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第十五話:魂を試す回廊

黒木の姿をした憎悪の残留思念が、獣のような速さで私たちに襲いかかってきた。その虚ろな瞳には、もはや理性のかけらもなく、ただ純粋な破壊衝動と、私たちへの底知れない怨念だけが渦巻いている。手にした鋭利な石が、鈍い凶器の光を放ちながら、海斗の喉元を狙って突き出される。


「くっ!」


海斗は、間一髮でその攻撃をかわし、身を翻して距離を取った。彼の動きは、極度の疲労と飢餓状態にあるとは思えないほど俊敏だった。私を守るという強い意志が、彼の限界を超えた力を引き出しているのかもしれない。


「秋穂、離れていろ!」彼は、私に鋭く指示を飛ばしながら、再び黒木の幻影と対峙する。


私は、言われた通り、震える足で数歩後退し、神殿の巨大な石壁に背を預けた。心臓が激しく波打ち、呼吸が浅くなる。目の前で繰り広げられる死闘を、ただ見守ることしかできない自分の無力さが、歯がゆくてたまらない。しかし、今の私が下手に手出しをすれば、海斗の足手まといになるだけだ。私は、ポーチに入った石の人形を強く握りしめ、二人の戦いの行方を固唾をのんで見守った。


黒木の幻影の攻撃は、生前の彼とは比較にならないほど、速く、重く、そして執拗だった。まるで、彼の憎悪そのものが、物理的な力となって振るわれているかのようだ。鋭利な石が、風を切る音を立てて何度も海斗に襲いかかる。海斗は、それを巧みにかわし、時には腕で受け止めながら、反撃の機会を窺っている。しかし、彼は決して、決定的な反撃をしようとはしない。まるで、相手の正体が黒木の残留思念であることに、どこかで躊躇いを覚えているかのように。


「どうした、篠宮! それがてめえの実力か!」黒木の幻影が、嘲るように叫ぶ。「俺への罪悪感でもあるのか? それとも、この小娘が見てるから、手加減でもしてるのか!?」


「黙れ!」海斗が、初めて怒りの感情を露わにして叫んだ。「お前はもう、黒木ではない! 彼の憎しみに取り憑かれた、哀れな抜け殻だ!」


「何とでも言え!」幻影は、さらに攻撃を激化させる。「俺は、お前らをここで殺す! そして、お前らの魂ごと、この神殿の闇に引きずり込んでやる!」


激しい攻防が続く。石と石がぶつかり合う甲高い音、荒い息遣い、そして地面を蹴る音が、神殿前の広場に響き渡る。どちらも決定的な一撃を与えられず、戦いは膠着状態に陥っているように見えた。しかし、体力では圧倒的に海斗が有利なはずなのに、彼の表情には徐々に焦りの色が見え始めていた。相手は、憎悪のエネルギーだけで動く存在。疲労を知らない。このままでは、いずれ海斗の方が消耗しきってしまうだろう。


どうすればいい? 私に何かできることはない?


私は必死に考えた。相手は、黒木の憎しみが実体化したもの。ならば、物理的な攻撃だけでは倒せないのかもしれない。何か、別の方法が…?


その時、ふと、小野寺のノートにあった言葉が頭をよぎった。「執着は多様…」。黒木の幻影を動かしているのは、私たちへの憎悪という「執着」だ。ならば、その執着そのものを断ち切ることはできないだろうか?


私は、意を決して叫んだ。

「黒木さん! もうやめて! あなたが憎むべきは、私たちじゃないでしょう!?」


私の声に、黒木の幻影の動きが一瞬、止まった。その虚ろな目が、私の方に向けられる。

「…なんだと…?」


「私たちを恨んでも、あなたは救われない! あなたをこんな姿にしたのは、私たちじゃない! この島そのものでしょう!? この島の非情なルール、私たちをここに閉じ込めている『何か』でしょう!? 私たちだって、あなたと同じ被害者なんだ!」


「黙れ!」幻影が、再び憎悪の表情を浮かべて叫ぶ。「お前らが…お前らさえいなければ、俺は…!」


「違う!」私は、さらに強く叫んだ。「あなたが本当に憎むべきは、あなた自身の心の中にあったはずだ! 他人を信じられなかった弱さ、自分の欲望を優先してしまった過去の後悔! それらから目を逸らし、私たちに責任を転嫁しているだけじゃない!」


私の言葉は、彼の最も触れられたくない部分を突いたのかもしれない。黒木の幻影の体が、激しく震え始めた。その顔には、憎悪と共に、苦悩と、そしてわずかな動揺の色が浮かんでいた。

「う…うるさい…! 俺は…俺は悪くねえ…!」


「黒木!」海斗が、その隙を逃さず、鋭く呼びかけた。「思い出せ! お前が本当に求めていたものは何だ!? 金か? 力か? それとも…ただ、誰かに認められ、信じられたかっただけじゃないのか!?」


海斗の言葉は、まるで呪文のように、黒木の幻影の動きを鈍らせた。彼の虚ろな瞳に、一瞬だけ、生前の黒木が持っていたかもしれない、孤独や渇望のような、人間らしい感情の揺らめきが見えた気がした。


「俺は…俺はただ…」幻影は、何かを言いかけたが、その言葉は途中で途切れた。彼の体が、再び激しく震え始め、その輪郭が、まるで陽炎のように揺らぎ始めたのだ。


「まずい!」海斗が叫んだ。「憎悪のエネルギーが不安定になっている! 暴走するぞ!」


次の瞬間、黒木の幻影の体から、黒い靄のようなものが、断末魔の叫びと共に噴き出した。そして、その体は急速に形を失い、まるで風に吹き消される蝋燭の炎のように、跡形もなく消え去ってしまった。後には、彼が持っていた鋭利な石だけが、カタン、と音を立てて地面に転がった。


「…………」


呆然と立ち尽くす私たち。黒木の憎悪の化身は、自らの内なる矛盾によって、自壊したのだろうか? それとも、私たちの言葉が、彼の執着をわずかに揺るがし、存在を維持できなくさせたのだろうか? 真相は分からない。ただ、最後の障害は、去った。


「…行こう」海斗が、荒い息を整えながら言った。「もう、時間がない」


私たちは、互いの無事を確認し合うと、改めて神殿の巨大なアーチ状の入口を見上げた。その奥は、依然として深い闇に包まれ、私たちを待ち構えているかのようだ。


意を決して、私たちは神殿内部へと足を踏み入れた。外の光はほとんど届かず、中はひんやりと薄暗い。湿った苔の匂いと、古い石の匂いが混じり合った、独特の空気が漂っている。天井は高く、私たちの足音や呼吸音が、不気味なほど大きく反響する。壁や柱には、やはり複雑怪奇なレリーフや文字がびっしりと刻まれており、それらが松明の灯りに照らされて、まるで無数の目が私たちを監視しているかのように見えた。


私たちは、警戒しながら、奥へと続く回廊を進んでいった。回廊は、迷宮のようにいくつにも枝分かれしており、どちらへ進むべきか迷う。しかし、海斗は、まるで道を知っているかのように、迷うことなく特定の通路を選んで進んでいく。

「どうして道が分かるの?」私が尋ねると、彼は「…空気の流れと、壁の刻印のパターンで、おそらく中心部へと向かう道が分かる」とだけ答えた。彼が、私に隠している知識は、まだまだたくさんあるのだろう。


回廊を進むにつれて、周囲の空気がさらに重く、冷たくなっていくのを感じた。そして、どこからともなく、低い囁き声のようなものが聞こえ始めたような気がした。それは、風の音なのか、それとも、この遺跡に囚われた魂たちの声なのか…。


突然、海斗が立ち止まり、険しい表情で前方を睨んだ。「…来るぞ」

「え?」


彼がそう言った瞬間、目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。そして、私たちの周囲の景色が、急速に変化し始めたのだ。石造りの回廊は消え去り、代わりに現れたのは…!


私にとっては、大学の入学試験の会場だった。不合格通知を突きつけられ、落胆する両親の顔、そして「やっぱりダメだったね」と囁き合う友人たちの声。あの時の絶望感、自己嫌悪、将来への不安が、生々しく蘇ってくる。「お前は何をやっても中途半端だ」「期待外れだ」という声が、頭の中で繰り返し響く。心が、押し潰されそうになる。


海斗にとっては、あの雨の夜の事故現場だった。対向車の眩しいヘッドライト。ガラスの砕ける音。血に濡れてぐったりとしている私の姿。「俺がもっと注意していれば…」「俺のせいで秋穂は…!」。激しい後悔と自責の念が、繰り返し彼を襲う。彼は、苦悶の表情で頭を抱え、呻き声を上げている。


「これは…幻覚…!?」私は、かろうじて叫んだ。

「ああ…!」海斗も、苦しげに答えた。「神殿の試練だ…! 俺たちの精神に直接干渉し、過去のトラウマや執着を増幅させているんだ!」


これが、神殿の最初の試練。私たちの心の最も弱い部分、最も触れられたくない記憶を抉り出し、精神を破壊しようとしてくるのだ。私たちは、この内なる闇との戦いに打ち勝たなければ、先へは進めない。


「負けるな、秋穂!」海斗が、幻覚の中でもがく私に向かって叫んだ。「これは現実じゃない! 過去の幻影だ! 目を開けろ! 前を見るんだ!」

彼の力強い声が、私の意識を現実に引き戻そうとする。そうだ、これは幻だ。過去は変えられない。でも、未来は…!


私は、必死に幻覚に抵抗した。「私は、もうあの時の私じゃない! 私は、前に進むんだ!」

心の奥底から叫ぶと、目の前の景色が、再びぐにゃりと歪み始めた。大学の光景が薄れ、元の石造りの回廊が姿を現し始める。


海斗もまた、苦しみながらも、必死に幻覚と戦っているようだった。「俺は…後悔しない! 秋穂を守る! それが、俺の選んだ道だ!」

彼の叫びと共に、彼の周りの事故現場の幻影も消え去っていった。


私たちは、互いに支え合い、励まし合いながら、なんとか最初の試練を乗り越えた。全身には冷たい汗が流れ、呼吸は荒く、精神的な疲労は計り知れない。しかし、互いの弱さや過去の痛みを垣間見たことで、私たちの間の絆は、より一層強く、そして深まったような気がした。


この試練は、単なる妨害ではない。おそらく、私たちの魂が「解放」に値するかどうかを試すための、必要なプロセスなのだ。私たちは、自分自身の内なる闇から目を逸らさず、それを受け入れ、乗り越える強さを示さなければならない。


回廊の奥からは、さらに冷たく、重い空気が流れてきている。次の試練が、私たちを待ち構えているのだ。私たちは、息を整え、互いの目を見て頷き合うと、再び、暗い回廊の奥へと足を踏み出した。真実への道は、まだ遠い。

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