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第5話 いつかの椅子

 職場に彼らが現れたのは、翌日の午前十時のことだった。

 自動ドアが開き、男の濁った怒鳴り声がフロア全体に響き渡った瞬間、俺の心臓は一度停止し、それから激しく肋骨を叩き始めた。


「腰塚を出せ! 娘を弄んで知らんぷりか!」


 男は、あの使い古されたジャージ姿で、絢香の細い腕を乱暴に引いて立っていた。絢香は以前のような輝きを失い、焦点の定まらない目で床の一点を見つめている。

 同僚たちのタイピング音が止まり、静寂が波のように広がっていく。その中心に、俺は晒されていた。


 上司に促され、俺たちは奥の相談室へと押し込まれた。

 狭い密室の中で、男の剥き出しの怒号が俺を追い詰める。上司は俺の隣で、終始無言のまま、手元のメモに何かを書き留めていた。


「三百万じゃ足りねえんだよ。連絡を断つとはいい度胸じゃねえか」


 男がテーブルを激しく叩いた。絢香はその音に肩を揺らし、身を縮めた。

 その時、ドアが静かに開き、二人の警察官が入ってきた。上司が密かに通報していたのだ。

 男の顔が、一瞬でどす黒く変色した。


「……なんでサツを呼んだ。これは話し合いだろうが!」


 警察官の一人が、低く、圧をかけるような声で男を制した。もう一人が絢香を別室へ連れていく。男は執拗に抵抗したが、やがて押さえ込まれた。


 隣の部屋から、微かな啜り泣きが漏れてきた。それは段々と嗚咽に変わり、壁越しに聞こえるその声は、ひどく幼く、壊れそうだった。俺は思わず、その声の方へ視線を向けた。だが、すぐに前を向いた。今の俺には、同情する資格がない。


 数十分後、戻ってきた女性警察官は、男の正面に立った。


「……絢香さんから、すべて聞きましたよ」


 男の表情が、一瞬止まった。


「なんだと、あいつ、何を……ちょっと待て、何かの間違いだ。絢香と話をさせてくれ」

「お父さんはここで話を続けましょう」


 年配の警察官が、静かに男の前に立った。


「もう、したくないって。お父さんに強要されて、こんなことするのはもう嫌だって、泣きながら縋られました」


 男の顔から、完全に余裕が剥がれ落ちた。

 男が逆上し、机を叩きつけて立ち上がった。


「うるせえ! 娘が勝手にやったことだ! 俺は被害者なんだよ!」


 その腕は既に警察官によって封じられていた。

 警察官に連行されていく男の背中を、俺はただ見送った。

 別室に向かう直前、絢香と目が合った。

 それだけだった。


 相談室に残された俺に、年配の警察官が告げた。


「腰塚さん。あなたにも、署まで来てもらいます。相手が未成年だと知らなかったとしても、事実関係の確認は必要です」


 俺は被害者ではなかったのか。

 だが、法律という無機質なマニュアルは、俺の主観など一切考慮しなかった。

 窓口で、何百回となく繰り返してきた言葉が、今度は俺自身に向けて突きつけられていた。



 数時間に及ぶ聴取を終え、夜の闇に放り出された俺のスマートフォンに、上司からの短いメッセージが入っていた。


『明日から休職となる。事実上の懲戒免職と考えておけ』


 それは、三年間俺が忠実に守り続けてきた、あの分厚いマニュアルそのものの声だった。役に立たなくなった部品は、速やかに廃棄される。かつて俺が窓口の受給者たちを冷ややかに眺めていたように、今度は俺が、巨大な行政組織から音もなく切り捨てられたのだ。


 俺は駅前のネットカフェへと向かった。

 三畳足らずの薄暗い個室。コートのポケットから取り出した封筒を、机の上に置く。消費者金融から引き出した、残りの百万。二週間後には一・五倍の返済が待っている。計算さえできれば、これが破滅への直行便であることは明白だった。

 だが、今の俺には、この薄汚れた紙切れだけが、自分をこの世に繋ぎ止める唯一の錨だった。


 俺は絢香を救ったわけではない。彼女がその後どこへ運ばれ、どんな人生を送るのか、俺には興味もなければ知る術もない。

 そして――あの時、腹を押さえて崩れ落ちた妻がどうなったのかも、俺には分からない。救急車は呼ばれたのか。胎内の子供は無事なのか。


 何も、聞こえてこない。

 それは、俺が窓口で受給者たちに「却下」を言い渡した後に訪れる、あの静寂と同じだった。

 俺は、自分の人生から「却下」されたのだ。


 ネットカフェの冷たい空気が、肌を刺す。暗い液晶画面に映る自分の顔は、かつて窓口の向こう側でえた匂いをさせていた連中と、もはや見分けがつかなかった。

 誰かを助けたいと思って、この職を選んだはずだった。

 その頃の自分が、遠い。


 数ヶ月後。

 俺は、かつて自分が座ったことのない、窓口のこちら側の椅子に、深く腰を下ろしていた。

 視界の端で、かつての同僚たちが忙しそうに動き回っているのが見えた。

 担当の職員は、俺より若いだろう。驚きに固まったその瞳を、俺は真っ直ぐに見つめた。しわくちゃになった書類を窓口に差し出しながら、静かに言い放った。


「これなら手続き完璧だろ」

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