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第2話 禁断の出口と甘い罠

 深夜、隣で眠る妻の、浅い呼吸音が、部屋に満ちていた。


 俺はそっとベッドを抜け出し、廊下に出る。暗い天井を見上げながら、今日一日に浴びたものを、頭の中で静かに棚卸しする。窓口の怒号。妻の疲弊した顔。息子の泣き声。それらがひとかたまりになって、胸の奥に沈殿している。


 スマートフォンの画面を点ける。マッチングアプリの通知欄には、絢香からのメッセージが届いていた。


『直樹さんの毎日が、少しでも穏やかでありますように』


 その一行を、指でなぞった。

 誰かに、気にかけられている。それだけのことが、この夜には異様に沁みた。


 初めて会ったのは、職場の最寄りから三駅離れた喫茶店だった。

 現れた絢香は、白のブラウスに淡い色のスカートを合わせていた。最初は緊張した顔をしていたが、清潔で、若く、午後の陽光の中で屈託なく笑うようになった。


「市役所の方って、もっと……こう、お堅いイメージでした。直樹さんは、すごく優しい目をしてるんですね」


 俺は少し戸惑った。優しい目。窓口で怒鳴られ続けた今日の俺が、そう見えるのか。


「窓口には、本当にいろんな人が来るんです。でも、俺はただ、ルールに従って彼らを助けたいだけなんですよ」


 口をついて出た言葉は、嘘ではなかった。少なくとも、三年前の俺にとっては。


 絢香は、向かいの席に座ると、スマートフォンをテーブルの端に伏せて置いていた。


「素敵です。そんなに責任感の強い人がいるなんて。もっと、お仕事のこと教えてください」


 誰かに、話を聞いてもらうのがこれほど楽なのかと、俺は思った。妻との会話は、いつの間にか互いの消耗を確認し合う作業になっていた。絢香の前では、俺はただ、少しだけ「誇りある人間」に戻れる気がした。


 俺は、饒舌に言葉を重ねた。勤務先のこと、扱った個人情報を伏せて担当している仕事のこと、上司との関係のことを楽しく語った。絢香は相槌を打ちながら、真っ直ぐに俺を見ていた。


 三度目に会った時には、妻には研修だと告げて年休を取った。水族館、映画、夕暮れの堤防。久しぶりに、満たされた。二人で並んで歩いていると、いつの間にか手が触れ合い、そのまま握り合っていた。絢香は恥ずかしそうに目を潤ませていた。


 四度目の密会は、駅裏のホテルだった。

 閉ざされた部屋には、窓口の消毒液の臭いも、家の中に充満する生活の匂いもなかった。ただ、静かだった。それだけで、俺の肩から何かが抜けていくような気がした。


「……こんなこと、本当はいけないんですよね」


 絢香が、俺の胸に顔を埋めて囁く。

 俺は何も答えなかった。答えられる言葉を、俺は持っていなかった。

 ただ、彼女の細い肩を抱き寄せた。

 肌が触れ合う瞬間、窓口の怒号も、妻の疲弊した沈黙も、遠い場所の出来事のように思えた。それが一時の錯覚に過ぎないことは、分かっていた。分かっていても、今夜だけはここにいたかった。


 事後、俺は天井の無機質な模様を眺めていた。

 隣では絢香が、こちらを見て微笑んでいた。

 サイドテーブルの上で、スマートフォンのバイブレーションが鳴った。

 液晶に浮かび上がったのは「妻」の一文字だ。

 俺は表情一つ変えず、指先でその端末を裏返した。


 光を失った画面を背に、絢香の髪を、ゆっくりと、愛おしげに撫でた。

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