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第六話:森が囁くデジャヴュ

海斗からの謎めいた警告を受けた後も、私たちの息詰まるような日常は変わらず続いていた。郷田の消失という衝撃的な出来事は、時間の経過と共に、恐怖としてではなく、むしろ常に私たちの行動を縛る重い枷として、その存在感を増していた。石碑の規則は絶対であり、それに違反することは死を意味する――その認識が、私たちを萎縮させ、疑心暗鬼に陥らせ、緩やかに精神を蝕んでいく。


食料は日に日に乏しくなり、拠点周辺の探索だけでは、もはや十分な量を確保することは難しくなっていた。このままでは飢え死にしてしまう。誰もがそう感じ始めていたが、森の奥深くへ足を踏み入れることへの恐怖と、「定められし道以外、歩むことなかれ」という規則が、私たちを躊躇させていた。


「…このままじゃ、本当に干上がっちまうぞ」


ある日の夕暮れ、黒木が苛立ちを隠せない様子で吐き捨てた。「いつまでもこんな狭い範囲でちまちま探し回ってたって、埒があかねえ。危険だろうがなんだろうが、もっと奥まで行ってみるしかねえんじゃねえのか?」

彼の言葉には、いつもの刺々しさとは違う、切羽詰まった響きがあった。彼もまた、この状況に限界を感じているのだろう。


「しかし、規則には…」小野寺が、不安げに反論しようとする。

「規則、規則って、そればっかりじゃねえか!」黒木が声を荒らげる。「その規則を守ってたって、腹は膨れねえんだよ! それに、『定められし道』ってのがどこなのか、分かりもしねえだろうが! 少しはリスクを取らねえと、どのみち全員死ぬだけだ!」


黒木の言葉は乱暴だったが、一理あった。このままでは状況は悪化する一方だ。私たちは、危険を冒してでも、新たな食料源を探し出す必要に迫られていた。


「…分かった」しばらくの沈黙の後、海斗が静かに口を開いた。「明日、俺と水瀬で、もう少し森の奥まで行ってみよう」

「え…?」私は、突然名前を呼ばれて驚いた。そして、他のメンバーも同様に驚いた表情で海斗を見ていた。特に黒木は、「なんでお前と水瀬なんだよ」と不満げな顔をしている。

「俺には、多少なりとも植物の知識と、危険を察知する感覚があるつもりだ」海斗は、皆の視線を受け止めながら、冷静に続けた。「そして、水瀬は…注意深く、物事を観察する目を持っている。二人なら、互いを補い合いながら、安全に探索できる可能性が高い」

彼の言葉は、合理的で説得力があった。それに、彼が私を評価してくれていることが、少しだけ嬉しかった。

「それに…」海斗は、わずかに声を潜めて付け加えた。「大人数で動くより、二人の方が気配を消しやすい。万が一、何かに出くわした場合でも、逃げやすいだろう」

その言葉に、皆、反論はできなかった。森の奥には、未知の危険が潜んでいる可能性が高い。食料だけでなく、獣や、あるいはもっと別の「何か」に遭遇するかもしれないのだ。


こうして、翌日、私と海斗は二人だけで、これまで足を踏み入れたことのない、森の奥深くへと探索に出ることになった。他のメンバーには、拠点周辺の安全な場所での探索と、火の番、そして栞の看病を頼んだ。黒木は最後まで不満そうな顔をしていたが、他に有効な打開策がない以上、渋々ながらも私たちの出発を見送った。


森の中は、やはり薄暗く、湿気が濃い。しかし、拠点での息詰まるような空気から解放されたせいか、あるいは海斗と二人きりという状況がそうさせるのか、私の心は不思議と少しだけ軽くなっていた。もちろん、未知の場所への不安や、食料を見つけなければならないというプレッシャーはある。けれど、それ以上に、彼ともっと話せるかもしれない、彼のことをもっと知れるかもしれない、という淡い期待が胸にあった。


「こっちだ」海斗は、迷いのない足取りで、獣道のような細い道を辿っていく。彼は、まるで森の歩き方を熟知しているかのように、巧みに木の根や窪みを避け、周囲の気配に常に注意を払っている。

「海斗くんって、本当に森に詳しいんだね」私は、彼の後ろをついていきながら話しかけた。「昔、山とかによく行ってたの?」

「…まあな」彼は、短く答えた。「自然の中で過ごす時間は、嫌いではなかった」

「私も、子供の頃はよく家族でキャンプに行ったりしたな…」私は、遠い昔の記憶を辿るように呟いた。「あの頃は、こんな風に命の心配なんてすることなく、ただ楽しくて…」

言いかけて、私は口をつぐんだ。「家族」という言葉が、陽菜の最後の姿と重なって、胸が締め付けられたからだ。


海斗は、私の変化に気づいたのだろう、少しだけ歩調を緩め、静かに言った。

「…過去を思うな、とは言わない。だが、それに囚われるな。俺たちが生きているのは、今、この瞬間だ」

彼の言葉は、厳しくも優しかった。彼は、私が陽菜のことを考えていると察してくれたのかもしれない。そして、私自身もまた、「執着」の罠に陥らないように、と暗に警告してくれているのかもしれない。

「…うん。そうだね」私は、小さく頷いた。


私たちは、さらに森の奥へと進んだ。空気は一層濃密になり、周囲の木々はさらに巨大で、古さを増していく。まるで、時間の流れから取り残された、太古の森に迷い込んだかのようだ。静寂が支配し、聞こえるのは自分たちの足音と呼吸、そして時折響く、聞いたこともない鳥や獣の声だけ。不安が再び鎌首をもたげてくる。


「…大丈夫か?」海斗が、私の顔を覗き込むようにして尋ねた。「顔色が悪いぞ。少し休むか?」

「ううん、大丈夫。ありがとう」私は、無理に笑顔を作って答えた。


その時だった。

私たちの目の前に、ひときわ巨大な、異様な存在感を放つ木が現れたのは。


樹齢何百年、いや千年を超えているかもしれない、圧倒的な巨木。幹は大人数人で囲んでも足りないほど太く、表面は深い緑色の苔でびっしりと覆われている。無数の太い枝が、まるで空を掴もうとするかのように複雑に絡み合いながら伸び、そこから垂れ下がる太い蔦は、生きている蛇のように幹に巻き付いている。その姿は、神々しくもあり、同時にどこか禍々しくもあった。不思議なことに、その巨木の周りだけ、天蓋の木々の隙間から柔らかな陽光が差し込み、まるでそこだけが特別な空間であるかのように、神聖な光に照らし出されていた。


「わぁ……」


私は、その神秘的で圧倒的な光景に、思わず息をのんだ。言葉を失い、ただ呆然と、その巨木を見上げていた。


しかし、次の瞬間、私の全身を、これまでに経験したことのないほど強烈な感覚が襲った。


デジャヴュだ。


しかし、それは単なる既視感ではなかった。頭の中に、奔流のように、鮮明なイメージと感情が溢れ出してきたのだ。


陽光がきらめく、温かい日。私は、この木の下にいる。隣には、誰かがいる。温かくて、安心できる、大好きな人。私たちは、笑い合っている。他愛のない話をして、未来を語り合って、幸せに満ちている。そして…何かを、とても大切な何かを、互いに約束している。真剣な眼差し。固く握られた手。胸に響く、力強い言葉。


懐かしい。愛おしい。幸せだ。


なのに、どうしようもなく、胸が締め付けられるように切ない。


なぜ?


涙が、理由もなく頬を伝い始めた。この感覚は、あの夢で感じたものとよく似ている。いや、もっとずっと強く、鮮明だ。これは、夢じゃない。私が失った、確かな記憶の一部なのだ。


「ここ…」私は、震える声で呟いた。「私、ここを知ってる…。絶対に、ここに来たことがある…!」

私は、隣に立つ海斗を見た。彼もまた、その巨木を、そして涙を流している私を、信じられないものを見るかのような、愕然とした表情で見つめていた。彼の顔は蒼白で、その瞳は激しく揺れていた。彼は、明らかに動揺していた。隠そうとしても、隠しきれていない。


「あなたもそうでしょ!?」私は、確信を持って彼に詰め寄った。「この木の下で! 私たち、会ってたんじゃないの!? 何か、すごく大切な約束をしたんじゃないの!?」

「……!」海斗は、息をのんだまま、言葉を発することができない。彼の反応が、私の確信を裏付けていた。彼は知っているのだ。この場所の意味を。私たちの過去を。

「どうして隠すの!? 教えてよ! この木の下で、私たちは何を約束したの!?」私は、彼の腕を掴み、必死に訴えた。答えがすぐそこにあるような気がして、もどかしかった。「お願いだから…思い出させて…!」


「…落ち着け、秋穂」海斗は、ようやく声を絞り出した。しかし、その声はわずかに震えており、彼は必死に平静を装おうとしているのが痛いほど分かった。「それは…気のせいだ。君は疲れているんだ。きっと、何かと…夢と現実を混同しているんだ」

「嘘!」私は叫んだ。「嘘よ! あなたの顔を見ればわかる! あなたは覚えている! 私たちの過去を! なのに、どうして教えてくれないの!? あの時の夢も! この場所も! 全部繋がってるんでしょ!? 私たち、一体何なの!? どんな約束をしたの!?」


私の剣幕に、海斗は苦しげに顔を歪めた。彼は、掴まれた私の手を、振り払うようにして、しかしどこか躊躇うように、そっと離した。その瞳には、深い悲しみと、そして何かに対する強い警戒の色が浮かんでいた。


「……今はダメだ」彼の声は、低く、切実だった。「まだ、話すわけにはいかないんだ。話せば…君を…」

彼は、そこまで言って口をつぐんだ。まるで、言ってはならない言葉を飲み込んだかのように。


「私を…どうなるって言うの?」私は、彼の言葉の続きを促した。

「……」彼は、ただ固く唇を結び、首を横に振るだけだった。「頼む。今は、何も聞かないでくれ。時が来れば、必ず話す。必ず…」

そう言うと、彼は私に背を向け、まるで逃げるかのように、足早にその場を立ち去ろうとした。


「待ってよ!」

私は彼の後を追いかけようとしたが、足が、まるで地面に縫い付けられたかのように動かなかった。彼の拒絶が、冷たい現実となって私の胸に突き刺さる。彼は覚えている。なのに、教えてくれない。そこには、私がまだ知らない、何か恐ろしく、そして悲しい理由があるのだ。彼が言っていた「危険」とは、やはり私たちの過去そのものなのかもしれない。そして、その過去を知ることが、私を、あるいは私たち二人を、破滅へと導くのかもしれない。


涙が止まらなかった。デジャヴュの温かさと切なさ、海斗への募る想いと不信感、そして真実を知ることへの渇望と恐怖が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、私の心を掻き乱した。


結局、その日の食料調達は、ほとんど成果がないまま終わることになった。帰り道、私と海斗の間には、これまでで最も重く、冷たい沈黙が支配していた。私は何度も彼に話しかけようとしたが、言葉が見つからない。彼は、何かを深く悔いているような、あるいは、何かから必死に私を守ろうとしているような、そんな苦悩に満ちた表情で、ただ前だけを見つめて歩いていた。その背中が、ひどく頼りなく、そして孤独に見えた。


拠点に戻ると、私たちのただならぬ様子に、他のメンバーもすぐに気づいた。

「おい、二人してどうしたんだ? 随分と暗い顔じゃねえか。まさか、森で何かヤバいもんにでも出くわしたか?」黒木が、探るような、そしてどこか面白がるような視線を向けてくる。

「秋穂ちゃん、大丈夫? 顔色悪いよ? 何かあったの?」陽菜(まだ消えていない設定に戻します)が心配そうに駆け寄ってくる。

「ううん…なんでもない。ちょっと、疲れただけ…」私は、力なくそう答えるのが精一杯だった。


海斗は、誰とも目を合わせようとせず、黙って拠点の隅に行き、壁にもたれて座り込んでしまった。その姿は、まるで厚い氷の壁を自分の周りに築き上げ、誰も寄せ付けまいとしているかのようだった。


私の心の中に芽生え始めていた、彼への確かな信頼と、そして特別な感情。それが、今日の出来事で、再び大きく揺らいでいた。彼は私を守ろうとしてくれているのかもしれない。でも、そのために真実を隠し続けることは、本当の意味で二人のためになるのだろうか? 私たちは、このままでは、互いを本当に理解し合うことなどできないのではないか?


そして、あの巨木の下での「約束」。それは、一体どんな内容だったのだろう? それが、この島の「規則」…特に、壁画や小野寺のノートにもあった「約束」というキーワードと、どう関わってくるのだろうか? もし、私たちの約束が、この島で最も危険な「執着」だと見なされたら…?


頭の中は、解けないパズルと、答えの出ない疑問でいっぱいだった。ただ一つ確かなのは、私たちの失われた過去が、この島の謎を解く鍵であり、同時に、私たち自身を破滅させるかもしれない、時限爆弾のようなものであるということだった。


その夜、私はまた夢を見た。あの巨木の下。降り注ぐ星空。そして、海斗によく似た青年の、悲しみに濡れた瞳。夢の中の私は、彼の胸に顔を埋めて泣いている。「行かないで」と繰り返しながら。そして、彼は私の髪を優しく撫でながら、囁くのだ。「必ず戻る。約束する」と。


目覚めた時、私の枕は、またしても涙でぐっしょりと濡れていた。

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