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第五話:静かなる侵食

郷田が、まるで最初から存在しなかったかのように消え去ってから、数日が流れた。彼の消失は、私たちに残された者たちにとって、単なる仲間の死以上の、根源的な恐怖を植え付けた。この島は、私たちの存在そのものを脅かす、不可解で、そして抗いようのない法則によって支配されている――その事実が、重く冷たい現実として私たちの前に立ちはだかっていた。


遺跡の中の空気は、澱んでいた。以前にも増して会話は少なくなり、皆、互いの顔色を窺い、些細な物音にもびくりと反応するようになった。郷田という、良くも悪くも強引なリーダーがいなくなったことで、私たちは方向性を見失い、代わりに得たのは、常に「次は自分かもしれない」という怯えと、隣にいる人間すら信用できないという、深い疑心暗鬼だけだった。


あの石碑に刻まれた「規則」は、今や私たちにとって絶対的な戒律となっていた。誰もがその内容を暗唱できるほど意識し、自らの行動がそれに抵触しないか、常に自問自答するようになった。『夜明け前の聖域侵入禁止』、『島の恵みの独占禁止』、『定められし道以外の通行禁止』。これらの規則は、解釈の余地はあれど、その危険性を郷田の消失が証明してしまった。そして、意味不明な『呼ばれぬ名を口にするな』、『鏡に偽りを語るな』というルールは、その不可解さ故に、より一層私たちの不安を掻き立てた。


日々の活動は、必要最低限に縮小された。食料調達も、以前は少しでも多くの収穫を求めて森の奥へ足を延ばすこともあったが、今は拠点から比較的近く、安全が確認されている(と思われている)範囲でしか行われなくなった。「定められし道以外、歩むことなかれ」という規則が、私たちの行動範囲を狭めていたのだ。遺跡の調査も、小野寺が石碑の解読に集中するようになり、新たな区域への探索は行われなくなった。私たちは、まるで自ら作り出した檻の中に閉じこもるように、この薄暗い遺跡の中で息を潜めて過ごしていた。


乏しい食料の分配は、毎回、緊張した空気の中で行われた。『独り占め』と見なされることを恐れ、誰もが必要以上に遠慮し、譲り合う。しかし、その譲り合いの裏には、「あいつは本当に公平に分けているのか?」「隠し持っているのではないか?」という疑いの目が光っているのが感じられた。


「ねぇ、その木の実、昨日私が採ってきた分より少し大きくない?」

ある日の食事の際、陽菜が隣に座る栞に、何気ない口調で尋ねた。陽菜に悪気はないのだろうが、その言葉に栞はびくりと肩を震わせ、顔面蒼白になった。

「ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃ…! どうぞ、食べてください!」栞は、慌てて自分の分の木の実を陽菜に差し出そうとする。

「いや、そういう意味じゃなくて…」陽菜も困惑した表情になる。

「おい、お前ら!」その様子を見ていた黒木が、鋭い声で割って入った。「『独り占め』は禁止だぞ! 忘れたのか! 郷田さんみたいになりたいのか!?」

彼の言葉は、もはや脅しだった。栞は完全に怯えきってしまい、陽菜も俯いてしまう。些細なことから生まれる疑念と恐怖の連鎖。郷田の消失は、私たちから仲間意識や思いやりといった感情すら奪い去ろうとしていた。


そんな息の詰まるような状況の中で、黒木の猜疑心は、ますます特定の人物へと向けられていた。篠宮海斗だ。


郷田がいなくなった後、海斗の存在はさらに際立って見えた。彼は、他のメンバーが恐怖や疑心暗鬼に囚われている中でも、常に冷静さを保ち、感情を表に出すことが少ない。そして、時折見せる植物や天候に関する知識、危険を察知する鋭い感覚は、この極限状況においては非常に頼りになるはずなのだが、黒木にとっては、それが逆に彼の不信感を煽る要因となっていた。


「おい、篠宮」黒木は、ことあるごとに海斗に絡むようになった。「お前、郷田がいなくなってせいせいしたって顔してるじゃねえか。あのデブ社長、目障りだったもんな?」

「…くだらないことを言うな」海斗は、静かに返す。彼の声には、苛立ちよりも、むしろ憐れみに似た響きがあった。

「くだらない? 本気で言ってんのか? お前、この島のことに詳しすぎるんだよ。まるで、ここに来るのが初めてじゃないみたいだぜ。それに、あの小娘(私のことだ)をやけに庇うような素振りも見せる。何か魂胆があるんじゃねえのか?」

「…考えすぎだ。今は、生き残ることだけを考えるべきだ」

「生き残る、ねえ…」黒木は、海斗を頭のてっぺんから爪先まで値踏みするような、嫌らしい視線で眺め回した。「お前は、俺たちが全員消えちまっても、一人で平然と生き残ってそうだな。あるいは…お前だけが、この島から出る方法を知ってるとか?」

黒木の執拗な追及にも、海斗は動じなかった。彼はただ、黙って黒木の視線を受け止め、そして静かに立ち上がり、その場を離れた。まるで、相手にする価値もない、とでも言うかのように。その態度が、さらに黒木の神経を逆撫でしたようだった。


私は、そんな二人のやり取りを、いつも不安な気持ちで見守っていた。海斗くんが犯人だなんて、絶対に信じたくない。でも、黒木さんの言うことにも、一理あるのかもしれない、と思ってしまう自分がいるのも事実だった。彼の冷静さ、知識、そして私への特別な態度は、やはり不可解だ。彼は、私に「信じてほしい」「必ず話す」と約束してくれた。でも、その約束がいつ果たされるのか、そして、彼が隠している秘密が何なのか、私にはまだ何も分からない。


そんな中、私と海斗の関係は、皮肉なことに、少しずつ変化していた。二人きりで食料調達に出かける時間が増えたことが、そのきっかけだったのかもしれない。拠点での息詰まるような空気から解放され、森の中を二人で歩いていると、自然と会話も増えるようになった。


「海斗くんって、昔からそんなに冷静だったの? あまり感情を表に出さないタイプ?」

ある日、森の中で木の実を探しながら、私は思い切って尋ねてみた。

「…さあな」彼は、少しだけ間を置いて答えた。「あまり覚えていない。昔のことは…忘れたいことの方が多い」

彼の声には、一瞬だけ、深い翳りが差したように感じられた。彼にも、辛い過去があるのだろうか。

「そっか…ごめん、変なこと聞いて」

「……いや」彼は、それ以上は何も言わなかった。


またある時は、私が不用意に崖の近くに寄ってしまった時、彼が素早く私の腕を掴んで引き戻してくれたことがあった。

「危ない! 足元をよく見ろ!」

彼の声は厳しかったが、掴まれた腕から伝わる彼の力強さと、私の身を案じてくれていることが分かり、心臓がドキリとした。

「あ…ありがとう…」顔が熱くなるのを感じた。

彼は、すぐに私の腕を離し、「…油断するな」とだけ言って、先を歩き始めた。そのぶっきらぼうな態度が、逆に彼の照れ隠しのようにも思えて、私は少しだけ微笑んでしまった。


少しずつ、本当に少しずつだけれど、彼の人間らしい部分に触れられるような気がしていた。彼は、決して冷たい人間ではない。ただ、何か大きなものを抱え込み、自分の感情を抑え込んでいるだけなのではないだろうか。そして、その理由が、私と彼の「過去」に関係しているのではないか…そんな思いが、日増しに強くなっていた。


彼をもっと知りたい。彼の力になりたい。そして、私たちの間に横たわる謎を解き明かしたい。


しかし、そんな私の思いとは裏腹に、島の脅威は、もっと静かに、もっと根深く、私たちの心を侵食し始めていた。


その夜、私は一人で泉に水を汲みに行った。月明かりが、遺跡の石壁を青白く照らし出し、幻想的な雰囲気を醸し出している。泉の水は相変わらず冷たく澄んでいて、水面に映る自分の顔を見つめていると、少しだけ心が落ち着くような気がした。


水を汲み終え、拠点に戻ろうとした、その時だった。

背後から、不意に声がかかった。

「…水瀬」

びくりとして振り返ると、そこに海斗が立っていた。いつの間に来たのだろう、全く気配を感じなかった。

「海斗くん…どうしたの?」

「いや…」彼は、少しだけ言い淀むようにして続けた。「…あまり一人で出歩くな。特に夜は危険だ」

彼の声は低く、真剣だった。それは、単なる注意喚起以上の、何か強い警告のように響いた。

「うん…ごめん」

「それと…」彼は、さらに声を潜めた。「…鏡には気をつけろ」


「え…?」私は、彼の言葉の意味が理解できず、聞き返した。「鏡…? どういうこと?」

石碑の規則にあった言葉だ。でも、この島に鏡なんてあっただろうか?

「泉の水面のこと…?」私が尋ねると、彼はゆっくりと首を振った。

「…水面もそうかもしれない。だが、それだけではないかもしれない」

「それだけじゃないって…?」

「この島では、自分自身と向き合うことが、何らかの『試練』となる可能性がある」彼は、まるで何かを教え諭すかのように、静かに語り始めた。「鏡は、自分の姿を映し出すものだ。だが、それは物理的な姿だけじゃない。時には、心の奥底に隠された本性や、目を逸らしたいと思っている弱さ、そして…『執着』をも映し出すのかもしれない」

「執着を…映し出す…?」

「ああ。石碑には『偽りを語るな』とあっただろう? あれは、鏡に映る自分に対してだけでなく、自分自身の心に対して嘘をつくな、という意味合いが強いのかもしれない。自分の弱さや醜さから目を逸らし、自分を偽って生きることは、この島では許されない…そういうことかもしれないんだ」


彼の言葉は、抽象的でありながら、妙な説得力を持っていた。この島は、私たちの肉体だけでなく、精神をも試そうとしている。自分自身と向き合うこと、それ自体が危険を伴う試練となる…?


「だから、気をつけろ」海斗は、念を押すように言った。「自分の姿を映すもの…水面だけでなく、磨かれた石や、あるいは…他人の瞳の中に映る自分自身にも。そして、何よりも、自分自身の心と向き合う時には、覚悟が必要だ」

「……うん。わかった。ありがとう、教えてくれて」私は、彼の警告を胸に刻み込むように頷いた。

「…たいしたことじゃない。早く拠点に戻れ。夜風は冷える」

彼はそう言うと、私に背を向け、闇の中へと静かに消えていった。


一人残された私は、しばしその場に立ち尽くしていた。海斗の警告。鏡。自分自身との対峙。執着。偽り…。それらの言葉が、頭の中でぐるぐると回る。この島は、私たちが思っている以上に、複雑で、そして恐ろしい場所なのかもしれない。


静かなる侵食。それは、目に見える脅威だけでなく、私たちの心の奥底にまで及んでいる。私たちは、否応なく、自分自身と向き合わされることになるのだろう。その時、私たちは、鏡に映る真実の自分を受け入れ、偽ることなくいられるのだろうか?


その夜、私はまた夢を見た。あの星空の下、巨木の前で、誰かと約束を交わしている夢。今度は、相手の顔が少しだけはっきりと見えた気がした。それは、やはり海斗によく似ていた。そして、夢の中の私は、泣きながら、しかし強い意志を持って、彼に何かを誓っていた。「必ず…」と。


目覚めた時、私の心臓は激しく鼓動していた。夢の内容は思い出せない。けれど、夢の中で感じた、強い決意と、そして胸を締め付けるような切ない想いだけが、妙に生々しく残っていた。

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