第3話 転落
その電話が鳴ったのは、午後の窓口業務が一段落し、冷え切った缶コーヒーを口にした瞬間だった。
デスクの上で、私用のスマートフォンが震えていた。見覚えのない番号だ。
俺はそれを手に取り、廊下の突き当たりまで歩いてから通話ボタンを押した。
「……はい、腰塚です」
努めて冷静な、公務員らしい声を出す。
受話器の向こうから返ってきたのは、鼓膜を暴力的に蹂躙する男の怒鳴り声だった。
「おい、腰塚。お前、うちの娘になに晒してくれたんだ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。だが、俺はまだ冷静だった。窓口で浴びる怒号のバリエーションの一つとして、反射的に相手を「査定」しようとする。
「……どなたですか。間違い電話では」
「とぼけんな。絢香の父親だよ! あいつ、まだ二十歳にもなっていないんだぞ。そんな子供を毒牙にかけやがって……。親として、情けなくて涙が出てくらあ!
男の声には、どこか芝居がかった湿っぽさが混じっていた。わざとらしい溜息、震わせた声。窓口で泣き落としにかかる受給者たちの手口に似ている。
――狂言か。あるいは、ただのタカリか
俺は、自分の知性が優位に立っていることを確認しようと、冷徹な言葉を選んだ。
「彼女は二十歳だと言っていました。こちらも騙された側です。法的な根拠がないなら、これ以上はお答えできません」
だが、男の次の言葉が、俺の喉を物理的に締め上げた。
「ああそうかい。お前の立派な『市役所の福祉課』っていう職場では、未成年に手を出した言い訳がそれで通るのか? 絢香のスマートフォンにはなあ、お前が自分の仕事について語った『武勇伝』がびっしり録音されているんだよ。木内課長のお気に入りなんだって? 出世も近いって、自慢げに話してたそうじゃねえか」
血の気が引く音が聞こえた気がした。
あの時、絢香がテーブルに伏せて置いたスマートフォン。俺はそれを、何気ない仕草だと思っていた。
選別していたのは、俺の方ではない。
「……どう、すればいいんですか」
絞り出した声は、自分でも驚くほど卑屈だった。知性の防壁は、保身という原始的な恐怖によって一瞬で瓦解した。
「誠意を見せろよ。示談金だ。三百万用意しろ」
男は急に声を潜め、事務的に付け加えた。
「あいつ、ショックで学校にも行けなくなってんだ。その迷惑料と、あとは処置の費用だ。全部込みだ。それでこの件は終わりにしてやる。……なあ腰塚さんよ、あんたも『正しい側』の人間だろ? 泥を塗るような真似はしたくねえよなあ」
翌日、俺は銀行の窓口に立っていた。
ボールペンの先が、払戻請求書の紙面を細かく叩いた。震えを止めるために指先に力を込めると、今度は節々が強張って動かなくなる。
三百万。子供たちの教育費、そして「正しい家庭」を維持するための担保。それを引き出す俺の背中を、行員が、あるいは背後に並ぶ人々が嘲笑っているような被害妄想が膨れ上がる。
俺は、完璧に無機質な仮面を被り直し、喉の奥から絞り出した声で「身内の急用だ」と嘘を吐いた。
指定された場所で、男に現金の入った封筒を渡した。現れた男は、使い古されたジャージを纏い、脂ぎった顔をしていた。中身を確認した男は、ゆっくりと頷いた。
「賢い判断だ、先生」
先生。
その一言に含まれた露骨な嘲弄が、俺の自尊心をズタズタに切り裂いた。
家に戻ると、妻が青白い顔をしてソファに横たわっていた。部屋には、いつものように吐き気の混じった重苦しい空気が淀んでいる。
「おかえり。……何かあったの? 顔色が悪いけど」
妻の声は、久しぶりに、俺を心配するものだった。
俺は無意識にスマートフォンの画面を伏せた。
「いや。窓口で、少し厄介な連中に絡まれただけだ」
嘘は、滑らかに口から出た。
三年かけて覚えた、窓口での自衛手段と、同じ声で。




