第四話:消えたリーダー
夜明け前の空気は、ひときわ冷たく、重く感じられた。遺跡の石壁が、蓄えた冷気を容赦なく放っているせいだろうか。それとも、昨夜の郷田の行動と、これから起こるかもしれない何かへの予感が、私の体を芯から冷えさせているのだろうか。
私は、焚火の残り火が弱々しく明滅する前で、膝を抱えて座っていた。結局、昨夜は一睡もできなかった。郷田が拠点を出ていくのを目撃した後、言いようのない不安と恐怖に苛まれ続けた。彼は、見せつけるように規則を破った。石碑の警告を嘲笑うかのように。「何も起きやしない」と彼は言った。本当にそうだろうか? あの不気味な石碑と、そこに刻まれた禍々しいシンボルが、ただの脅しだとはどうしても思えなかった。
彼は無事に戻ってくるのだろうか? それとも、石碑の規則はやはり本物で、彼には既に、私たちの知らない形で「罰」が下されているのだろうか?
他のメンバーも、程度の差こそあれ、同じような不安を抱えていたのかもしれない。陽菜と栞は互いに寄り添うようにして眠っているが、時折魘されるように身じろぎし、その寝顔は安らかとは言い難い。黒木は壁にもたれて腕を組み、目を閉じているが、固く結ばれた口元と、時折ピクリと動く眉が、彼の内面の緊張を物語っている。小野寺は、昨夜も遅くまで石碑の解読に没頭していたせいか、疲労困憊といった様子で、珍しく深い眠りに落ちているように見えた。そして海斗は…彼はいつものように、少し離れた場所で静かに座り、瞑想でもするかのように目を閉じている。しかし、その微動だにしない姿と、張り詰めた空気は、彼が決して眠っているわけではないことを示していた。彼は、何かを待っているのだろうか? あるいは、何かに備えているのだろうか?
時間が、一秒一秒、拷問のように長く感じられる。早く夜が明けてほしい。明るくなれば、この息詰まるような不安も少しは和らぐかもしれない。郷田が、何事もなかったかのように、いつもの尊大な態度で、「ほら見ろ、俺の言った通りだろ!」と笑いながら戻ってくるかもしれない。
しかし、同時に、夜が明けるのが怖かった。もし、彼が戻らなかったら? もし、石碑の規則が本物で、彼に恐ろしいことが起きていたら? それは、私たち残された者にとっても、絶望的な現実を突きつけられることを意味する。郷田のことは好ましく思っていなかったけれど、仲間が一人減るということは、それだけ私たちの生存確率が下がるということでもあるのだから。
やがて、遺跡の入口の方から、微かに空が白み始めているのが見えた。東の空が、灰色から徐々に薄紫色へと変わり始めている。夜明けだ。私は、固唾をのんで、入口の方を見つめた。冷たい朝の空気が、肌を刺す。
郷田は、まだ戻ってこない。
「…郷田の奴、まだ戻らねえのか」
最初に声を上げたのは、黒木だった。彼はゆっくりと目を開け、忌々しげに舌打ちをした。「勝手にうろつきやがって…朝帰りとは、いいご身分だな」
彼の言葉には棘があったが、その声の奥には、安堵と、そしてまだ消えない不安が混じっているように聞こえた。
「もう少し待ってみましょう。すぐに戻ってくるかもしれません」小野寺も目を覚まし、眼鏡をかけながら言った。彼もまた、内心では安堵しているのかもしれない。
陽菜と栞も起き出し、不安そうな顔で顔を見合わせている。「大丈夫かな、郷田さん…」「森で何かあったんじゃ…」
私たちは、それぞれの不安を胸に、郷田の帰りを待った。しかし、時間は無情に過ぎていく。太陽は完全に昇り、遺跡の中にも明るい光が差し込んできた。小鳥のさえずりさえ聞こえてくるような、穏やかな朝。なのに、彼の姿は一向に見えない。
「…おかしいな。いくらなんでも遅すぎる」黒木の眉間の皺が深くなる。「あの野郎、森で迷ったか? それとも、崖からでも落ちたか?」
「探しに行きましょう!」陽菜が、心配そうに提案した。「もし怪我でもしていたら大変です! 放っておけませんよ!」
「そうですね…」小野寺も同意する。「昨夜、彼は遺跡の奥の方へも向かったように見えました。そちらも確認してみる必要がありそうです。聖域に足を踏み入れた可能性も…」
彼の言葉に、私たちは石碑の規則を思い出し、ぞくりとした。
私たちは手分けして、郷田を探し始めた。黒木と海斗が、昨夜郷田が向かったと思われる森の方向へ。私と小野寺、陽菜、栞は遺跡の中と、彼が足を踏み入れたかもしれない遺跡の奥まった区域を捜索することになった。
遺跡の中は広く、複雑だ。崩れた通路や、暗い小部屋も多い。私たちは郷田の名前を呼びながら、注意深く探索を進めた。
「郷田さーん! いませんかー!」
「聞こえたら返事をしてくださいー!」
しかし、いくら呼びかけても、返ってくるのは自分たちの声の不気味な反響だけだった。小野寺が「聖域かもしれない」と推測していた遺跡の奥まった一角も調べてみた。そこは、他の場所よりも空気が澄んでいて、壁には特に緻密なレリーフが施されている、特別な場所のように感じられた。地面には、昨夜のものと思われる新しい足跡がいくつか残っていた。やはり、郷田はここに来たのだ。
「郷田さん! ここにいるんですか!?」
私たちは必死に呼びかけたが、何の応答もない。彼の姿はどこにも見当たらない。ただ、冷たい石壁と、静寂があるだけだった。
「ここにはいないようですね…」小野寺が、険しい顔で呟いた。「しかし、足跡がある以上、昨夜ここに来たのは間違いない。彼は一体どこへ行ったというのでしょう…」
栞はすっかり怯えてしまい、私の腕にしがみついて震えている。「怖い…郷田さん、どうしちゃったの…? 石碑の…罰が当たったの…?」
「大丈夫だよ、きっとすぐに見つかるから」私はそう言って栞を励ましたが、自分自身の心臓も恐怖で激しく波打っていた。石碑の罰…その可能性が、頭から離れない。
一時間ほど捜索を続けたが、郷田の痕跡は、あの足跡以外、全く見つからなかった。諦めて拠点に戻ると、森へ探しに行っていた黒木と海斗も戻ってきていた。彼らの表情も、同様に暗かった。
「どうだった?」私が尋ねると、黒木は苛立たしげに首を横に振った。
「ダメだ。森の中も探し回ったが、影も形も見当たらねえ。あの甘い実がなる木の周辺も調べたが、食い散らかした跡もねえ。あのデブ社長、狐にでも化かされたみてえに、忽然と消えやがった…」
全員が拠点に集まり、重苦しい沈黙が流れた。郷田はどこへ行ったのか? 森で獣に襲われた? 遺跡の中で迷って出られなくなった? それとも…やはり、石碑の規則を破った「罰」として、この島から「消され」てしまったのか?
皆の頭の中に、その最悪の可能性が浮かんでいたが、誰もそれをはっきりと口に出そうとはしなかった。それを認めてしまうことが、あまりにも恐ろしかったからだ。
「…まさかとは思うが…」
沈黙を破ったのは、小野寺だった。彼は、震える声で、しかし何かを確認しなければならないという強い意志を持って言った。
「彼の…寝床を確認してみませんか? もし、彼が単にどこかへ行っただけなら、彼の荷物は残っているはずです。しかし、もし…」
彼の言葉は途中で途切れたが、その意味するところは、私たち全員に痛いほど伝わった。
私たちは、互いに顔を見合わせ、意を決して、郷田が昨夜まで寝床として使っていた、ホールの隅の一角へと向かった。そこには、彼が枯葉を敷き詰めて作った、粗末なベッドがあったはずだ。そして、彼の数少ない持ち物――着替えの入った小さなボストンバッグ、彼が自慢していたスイス製の高級腕時計、ポケットナイフ、そして、彼が最後に口にした木の実の残りが入った袋などが、置かれていたはずだ。
しかし、私たちがそこに見た光景は、私たちの最後の希望的観測すら、無慈悲に打ち砕くものだった。
郷田が寝ていた場所には、ただ、わずかに人型のくぼみが残っているだけだった。敷き詰められていた枯葉も、彼の体温が残っていたはずの温もりも、全てが綺麗さっぱりと消え失せている。そして、彼の荷物…ボストンバッグも、腕時計も、ナイフも、木の実の袋も、彼が昨夜まで身につけていたはずの服の切れ端一つすら、何もかもが、文字通り、跡形もなく消え去っていたのだ。
まるで、郷田拓也という人間が、昨夜までここに存在したという事実そのものが、この世界から完全に消去されてしまったかのように。
「…………」
誰も、声を発することができなかった。あまりの異常事態に、息をすることすら忘れてしまったかのようだった。目の前で起きていることが、現実のことだとは到底思えなかった。
「嘘…でしょ…?」
最初に声を絞り出したのは、陽菜だった。彼女は顔面蒼白で、信じられないといった表情で、口元を押さえている。「だって…昨日の夜、確かにここで…郷田さん、寝てたのに…荷物だって、ちゃんとここに…」
「痕跡が…全くない…!」小野寺も、眼鏡の奥の目を見開き、愕然としている。「寝床の枯葉まで…持ち物も全て…! これは…ありえない…! 我々の知る物理法則を、完全に無視している…! まさに…『消失』だ…!」
「消えた…本当に…消えやがった…」黒木も、さすがに動揺を隠せない様子で呟いた。彼の顔からは、いつもの皮肉な笑みは消え、恐怖と混乱の色が浮かんでいる。「あの規則は…石碑の警告は…本物だったんだ…! あの野郎…自業自得とはいえ…」
石碑の規則。
『陽が昇る前、聖なる場所に足を踏み入れることなかれ』
『島の恵み、独り占めすることなかれ』
郷田は、昨夜、その両方を破った可能性が高い。そして、その結果が、これなのか…? 彼の存在そのものが、この世界から抹消されるという、あまりにも恐ろしく、そして不可解な罰。
私は、背筋が凍るような恐怖に襲われ、立っていることすらできなくなりそうだった。「消えた」という言葉では生ぬるい。これは、もっと根本的な、「存在の抹消」だ。人間の痕跡が、持ち物も含めて、完全に消え去るなんてことが、許されていいはずがない。
吐き気がこみ上げてくる。目の前の光景が、ぐにゃりと歪んで見える。これが、この島の正体なのか? 私たちは、こんな恐ろしい法則が支配する場所に、閉じ込められているのか? 生贄として、順番に消されるのを待つだけの存在なのか?
「…全員、気を引き締めろ」
その時、静かだが、有無を言わせぬ強い声が響いた。海斗だった。彼は、他の誰よりも冷静に、目の前の現実を見据えているようだった。その瞳には、驚きや恐怖よりも、むしろ「やはりこうなったか」というような、諦観に近い色が浮かんでいるようにさえ見えた。
「これは遊びじゃない。感傷に浸っている暇はない。郷田が消えた理由は分からない。だが、我々も同じ運命を辿らないという保証はどこにもないんだ」
彼の言葉は冷徹に聞こえたが、そのおかげで、私はかろうじてパニックに陥るのを踏みとどまることができた。
そうだ、今は恐怖に震えている場合じゃない。郷田の消失は、この島が本当に危険な場所であることを、動かしがたい事実として証明した。私たちは、生き残るために、もっと慎重に、そして賢くならなければならない。石碑の規則を、軽んじてはいけないのだ。
しかし、郷田の「完全な消失」は、私たちの心に、拭い去ることのできない恐怖と、そして新たな疑念の種を植え付けずにはいなかった。
人間の仕業ではありえない、あの消え方。では、誰が、あるいは何が、郷田を消したのだろうか? 石碑に書かれていた「規則」そのものが、意志を持って罰を下した? それとも、この島自体が、私たちを贄として求める、邪悪な存在なのだろうか?
あるいは…もしかしたら、私たちの中に、この島の法則を理解し、利用している者がいるのではないか? 海斗…彼はなぜ、あんなにも冷静でいられるのだろう? なぜ、この事態を予測していたかのような態度を見せるのだろう? 彼は、何かを知っているのではないか? 郷田の消失も、彼にとっては想定内の出来事だったのでは…?
いや、そんなはずはない。彼は私を助けてくれた。彼の瞳は、嘘をついているようには見えない。信じたい。でも…。
恐怖は、人を疑心暗鬼にさせる。郷田の消失という最初の悲劇は、私たち残された生存者の間に、見えない壁を作り、互いを疑い、恐れるという、新たな悪夢の始まりを告げていたのだ。それは、まるで静かな毒のように、私たちの心を少しずつ蝕んでいくのだろう。
拠点のホールに差し込む朝の光は、暖かくも明るくもなく、ただ、私たちの絶望的な状況と、拭いきれない恐怖、そして互いへの不信感を、冷ややかに、そして無慈悲に照らし出しているだけだった。