第4話 破滅
三百万を払えば終わると信じていた自分を、今の俺は心の底から蔑んでいる。地獄の門番は一度味をしめた獲物を決して離しはしない。
男からの要求は、加速していった。
「娘の容態が良くない。専門のカウンセリングが必要なんだ。あと百万。これで本当に終わりにしてやる」
男の声から、前回の芝居がかった湿っぽさは消えていた。そこにあるのは、隠しきれない強欲と、俺を完全に支配下に置いたという確信に満ちた冷酷さだけだった。
俺にはもう、払える金など残っていない。貯金は底をつき、銀行の残高の数字は三桁しかない。男は事務的に、いくつかの消費者金融と、名前も聞いたことのない闇金融のリストを突きつけてきた。
窓口のパーテーション越しに、何度も見てきた光景だった。追い詰められた人間が、最後に縋りつく場所。こういう場所で借金を重ねる連中のことを「救いようがない」と思っていた。俺はいつも、書類の向こう側からそれを眺めていた。
俺は、かつて自分が軽蔑し、査定し、切り捨ててきた連中と全く同じ足取りで、その扉を潜った。震える指先は、契約書の同意欄をなぞっていた。
自分が何をしているのか、分かっていた。それでも、手が止まらなかった。
百万。その金を渡せば、また次の金を要求される。
その確信が、突然俺の中で弾けた。俺は、逃げることにした。
鳴り続けるスマートフォンを掴み、男の番号を着信拒否に設定する。メッセージもすべて遮断した。
窓口で理不尽な要求を喚き散らす受給者たちに対して、俺が内心で浴びせていた「無責任な逃避」を、今度は俺自身が実行していた。
連絡を絶てば、向こうも諦めるはずだ。そんな淡い期待に、俺は縋った。
着信を拒否したその瞬間から、男の反撃が始まっていたことを、俺はまだ知らなかった。
三日後、玄関を開けた瞬間に、世界の終わりが待っていた。
廊下に、見慣れない茶封筒が落ちていた。いや、それはすでに開封されていた。
リビングの床には、あのホテルの廊下で絢香と腕を組む俺の写真が散らばっている。
妻が、狂ったように叫んでいた。二歳の息子が寝室で泣き出したが、妻はそれをなだめる余裕すらないようだった。
「……これは、何。このお金、何に使ったの!」
その手には、残高のほぼ消えた通帳と、脅迫状が握られていた。
昨日まで、俺を心配する声で「おかえり」と言っていた人間が、今は別の生き物のように泣き喚いている。
「罠なんだ。信じてくれ、俺はただ……」
「信じる? 何を? 私が吐き気に耐えて、この子のために貯めてきたお金を、全部こんな女に貢いでたってこと?」
妻は喉をかきむしるようにして泣いた。不意に、彼女が腹部を抱えてその場にうずくまった。第二子を宿した腹。彼女の顔から急激に血の気が引き、脂汗が滲み出す。
「……痛い、お腹……」
「大丈夫か、今、救急車を――」
俺が差し出した手を、妻は静かに振り払った。そのまま、床に額をつけて泣き続けた。声すら出なかった。
その夜、俺は家を追い出された。
義母からは、一通の短いメールが届いた。
『離婚の手続きはこちらで進めます。荷物は実家に送ります。娘と孫に二度と近づかないでください』
深夜のネットカフェ。三畳足らずの独房のような空間で、俺は壁に頭を預けていた。
漂うのは、安っぽい芳香剤と、何日も洗っていない身体が発する饐えた匂い。
窓口の向こう側の匂いだ。
誰かを助けたいと思って、この職を選んだはずだった。その頃の自分が何を考えていたのか、今の俺にはもう、うまく思い出せない。
暗い液晶画面に映る自分の顔は、かつて窓口の向こう側で饐えた匂いをさせていた連中と、もはや見分けがつかなかった。




