての母に少しだけ似ていて、私はその度に目を逸らす。
マッチングアプリで腰塚直樹を見つけたのは、偶然だった。腰塚は自分の顔写真を堂々と載せていた。顔を忘れるわけがない。画面を見た時、指が止まった。
最初は、ただ知りたかった。あの「規則ですので」という言葉の裏側に、どんな人間がいるのかを。
私はしばらく画面を見つめてから、メッセージを送った。
最初に会った喫茶店で、腰塚は「はじめまして」と言った。
私たちのことなんて、すっかり忘れていた。
自分がいかに責任感のある仕事をしているか、饒舌に話した。上司にどれほど信頼されているか。難しい案件をどう処理してきたか。そして、自分がいかに人を助けてきて、どれほど理不尽な目にあっているのかを。
私はスマートフォンをテーブルに伏せて置いた。録音しながら、相槌を打ち、聞いた。
この人は、自分が誰かを傷つけたと思っていない。規則に従っただけだと思っている。それどころか、自分は正しい側にいると信じている。
帰り道、駅のトイレで吐いた。
でも、やめなかった。
二度目に会った時は、来たこともない個室のレストランだった。腰塚は窓口に来る人たちへの愚痴を饒舌に語った。その中で、私たちのような話が出た。
「通帳に記帳しないだけで、実際には手渡しで養育費をもらっている人たちもいるんだ。いつも騙し合いだよ」
腰塚は笑いながら言った。
その笑顔を見た瞬間、迷いが消えた。
父に連絡を取ったのは、その夜だった。父は最初、乗り気ではなかった。だが、金額を提示すると、すぐに声が変わった。それが父という人間だった。私はそれを織り込み済みで連絡していた。
三度目に会った時、腰塚は研修だと妻に嘘をついて来たと笑いながら話した。
私は、寒気がする中、腰塚の手を握った。
帰り道、またしても吐いた。でも、吐きながらもアプリを開き『直樹さんの毎日が、少しでも穏やかでありますように』と送信した。
四度目に会った時、腰塚は駅裏のホテルへ私を連れて行った。
エレベーターの中で、腰塚が私の手を握った。温かかった。それが気持ち悪かった。
部屋に入ると、腰塚は「静かでいいな」と呟いた。本当に、心底くつろいだような顔をしていた。
私は笑った。
この人は今、幸せなのだ。妻でも窓口でもない、自分だけの出口を見つけたと思っている。その幸せの中に、私がいる。
吐き気が込み上げた。私はそれを飲み込んだ。
腰塚が「君がいないと立っていられない」と言った。
私は何も答えず、彼の胸に顔を埋めた。
目を閉じると、暗闇の中に母の顔が浮かんだ。ソファで眠る横顔。皺の増えた手。もう笑わなくなった目。
それだけを見ていた。それだけを、ずっと見ていた。
腰塚と会う日々は、吐き気との戦いだった。
笑った。相槌を打った。目を潤ませた。彼とホテルに行った後、私はシャワーを浴びながら、声を殺して泣いた。何のために泣いているのか、自分でも分からなかった。
でも、母のソファで眠る顔を思い出すたびに、私は突き動かされた。
女性警察官に問われた日、相談室の隣の部屋で、私は泣いた。
本物の涙だったかどうか、自分でも分からない。ただ、声を作ることは難しくなかった。この一年で、泣き方は十分に覚えていた。
廊下で腰塚と目が合った。
私は何も見せなかった。見せるものが、もう残っていなかった。
夕食の後、蓮が母の膝に乗った。母は眠そうな目をしながら、蓮の頭を撫でた。その手が、また少しだけ、皺が増えていた。
私はその背中を見ながら、封筒の中身を確認した。父の取り分を引いた残りは、多くはない。でも、ないよりはましだ。
不意に、目の奥が熱くなった。
気づいたら、母の背中に顔を埋めていた。
「……どうしたの」
母の声が、一年前より少し低くなっていた。
私は何も言わなかった。ただ、母の背中にしがみついた。
母の手が、ゆっくりと私の頭に乗った。
その温度だけが、この一年で唯一、本物だった。




