第九話:星降る夜の誓い
あの壁画を発見してから、私たちの間には奇妙な空気が流れていた。それは、わずかな希望と、しかしそれを上回る大きな不安とが混じり合った、不安定な均衡のようなものだった。「魂の解放」という可能性が示されたことで、完全な絶望からは抜け出せたかもしれない。しかし、その解放の条件が「執着からの解放」であり、鍵となるかもしれない「約束」が、私たち自身、特に私と海斗の関係に深く関わっているらしいという事実は、新たな、そしてより個人的な恐怖と葛藤を生んでいた。
小野寺は、相変わらず壁画と石碑の解読に没頭していたが、その表情には以前のような狂的な熱意は薄れ、代わりに深い苦悩の色が浮かんでいた。彼はおそらく、「約束」というキーワードの持つ二面性――それが救いにも破滅にもなりうるというパラドクス――に気づき、その意味を探ろうと格闘しているのだろう。しかし、古代文字の壁は厚く、決定的な解読には至らないまま、時間だけが過ぎていった。彼の焦りは、見ているこちらにも伝わってくるほどだった。
食料の状況は、ますます深刻になっていた。拠点周辺で採れるものは完全になくなり、私たちは本格的に飢餓状態に陥りつつあった。森の奥へ行かなければならないことは分かっている。しかし、誰もがそれを言い出せずにいた。規則への恐怖だけでなく、自分の中にある「執着」…例えば、現世への未練や、特定の誰かへの想いが、森の奥で何か不測の事態を引き起こすのではないか、という恐れがあったからだ。私たちは、まるで自らの心を覗かれることを恐れるかのように、行動を制限し、互いに距離を置いていた。
黒木は、以前ほどあからさまに海斗に絡むことはなくなったが、それは決して彼を信用したからではないだろう。むしろ、壁画の発見以降、彼は私たち全員を、そして自分自身をも疑いの目で見ているようだった。誰もが「執着」という爆弾を抱えている可能性がある。いつ誰が、どんな理由で「浄化」されるか分からない。彼は、他人との関わりを極力避け、ただ黙って、鋭い目で周囲を観察していた。その沈黙は、嵐の前の静けさのようで、かえって不気味だった。
栞は、衰弱が進み、ほとんど寝たきりの状態になっていた。時折、うわ言のように何かを呟くが、意識がはっきりしている時間はほとんどない。私が、そんな栞の様子をできる限り見ていたが、回復の兆しは全く見られなかった。彼女の細い手首に触れると、その命の灯火が、今にも消えてしまいそうなほど弱々しく感じられた。
そして、私と海斗の関係も、壁画の発見以降、さらに複雑なものになっていた。私たちの間に「約束」というキーワードが存在するらしいことが示唆されたことで、私たちは互いをより強く意識せざるを得なくなった。しかし、それが「解放」の鍵なのか、「浄化」のトリガーなのか分からない以上、迂闊にそれに触れることはできない。私たちは、互いに惹かれ合いながらも、同時に互いを危険に晒す可能性を恐れ、微妙な距離を保ち続けていた。
海斗は、以前にも増して寡黙になった。彼はしばしば一人で遺跡の外へ出て、遠くの海を眺めたり、あるいは、あの石碑の前に佇んでいたりした。その背中からは、深い苦悩と、何かに対する決意のようなものが感じられたが、彼が何を考え、何をしようとしているのか、私には推し量ることができなかった。彼が約束してくれた「必ず話す」という言葉を、私はただ信じて待つしかなかったが、その「時」がいつ来るのか、そしてその時、私たちはどうなってしまうのか、不安は募るばかりだった。
そんな八方塞がりの状況の中で、私を最も強く揺さぶっていたのは、やはり夜ごと見るようになった、あの鮮明な夢だった。その夢は、日を追うごとに、より長く、より具体的になり、もはや単なる夢とは思えないほどのリアリティを帯びてきていた。
その夜も、私は夢の中にいた。
場所は、やはりあの巨大な、蔦の絡まる木の下。昼間の森とは全く違う光景が広がっている。空には、まるでダイヤモンドダストを撒き散らしたかのように、無数の星が降り注ぐように輝いていた。天の川が、白い光の帯となって夜空を横切り、その壮大で神秘的な光景は、地上を淡く、青白く照らし出している。それは、息をのむほど美しく、そしてどこか神聖な雰囲気さえ漂う光景だった。
その星空の下に、私は立っていた。そして、私の目の前には、彼がいた。海斗と瓜二つの青年。彼の黒い髪が夜風に微かに揺れ、その瞳は、夜空の星々を映して、深く、静かに輝いている。しかし、その瞳の奥には、言葉にできないほどの深い悲しみと、そして私への抑えきれないほどの愛情が、痛いほどに伝わってきた。彼は、何かから私を守ろうとするかのように、私の前に立っている。
夢の中の私も、泣いていた。頬を伝う涙は熱く、止めどなく溢れてくる。胸は、愛しさと切なさで張り裂けそうだった。なぜこんなにも悲しいのか、理由は分からない。ただ、目の前の彼と離れ離れになる運命にあることだけを、魂が理解しているかのようだった。
「…行かないで」夢の中の私は、彼の服の裾を強く掴み、懇願するように言った。「嫌! 行かないでよ! 私を一人にしないで…! 約束したじゃない…ずっと一緒にいるって…!」
青年は、悲しげに微笑みながら、私の頬にそっと手を伸ばし、溢れる涙を優しく拭った。彼の指先の感触、その温もりは、驚くほどリアルだった。まるで、本当に彼がそこにいるかのように。
「…ごめん。でも、俺は行かなくちゃならないんだ。それが、定められた道だから。君を守るために…」彼の声は、海斗の声によく似ていたが、もっと感情が豊かで、切なさが深く滲んでいる。
「定められた道…? 私を守るため…? どういうこと? 何も説明してくれないじゃない! いつだってあなたはそう…!」
「いつか分かる時が来る。今は、ただ…俺を信じてほしい」彼は私の肩を掴み、その瞳で、私の魂の奥底まで見通すかのように、真っ直ぐに見つめた。「必ず戻ってくる。どんなに時間がかかっても、どんな困難が待ち受けていても、俺は必ず君の元へ帰る。魂は、決して離れたりしない。約束する」
「本当…? 本当に約束よ…?」夢の中の私は、彼の言葉を確かめるように、涙に濡れた瞳で彼を見上げた。その約束だけが、唯一の希望のように思えた。
「ああ、約束だ」彼は、力強く頷いた。その言葉には、揺るぎない、絶対的な意志が込められていた。「だから、泣かないで。君の涙は、俺の心を何よりも強く締め付ける。俺を信じて、強く生きて、待っていてほしいんだ。君の笑顔が、俺が進むべき道を照らす、唯一の光なんだから」
「うん…」夢の中の私は、涙を必死に堪えながら頷いた。「信じる。信じてるよ。ずっと、ずっと待ってるから…! だから、あなたも…絶対に、約束を破らないでね…! 必ず、帰ってきて…!」
青年は、再び悲しげに、しかし愛おしそうに微笑むと、私を強く、壊れそうなほど強く抱きしめた。彼の腕の中は、世界で一番安全で、温かい場所だった。彼の心臓の鼓動が、私の耳元で聞こえる。でも、同時に、これが最後の温もりになるのではないかという、耐え難いほどの切なさと喪失感が、私の胸を締め付けた。別れの瞬間が、刻一刻と迫っているのが分かった。彼の体が、少しずつ、光の粒子となって消えかかっているような気さえした。
「……っ!」
激しい動悸と共に、私は夢から覚めた。心臓が、胸の中で暴れるように激しく鼓動している。呼吸は浅く、速い。頬には、生々しい涙の跡がくっきりと残っていた。夢の中で感じた感情――彼への深い愛情、別れの悲しみ、再会の約束への切実な想い、そして未来への漠然とした不安――が、現実の私の心にも嵐のように吹き荒れ、体中の血液が逆流するような感覚に襲われた。
あれは、もう単なる夢ではない。単なる記憶の断片でもない。
確信があった。あれは、私が失った「魂の記憶」そのものだ。私と海斗(あるいは、彼によく似た、私の知らない、魂の片割れとも言うべき存在)は、遥か昔、あるいは別の次元で、深く愛し合い、そして、何か抗えない、おそらくはこの島のシステムに関わるような、大きな運命によって、引き裂かれたのだ。彼は、私を守るためにどこかへ旅立ち、私は彼を待つと誓った。そして彼は、「必ず戻る」と、魂を込めて約束してくれた。
この「再会の約束」こそが、壁画に描かれ、小野寺さんのノートにも記されていた、あの「約束」の正体に違いない。そして、この強烈な、時空を超えても色褪せない想いこそが、私たちをこの島に縛り付けている、最大の「執着」なのだ。
その事実に気づいた瞬間、恐怖と共に、一種の戦慄のようなものが全身を貫いた。もし、この約束への執着が、島のシステムによって「浄化」の対象と判断されたら…? 私たちは、この愛の記憶と共に、存在ごと消滅させられてしまうのだろうか? 海斗が恐れていた「危険」とは、これのことだったのか? 彼が真実を話すのを躊躇っていたのは、私をこの運命から守るためだったのか? 彼が一人で抱え込んでいる苦悩は、私が想像するよりも、はるかに深く、重いものなのかもしれない。
でも、だとしたら、「約束」が「解放」の鍵になるという可能性は…? 壁画には、天に昇っていく者たちも描かれていた。もしかしたら、この約束を成就させること、つまり、彼と私が再び魂レベルで結ばれること、あるいは、この約束への執着を、単なる縛り付ける力ではなく、未来へと進むための力へと昇華させることができれば、私たちは救われるのかもしれない。
希望と絶望が、光と影のように、私の心の中で激しくせめぎ合う。どちらの可能性が高いのか、今の私には分からない。ただ、このまま何も知らずにいることは、もう耐えられなかった。海斗に聞かなければならない。彼が知っている全てを。そして、二人で、この運命に立ち向かわなければならない。
私は、衝動的に拠点を出た。外はまだ夜明け前で、空には無数の星が、まるで砕け散ったダイヤモンドのように、鋭く、そして美しく輝いていた。あの夢で見た星空と同じように、それはどこか運命的な光を放っていた。
海斗は、やはり起きていた。彼は、遺跡の入口近く、あの巨大な石碑の前に、一人静かに佇んでいた。月明かりと星明かりに照らされた彼の後ろ姿は、まるで古代の石像のように動かず、深い思索と、そして近寄りがたいほどの孤独感を漂わせていた。彼は、毎晩こうして、一人で何かに耐えているのだろうか。
「海斗くん…!」
私は、ためらいを振り切り、彼の元へ駆け寄った。私の気配に気づき、彼はゆっくりと振り返った。その顔には、驚きと、そして何かを予期していたかのような、複雑な表情が浮かんでいた。彼の瞳は、夜空の星々を映して、静かに揺れていた。
「秋穂…どうしたんだ、こんな時間に。また、夢を…?」彼の声は、静かだったが、その奥に隠しきれない緊張が感じられた。
「見たの!」私は、感情のままに叫んでいた。「また、あの夢! 星空の下で、あなたと…いいえ、あなたによく似た人と、別れの約束をする夢! あれは、私たちの記憶なんでしょ!? 私たち、一度別れたのよね!? どうして!? 何があったの!? あなたが言っていた『定められた道』って何!? 私を守るって、どういうこと!?」
私の言葉は、涙声になっていた。もう、抑えることができなかった。夢のリアリティと、そこで感じた感情が、現実の私を突き動かしていた。
「教えて! お願いだから! 私、全部知りたいの! 私たちがどんな約束をしたのか! そして、それが、この島とどう関係しているのか! もう隠さないで!」
私の必死の訴えに、海斗はしばらくの間、言葉を失ったように立ち尽くしていた。彼の瞳は激しく揺れ、その表情には、深い苦悩と葛藤が、痛いほどに現れていた。彼は、何かと必死に戦っている。真実を語ることへの恐怖と、しかし、もう隠し通せないという諦めと、そして、もしかしたら、わずかな安堵のようなものも。
やがて、彼は意を決したように、深く、重いため息をついた。それは、長い間抱えてきた重荷を、ようやく下ろす覚悟を決めた者のため息のように聞こえた。そして、私の目を真っ直ぐに見据え、これまで聞いたことのないほど、真剣で、そして覚悟を決めた声で言った。
「…分かった。話そう。君がそこまで思い出しかけているのなら、もう隠し通すことはできないだろう。それに…君には、全てを知る権利がある。俺たちの過去も、この島の真実も、そして…俺が君を守ろうとしてきた、本当の理由も」
彼の言葉に、私は息をのんだ。ついに、彼が口を開いてくれる。長かった暗闇のトンネルの先に、ようやく光が見えたような気がした。しかし、同時に、これから語られるであろう真実の重さに、私の心は恐怖で縮み上がっていた。
「だが、聞けば…君は後悔するかもしれない」海斗は、続けた。その声には、警告と、そして深い悲しみが含まれていた。「俺たちの過去は…そして、この島での現実は…君が想像しているよりも、ずっと…残酷で、そして救いのないものかもしれないんだ。それでも、聞く覚悟はあるか?」
「…ある」私は、震える声だったが、きっぱりと答えた。「どんな真実でも、受け止める。あなたと一緒に、それに向き合いたい。それが、私たちの『約束』を果たすための、第一歩だと思うから」
私の決意を受け止め、海斗は小さく、しかし力強く頷いた。その瞳には、悲しみと共に、何か吹っ切れたような、強い意志の光が宿っていた。
「…では、話そう。だが、ここではない。もう少し…時と場所を選ぶ必要がある。全てを語るには、そして全てを受け止めるには、相応しい舞台が必要だ」
「時と場所…?」
「ああ。それに、話す前に、俺たちが最後に確認しなければならないこともある」彼は、遺跡の奥、神殿の方角へと視線を向けた。「この島の核心…おそらく、あの神殿の奥にあるだろう『何か』をだ。俺たちの過去と、この島のシステムがどう繋がっているのか。それをこの目で確かめなければ、俺の話も、ただの物語になってしまうかもしれない」
彼の言葉は、まだ多くの謎を含んでいたが、その真剣な眼差しから、彼がようやく真実への扉を開ける決意を固めたことが伝わってきた。彼は、ただ真実を語るだけでなく、私と共に、その真実の根源へと立ち向かおうとしているのだ。
「…分かった。信じるよ」私は頷いた。「神殿の奥へ行くのね?」
「ああ。危険は伴うだろう。だが、それが唯一の道だ。俺たちの過去と未来を知るための。そして…俺たちの『約束』の本当の意味を知るために」
「私も行く。一緒に行くよ。どこへでも」
「…ありがとう、秋穂」彼は、ほんの少しだけ、安堵したような、そして感謝するような表情を見せた。それは、私が初めて見る、彼の心からの微笑みだったのかもしれない。その微かな微笑みが、私の不安な心に、確かな勇気を与えてくれた。
私たちは、それ以上は話さなかった。ただ、並んで、夜明け前の星空を見上げていた。あの夢で見た星空と同じように、無数の星々が、私たちの頭上で静かに輝いている。それは、まるで、これから始まる私たちの最後の、そして最も重要な旅を、そして、そこで明かされるであろう真実の重さを、黙って見守っているかのようだった。
海斗が語るであろう、私たちの過去の真実とは、一体どんなものなのだろうか? そして、神殿の奥には、何が待ち受けているのだろうか? 不安と恐怖は、まだ私の心から消えてはいない。しかし、それ以上に、真実を知りたい、そして海斗と共に未来を切り開きたいという強い想いが、私を突き動かしていた。彼となら、どんな運命も乗り越えられるはずだ。そう信じたかった。
東の空が、徐々に白み始めていた。夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。それは、絶望の終わりを告げる光か、それとも、更なる試練の始まりを告げる光か。私たちには、まだ知る由もなかった。