第1話 施しの作法
窓口の向こう側から漂ってくるのは、安っぽい煙草と、何日も洗っていない身体が発する、饐えたような悪臭だった。
俺は呼吸を浅くしながら、それでも表情を動かさない。これも仕事のうちだ。三年もやっていれば、身体が慣れる。慣れなければならない。
目の前で、男がしわくちゃの書類を叩きつけ、裏返った声で叫んでいる。
「これじゃ足りねえって言ってんだろ! 俺を殺す気か!」
俺は、男の目を見る。充血した白目、震える唇。この人は本当に追い詰められているのだろう、という認識が、頭の片隅をかすめる。だが、認識と、できることの間には、分厚い壁がある。
「基準は決まっています。これ以上の支給は法的に不可能です」
言葉は、ただの記号として口から滑り落ちる。感情を乗せれば、こちらが壊れる。三年かけて覚えた、唯一の自衛手段だった。
一年前は、違った。
子供を三人連れたシングルマザーが窓口に来た時、俺はまだ迷うことができた。
末の子は一歳くらいで、腕の中で眠っていた。その隣に、高校生ほどの子供が一人、黙って座っていた。俺はその子に一瞬目を向けたが、すぐに書類に視線を落とした。
女は働いていたが、家計は限界だった。別れた夫からの養育費が二ヶ月前から途切れていると言った。通帳を見せられた。だが、別口座への移動かもしれない。現金手渡しに切り替わったかもしれない。規則上、確認が取れない収入は計上されたままになる。
俺は、支給できる方法を探した。上司に相談した。
「腰塚、規則通りにやれ。お前が同情しても、誤支給になったら全部お前の責任だぞ」
上司の言葉は、正しかった。俺は保留を言い渡した。
女は、大きなため息をして、机を叩くように通帳を取って席を立った。
その夜、俺はずっと、あの末の子の顔を思い出していた。うちの息子と同じ目をして、腕の中で眠っていた。
だが、一週間後に誤支給の件で別の受給者から苦情が入り、係全体が叱責された。俺は、迷うことをやめた。
マニュアルだけが、俺を守る。それが唯一の正解だと、その時から言い聞かせてきた。
現在の窓口に、怒号が響く。
男が去り、次の受給者が座る。俺は書類を捌き、基準を読み上げ、感情を乗せない言葉を並べる。
同情などしていたら、こちらの身がもたないのだ。俺を動かしているのは慈悲ではない。机上の分厚い、そして無機質なマニュアルだけだ。それが唯一の正解であり、俺を狂気から守る防壁でもある。
二十五歳。市役所の福祉課に勤めて三年。俺の仕事は、国家という巨大な装置の一部として、選別された弱者に最低限の栄養分を流し込むことだ。
誰かを助けたいと思って、この職を選んだはずだった。その頃の自分が何を考えていたのか、今の俺にはもう、うまく思い出せない。
定時を過ぎ、逃げるように役所を後にする。お気に入りの音楽を耳に押し込み、仕事のことを頭から追い出す。もう、あちら側のことは考えない。それが、俺の平穏を守るための、もう一つの防壁だった。
だが、帰宅した先にあるのは安らぎではない。
玄関を開けた瞬間、二歳の息子の泣き声と、重苦しい空気が俺を襲う。第二子を身ごもった妻は、激しい悪阻と睡眠不足で、常に不機嫌の塊のようになっていた。
「……おかえり」
出迎えの言葉に温度はない。散らかった床、積み上げられた洗い物。妻は床に座り込んで洗濯物を畳んでいた。その傍らで、息子が洗濯物を引っ張りながらぐずっている。
俺は手を洗い、息子を抱き上げてあやした。
「いいよね、仕事は。外の空気が吸えるんだから。私は一日中、この狭い家でぐずり声を聞いてるのに。あなたの子供でもあるんだよ?」
妻の言葉が、今日一日浴びてきた怒号と重なる。責めているのではなく、助けを求めているのだと、頭では分かっていた。分かっていても、今の俺には、その声を受け止めるだけの余白が残っていなかった。
「わかってる」
それだけ言って、俺は家事を片付け、息子を抱きながら寝かしつけた。妻は何も言わなかった。
息子がようやく寝ついた頃、俺はそっとベッドを抜け出した。
晩酌の勢いでインストールしたアプリ。ほんの少し、この場所ではない、どこかへ逃げ出したかっただけだ。
指先に、背徳感よりも奇妙な解放感があった。
暗い部屋の中で、俺は一人、液晶の光を見つめた。
「あんな連中とは、住む世界が違うんだ」と、俺は自分に言い聞かせる。




