第八話:壁画が語る魂の行方
陽菜が、家族への強い想いと共に、写真ごとこの世界から消滅してから数日が過ぎた。彼女の突然の、そしてあまりにも不可解な消失は、私たちに残された者たちの心に、癒えることのない深い傷と、そして切迫した危機感を刻み込んだ。郷田の時とは違う。陽菜の消失は、愛や絆といった、人間にとってごく自然で、そして美しいはずの感情すら、この島では「執着」と見なされ、破滅の原因となりうるという、残酷な真実を突きつけてきたのだ。
「次は自分かもしれない」
その恐怖は、もはや漠然とした不安ではなく、すぐそこまで迫った現実として、私たちの喉元に冷たい刃を突きつけていた。このままではいけない。ただ怯え、疑心暗鬼に苛まれながら、順番に消えていくのを待つだけでは、陽菜と同じ運命を辿ることになる。私たちは、この島のルールを、その目的を、何としてでも理解しなければならない。そして、もし可能ならば、生き残る道、あるいは「解放」される道を見つけ出さなければならないのだ。
その切羽詰まった思いは、皮肉にも、私たち残された者たちの間に、奇妙な一体感のようなものを生じさせた。それは、もはや仲間意識というよりは、同じ死刑宣告を受けた囚人のような、あるいは、難破船に乗り合わせた生存者のような、崖っぷちの連帯感だったのかもしれない。
「…やはり、あの遺跡を徹底的に調べるしかありません」
拠点に戻り、重苦しい沈黙が支配する中、最初に口を開いたのは小野寺だった。彼の顔には、陽菜を失った悲しみと、目の前で写真が消滅したという異常事態への衝撃が色濃く残っていたが、その声には、恐怖を振り払うかのような、強い決意が滲んでいた。
「早川さんの消失は…悲劇です。しかし、同時に我々に重要な教訓を与えてくれました。この島は、我々の『執着』…現世への強い想いや、過去への後悔を許さない。そして、その力は、我々の存在そのものを抹消するほど強大である、と」
彼は、一度言葉を切り、私たち一人一人の顔を見回した。
「感傷に浸っている時間はありません。生き残るためには…あるいは、この島から『解放』されるためには、この島の法則を、その目的を、徹底的に理解しなければならない。その答えは、必ずこの遺跡の中に隠されているはずです!」
彼の言葉は、半ば自らに言い聞かせているようでもあったが、私たちに残された唯一の道を示しているようにも聞こえた。このまま怯えていても、順番に消えていくだけだ。ならば、危険を承知の上で、謎に挑むしかない。
「…そうだな」意外にも、最初に同意したのは黒木だった。彼の顔には、まだ不信感の色が残っていたが、陽菜の消失は彼にとっても他人事ではなかったのだろう。「ただ怯えて待っていても、順番に消えていくだけだ。何か手がかりがあるなら、それに賭けるしかねえ。俺だって、こんな場所で死ぬのはごめんだ」
栞も、消え入りそうな声ながら「…私も…何かできることがあるなら…手伝います…」と頷いた。彼女の瞳にはまだ恐怖の色が濃いが、陽菜の死が、彼女に僅かながらも「このままではいけない」という意志を与えたのかもしれない。彼女は、陽菜が気にかけていた存在でもあったのだから。
そして、海斗も静かに言った。「それが最善かは分からない。だが、何もしなければ何も変わらない。俺も協力しよう」
彼の視線が、私に向けられる。「秋穂、君もいいな?」
「うん…!」私は、強く頷いた。「私も知りたい。この島のことも、そして…私たちのことも。陽菜ちゃんのためにも…」
私の言葉に、海斗はわずかに目を見開いたが、すぐに頷き返した。私たちの間には、まだ見えない壁がある。でも、この共同作業を通じて、何かが見えてくるかもしれない。そんな期待が、私の胸に小さく灯った。
こうして、私たちは、これまで以上に本格的な遺跡調査を開始することになった。それは、恐怖から逃れるための行動であり、同時に、生き残るための、そして「解放」されるための、最後の希望に賭ける行動でもあった。
私たちは、再び遺跡の奥深くへと足を踏み入れた。以前は危険を恐れて避けていた、崩れかけた通路や、暗闇に閉ざされた部屋にも、注意深く探索の手を伸ばしていく。松明の灯りを頼りに、壁に刻まれた文字やレリーフを丹念に調べていく作業は、困難で、そして精神的にも負担が大きいものだった。いつ、どこで新たな危険に遭遇するか分からないという緊張感。そして、壁画や文字が示すかもしれない、さらなる恐ろしい真実への不安。
海斗が先頭に立ち、持ち前の鋭い感覚で危険を察知し、ルートを確保する。彼の存在は、私たちにとって大きな支えだった。彼は、時折立ち止まり、壁のレリーフを険しい表情で見つめたり、通路の奥の闇に耳を澄ませたりしていた。彼には、私たちには見えない何か、聞こえない何かが分かっているのかもしれない。
小野寺はその後に続き、考古学の知識を総動員して、壁の刻印を解読しようと試みる。彼は、以前にも増して熱心に、そしてどこか焦るように、ノートに文字やシンボルを書き写していく。
「このシンボルは…やはり『魂』や『精神』を意味しているようです」彼は、壁の一部分を指差しながら説明する。「そして、こちらの渦巻くような模様は…『輪廻』や『転生』の流れを表しているのかもしれません。魂は、本来、この流れに乗って循環するものである、と」
「じゃあ、私たちは、その流れから外れてしまったっていうこと…?」私が尋ねる。
「そう考えられます。そして、この部分…見てください」彼が指差したのは、渦巻く流れから外れ、暗い海のような場所に漂着する、苦悩の表情を浮かべた人々の姿だった。「これが、おそらく我々のような、強い『執着』によって輪廻の流れから弾き出され、この島に流れ着いた魂の状態を示しているのではないでしょうか」
私たちは、息をのんで壁画を見つめた。それは、まさに私たちの状況そのものを描いているかのようだった。私たちは、現世への、あるいは過去への断ち切れない想いによって、本来あるべき魂のサイクルから逸脱し、この異質な島へと流れ着いてしまったのだ。
私と栞、そして意外にも黒木も、小野寺の指示に従って調査を手伝った。壁の埃を払い、拓本を取りやすくしたり、松明で周囲を照らして警戒したり。いがみ合っていた黒木も、今は文句を言うことなく、黙々と作業をこなしていた。彼もまた、この遺跡の謎を解くことだけが、唯一の活路だと理解しているのだろう。
私たちは、さらに奥へと進んだ。空気はひんやりと冷たく、湿気を帯びている。時折、どこからともなく風が吹き抜け、松明の炎を揺らす。そのたびに、壁に描かれた影が動き出し、まるで古代の魂たちが嘆き、あるいは警告を発しているかのように見えて、背筋が寒くなった。この遺跡は、ただの石の建造物ではない。無数の魂の記憶と感情が、染みついているのかもしれない。
数時間ほど、緊張感の中で探索を続けた後、私たちは遺跡の中層部と思われる、比較的広くて保存状態の良い石室にたどり着いた。その部屋に入った瞬間、私たちは皆、息をのんだ。
その部屋の壁一面に、これまで見てきたものとは比較にならないほど巨大で、詳細な壁画が描かれていたのだ。それは、まるで古代の寺院の壁画か、あるいは壮大な物語を描いた絵巻物のように、部屋全体を使って、一つの厳粛で、そして恐ろしい物語を語っていた。
「これだ…! 見てください、皆さん!」
小野寺が、声を震わせながら壁画を松明で照らし出す。私たちは、まるで金縛りにあったかのように、その壮大な壁画に見入った。彼の興奮が、恐怖と共に、私たちにも伝染する。ここにこそ、私たちが探し求めていた、この島の真実が隠されているのかもしれない。
壁画は、部屋の左側の壁から始まり、右側の壁へと続く、壮大なパノラマだった。それは、魂の旅路、あるいは魂の選別とでも言うべき物語を描いていた。
一番左には、やはり、様々な時代、様々な地域の服装をした、苦悩に満ちた表情の人々が描かれている。王侯貴族、戦士、商人、農民、老人、子供…あらゆる階層、あらゆる年齢の人々が、例外なく暗い表情で、荒れ狂う海のような場所を漂う小舟に乗せられ、この島へと流れ着いている。彼らの体からは、どす黒い靄のようなものが立ち上っており、それはおそらく、彼らが抱える「穢れ」や「未練」、そして「執着」を象徴しているのだろう。見ているだけで、彼らの苦しみや後悔が伝わってくるようだった。
壁画の中央部分には、島に上陸した人々が、まるで引き寄せられるかのように、この遺跡の中心にあると思われる、光り輝く巨大な祭壇のような場所へと導かれている様子が描かれていた。祭壇の上からは、眩いばかりの純粋な白い光が、洪水のように降り注いでいる。人々は、その神々しくも恐ろしい光を、全身に浴びているのだ。そして、その光を浴びた者たちの運命は、残酷なまでに明確に、二つに分かれて描かれていた。
一方の者たちは、光を浴びた瞬間、耐え難い苦痛に顔を歪め、その体がまるで燃え尽きるかのように、黒い塵となって崩れ落ち、跡形もなく消滅していく。その様子は、あまりにも無慈悲で、見る者に強烈な恐怖を与えた。彼らが消え去った場所には、「浄化」「消滅」「罰」「虚無」「輪廻からの完全な離脱」といった意味合いを持つと思われる、禍々しく絶望的なシンボルがびっしりと描かれていた。それは、郷田や、そして陽菜の最期を、まざまざと想起させた。私たちは、言葉を失い、ただその恐ろしい光景を見つめるしかなかった。
しかし、壁画は絶望だけを描いているわけではなかった。もう一方の者たちは、全く違う運命を辿っていたのだ。彼らは、光を浴びると、苦悶ではなく、むしろ穏やかで、恍惚としたような、安らかな表情を浮かべていた。そして、彼らの体から立ち上っていた黒い靄は完全に消え去り、代わりに、その体は輝く白い鳥のような形、あるいは純粋な光の粒子そのもののような形へと変容していく。そして、その輝く姿となって、空高く、天へと、まるで祝福されるかのように昇っていく様子が描かれていたのだ。彼らの周りには、「解放」「昇華」「救済」「還る場所へ」「永遠の安らぎ」といった、明らかにポジティブで希望に満ちた印象のシンボルが見られた。
「やはり…!」小野寺は、壁画全体を食い入るように見つめながら、興奮と恐怖が入り混じった声で言った。「私の仮説は間違っていなかった! この島は、魂を選別し、浄化する場所なのです! 現世への強い『執着』という名の『穢れ』を持つ魂は、ここで『浄化』され、存在ごと消滅させられる! しかし!」
彼は、壁画の右側、天に昇っていく輝く者たちの姿を、震える指で指差した。
「消える者ばかりではない! 執着から解放されれば、『解放』され、『昇華』し、本来還るべき場所…おそらくは、魂の根源、あるいは輪廻の流れへと戻ることができる道もあるのです!」
彼の言葉は、私たちに一縷の、しかし確かな希望を与えた。私たちは、ただ無慈悲に消されるのを待つだけの存在ではないのかもしれない。もし、自分の中にある「執着」と正しく向き合い、それを手放すこと、あるいは乗り越えることができれば、死ではなく、「解放」という救済を得られる可能性があるのだ。
「解放…」私は、その言葉を、まるで呪文のように繰り返した。「どうすれば、解放されるの…? 執着を手放すって、具体的にどうすればいいの? 陽菜ちゃんみたいに、家族を思う気持ちも、ダメなの…?」
「それはまだ分かりません…」小野寺は、苦悩の色を浮かべて首を振った。「執着にも、様々な種類と段階があるのでしょう。単に想うこと自体が悪いのではなく、その想いが魂を現世に縛り付け、前へ進むことを妨げるほどの強さになった時…それが問題となるのかもしれません。あるいは…想いの『質』のようなものも関係しているのかも…」
彼は、さらに壁画を指差した。
「そして、やはり気になるのは、この『約束』という文字です。壁画全体に、繰り返し、そして非常に重要な意味合いを持って描かれている。この文字は、『浄化』される魂の周りにも、『解放』される魂の周りにも、まるでその運命を決定づけるかのように描かれているのです」
「約束…」
「ええ。『約束』が、果たされなかったことへの強い後悔や、相手への執着となって魂を縛り付け、『浄化』の原因となることもある。しかし一方で、その『約束』を成就させること、あるいは、その『約束』を通じて何かを悟ることが、魂を『解放』へと導く鍵となることもある…そういう、二面性を持った、極めて重要な要素なのかもしれません」
「約束…」私は、夜ごと見るあの夢を、そして海斗との間に存在するであろう過去を思った。私たちの「約束」は、私たちを救う鍵なのか、それとも、私たちを断罪する最大の執着なのか?
「解放の条件は…何だ?」
静かに問いかけたのは、海斗だった。彼の声は低く、真剣だった。彼もまた、この壁画、特に「約束」というキーワードに、何か特別な、そしておそらくは個人的な意味を感じ取っているのだろう。彼の過去にも、何か重い「約束」が存在するのだろうか? そして、それは私との関係と、どう深く結びついているのだろうか?
壁画の前で、私たちはそれぞれの思いを胸に、立ち尽くしていた。壁画が示した「魂の浄化と解放」という、この島のシステムの真実は、私たちにわずかな希望を与えたと同時に、新たな、そしてより根源的な問いを突きつけてきた。「執着」とは何か?「約束」とは何か? 愛や絆は、どこまでが許され、どこからが罪となるのか? そして、私たちは、自らの魂の奥底に存在するであろう「執着」とどう向き合い、どちらの道を歩むことになるのか?
遺跡の奥深くから吹き抜けてくる風が、まるで古代の魂たちの囁きのように、私たちの耳元を通り過ぎていく。その声は、警告のようにも、あるいは、答えへの導きのようにも聞こえた。
私たちの運命の鍵は、やはり、失われた記憶の中に、そして、海斗との間に交わされたであろう、あの星降る夜の「約束」の中に隠されているのかもしれない。その真実を突き止めることこそが、私たちに残された唯一の道なのだと、私は強く感じていた。