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第七話:陽だまりの影

森でのデジャヴュと海斗との衝突は、私たちの間に、これまで以上に深く、そして冷たい溝を作ってしまった。彼は、あの日以来、さらに寡黙になり、私を避けるような素振りさえ見せるようになった。私も、彼にどう接すればいいのか分からず、ぎこちない挨拶を交わす程度で、以前のような二人きりでの食料調達もなくなってしまった。彼が隠している秘密、そして私たちの過去。それに触れることが、彼を苦しめ、そして私たち自身を危険に晒すことになるのかもしれない――そんな思いが、私を躊躇させていた。


拠点の中は、相変わらず重苦しい空気に支配されていた。食料はますます乏しくなり、皆の体力も気力も限界に近づいている。黒木は苛立ちを募らせ、ことあるごとに他のメンバーに当たり散らす。小野寺は石碑の解読に没頭することで現実から逃避し、栞は日に日に衰弱していく。希望の光は見えず、ただ時間だけが、絶望の色を濃くしながら過ぎていく。


そんな中で、私は、陽菜の様子が気にかかっていた。


彼女は、この救いのない状況の中でも、常に笑顔を絶やさず、ムードメーカーとして皆を励まそうと努めてくれていた。その明るさは、私たちにとって数少ない救いだった。しかし、最近の彼女は、明らかに元気がなかった。笑顔は以前よりもぎこちなく、どこか無理をしているのが見て取れた。そして、一人でいる時間が増え、物思いに耽るような表情を見せることが多くなっていた。


特に、夕暮れ時になると、彼女は決まって拠点を出て、海岸へ向かうのが日課のようになっていた。そこで、一人、水平線に沈んでいく太陽を、ただじっと、飽きることなく眺めているのだ。その姿は、いつも私たちに見せる快活さとはかけ離れていて、深い哀愁と、そして拭いきれない孤独の影を宿しているように見えた。


彼女が時折、ポケットから取り出して、大切そうに見つめているものがあることも、私は知っていた。それは、古びて色褪せた一枚の写真だった。以前、彼女が落としたのを拾ってあげた時に、ちらりと見たことがある。そこには、幼い女の子――おそらく陽菜自身だろう――と、その隣で少し照れたように笑う、彼女より少し年上に見える男の子が、仲睦まじげに写っていた。兄妹なのだろうか。彼女はその写真を、愛おしそうに、そしてどこか切なそうに、何度も指でなぞっていた。


「陽菜ちゃん」ある日、海岸から戻ってきた彼女に、私は思い切って声をかけた。「最近、元気ないみたいだけど…何かあったの? 私でよければ、話聞くよ」

彼女の目が、少し赤く腫れているように見えたからだ。一人で泣いていたのかもしれない。


「え? ううん、全然! 平気だよ!」陽菜は、一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐにいつもの人懐っこい笑顔を作って、私の肩を軽く叩いた。「ちょっと考え事してただけ! ほら、この島って、景色だけは無駄に綺麗じゃない? つい、黄昏ちゃってさー」

「そっか…」私は、それ以上踏み込むのをためらった。「でも、無理しないでね。辛いことがあったら、本当に、いつでも聞くから」

「うん、ありがとう、秋穂ちゃん!」彼女は、私の手を取り、力強くぎゅっと握った。その手は、少し冷たく、そして微かに震えているような気がした。「でも、本当に大丈夫だから! 心配しないで! 私、こー見えても結構タフなんだから!」

彼女は、悪戯っぽくウィンクしてみせたが、その笑顔の奥には、深い悲しみと、誰にも打ち明けられない孤独が、暗い影のように横たわっているのが感じられた。


彼女は、何をそんなに思い悩んでいるのだろう? あの写真に写っていた男の子と、何か関係があるのだろうか? この島に来る前に、何か辛い別れでもあったのだろうか?


そういえば、郷田が消える前、彼が食料を独り占めしようとした時、陽菜は珍しく真剣な顔で彼を諌めていたことがあった。「分け合わないとダメだよ! 自分だけ良ければいいなんて、そんなの…寂しいよ」と。あの時の彼女の言葉が、妙に心に残っていた。彼女自身、過去に「分け合えなかった」後悔や、「独り占め」してしまった罪悪感のようなものを抱えているのかもしれない。


その考えは、数日後に、確信へと変わることになった。


その日の夕暮れも、陽菜は一人で海岸へ向かった。夕陽に照らされた彼女の後ろ姿は、いつもよりさらに小さく、儚げに見えた。私は、声をかけようか一瞬迷ったが、結局、そっとしておくことにした。彼女には、一人で自分の心と向き合う時間が必要なのかもしれない、と思ったからだ。


しかし、それが彼女の最後の姿になるとは、その時の私は思いもしなかった。


日が完全に沈み、空には星が瞬き始めても、陽菜は拠点に戻ってこなかった。いつもなら、暗くなる前には必ず帰ってくるはずなのに。

「陽菜ちゃん、遅いね…」栞が、不安そうな声で呟いた。

「そうだな…さすがに心配だ。様子を見てくる」海斗が立ち上がった。彼の表情にも、懸念の色が浮かんでいる。

「私も行く」私も立ち上がった。またしても、嫌な予感が胸をよぎる。郷田が消えた朝と同じ、あの不吉な予感。


私と海斗は、急いで海岸へと向かった。小野寺と黒木も、事態を察したのか、少し遅れてついてくる。


海岸に着くと、そこには誰もいなかった。夕暮れ時の喧騒は消え、今はただ、寄せては返す波の音だけが、静かに響いている。空には満月が昇り、銀色の光が砂浜を照らし出していた。


「陽菜ちゃーん! どこー!?」私は、声を限りに叫んだ。

「早川さーん! 聞こえたら返事をしてくださーい!」小野寺も叫ぶ。


しかし、返事はない。私たちは手分けして、海岸線を捜索した。岩陰、茂みの裏、考えられる場所は全て探したが、彼女の姿も、彼女がここに来たという痕跡すら、見つけることはできなかった。


「まさか…海に落ちたとか…?」黒木が呟いたが、今日の海は満月の大潮とはいえ、比較的穏やかだった。それに、彼女が誤って海に落ちるような場所でもない。


「…いや、待て」海斗が、低い声で言った。彼は、陽菜がいつも座っていた大きな岩のあたりを、鋭い目つきで調べていた。「ここに…何か落ちている」


私たちは、彼の元へ駆け寄った。彼が指差す岩の隙間に、何か小さな紙切れのようなものが見えた。

「あ…!」

私は、それが何であるかすぐに分かった。陽菜がいつも大切そうに持っていた、あの色褪せた写真だ。


私は、震える手でそれを拾い上げた。月明かりの下で、写真の図柄がかろうじて見える。幼い陽菜と、お兄さんらしき男の子の笑顔。彼女にとって、それはかけがえのない宝物だったはずだ。なぜ、こんなところに落ちているのだろう? まさか、彼女は自らこれを…?


私がそう思った、その瞬間だった。

手にしていた写真が、まるで月光に溶けるかのように、あるいは砂時計の砂がこぼれ落ちるかのように、サラサラと粒子状に崩れ始めたのだ。


「え…?」


驚いて手を離す間もなく、写真は完全に形を失い、銀色の砂となって私の指の間からこぼれ落ちた。そして、夜風にふわりと舞い上がり、月の光の中へと吸い込まれるように、跡形もなく消え去ってしまった。


「…………」


私たちは、皆、言葉を失い、その場に立ち尽くした。郷田の時と同じだ。彼の持ち物も、寝床の痕跡すらも、全てが消えた。そして今、陽菜の唯一の形見であったはずの写真も、私たちの目の前で、まるで幻のように消滅した。


これは、単なる失踪ではない。単なる死でもない。この島は、人の存在そのものを、その人が大切にしていた思い出や絆ごと、この世界から完全に抹消してしまうのだ。


「…やはり、『執着』か」

重い沈黙を破ったのは、海斗だった。彼の声は低く、苦々しさが滲んでいた。

「執着…?」私は、涙で濡れた顔を上げて彼を見た。「家族に会いたいって思うことが、そんなにいけないことなの!? お兄さんとの思い出を大切にすることが、消えなきゃいけないほどの罪なの!?」

感情が爆発し、私は彼に詰め寄っていた。理不尽だ。あまりにも残酷すぎる。陽菜が、どれほどの想いを抱えて、この写真を見つめていたことか。

「この島では…そうなのかもしれない」海斗は、私の激しい問いかけを、静かに受け止めた。「強すぎる想いは、魂をこの場所に縛り付ける。現世への断ち切れない絆、過去への拭いきれない後悔…それらが『執着』となり、島のルールに触れた時…魂は『浄化』される。存在ごと、記憶ごと、消滅させられるんだ」

「浄化…!? あんなに明るくて、優しかった陽菜ちゃんが…消されるだけの『穢れ』を持っていたって言うの!?」私は納得できなかった。

「穢れ、というよりは…想いの強さ、そして方向性だ」海斗は、言葉を選びながら続けた。「彼女の家族への想い、特に兄への後悔は、おそらく非常に強いものだったのだろう。それが、現世への強い引力となり、この島からの『解放』を妨げる力となった。そして、その力が、島のシステムにとって許容できないレベルに達した時…あるいは、彼女自身が、無意識のうちに『消滅』を選んでしまったのかもしれない」

「選んだ…ですって…?」

「絶望の中で、強い郷愁や後悔に囚われ続けることは、魂にとって大きな負荷となる。時には、その苦しみから逃れるために、完全な『無』への誘惑に抗えなくなることもあるのかもしれない…」

海斗の言葉は、冷たく、そして恐ろしい可能性を示唆していた。陽菜は、自ら消滅を選んだ…?


「そんなのって…あんまりだよ…!」

涙が止まらなかった。陽菜の最後の、無理に作った笑顔が脳裏に焼き付いている。彼女は、どれほどの孤独と後悔を抱え、あの夕陽を見つめ、そして、どんな想いでこの世から消えていったのだろうか。


「…また消えたか」黒木が、忌々しげに吐き捨てた。「あの姉ちゃん、いつも家族の写真見てたからな。分かりやすいフラグ立てやがって。感傷に浸ってっと、次はてめえの番だぜ、水瀬。お前も、あの篠宮って野郎に相当『執着』してるみてえだからな」

彼の言葉は、ナイフのように私の胸に突き刺さった。海斗への想い。これもまた、危険な「執着」なのか? 私も、陽菜と同じように、いつか…。


小野寺は、写真が消えた現象を目の当たりにし、言葉を失っていたが、やがて、研究者の性なのか、冷静さを取り戻そうと努めながら呟いた。「写真という物質まで消滅するとは…やはり、この島の法則は、我々の物質世界の常識を超えている…。存在情報の抹消…とでも言うべきか…」


栞は、もう何も感じることができないかのように、ただ、ぼんやりと月を見上げているだけだった。


陽菜の消失は、私たちに残された者たちに、改めてこの島の非情な現実と、「執着」というものの恐ろしさを突きつけた。それは、愛や絆といった美しい感情でさえ、ここでは破滅の原因となりうるという、残酷な真実だった。


私たちは、心を殺して生き延びるか、あるいは、己の「執着」と共に消え去るかの、二択しかないのかもしれない。


空には、無数の星が、冷たく、そして美しく輝いていた。その星々の下で、私たちは、また一人、大切な仲間を失ったのだ。

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