悲しみは優しさを与えて
ひとしきり泣いた後だった。泣き疲れてぼーっとしていたとき、ベッドの上に放り投げられていたケータイが、命を取り戻した様に、急に光だした。正直、このタイミングで話はしたくなかった。しかし、誰からの電話か気になった。私はしぶしぶベッドまで這っていき、ケータイを手にした。
電話は案の定、ニシムラからだった。
「よう。お前、また泣いてんだろ」
「泣いてない」
どうして、この男はいつもカンが良いのだろう。私の彼氏でもないくせに。枯れてしまった私の声を聞けば、私が泣いていたことなど、すぐにわかってしまうだろう。しかし、ニシムラは、そうか、とだけ言っていつもの様にどうでもいい話を始めた。ドアに指が挟まったとか、近所のガキに馬鹿にされてキレかけたとか、この頃ヤケに黒猫を見るとか、本当にどうでもいい話。
「どうせ明日は暇なんだろ?それならどっか飲みに行かないか」
「なんで私が明日暇って決めつけるのよ」
「お前、こういうときはいっつも学校休んでんじゃん。高校のときからずっとさ」
「そうだっけ」
事実、その通りだったのだけど、素直に認めるのも嫌だったので知らないフリをした。その後ニシムラは、明日の10時にいつものとこで、とだけ言ってケータイを切った。
どうにか目の腫れもおさまったので、私はいつものバーへと向かった。少し距離があるのだけど、なんとなく歩きたい気分だった。途中で小雨が降りだした。私はバッグから折りたたみ傘を取り出し、それを夜空へ向かって開いた。歩いていくうちに子供の頃を思い出し、何だか楽しくなってきた。私は静かな夜の雨道を、少しはしゃぎながら小走りした。
「おいおい、待ちくたびれたぞ。ていうか、なんでそんなに息切らしてんの?」バーに着くと、ニシムラは既に来ていた。この雨のためか、客はニシムラと私だけだった。
「走ってきたのよ。途中で雨が降ってきたから」
「でも、お前傘持ってるだろ」
「細かいこと気にしないでよ。あ、マスター。甘めのカクテルでなんかいいのある?」
マスターはにっこりと頷き、棚から傘の絵が描いているボトルを取り出し、氷を準備し始めた。ニシムラは既にバーボンを飲んでいた。何を飲んでいるの、と聞くと、無言でグラスをよこしてきた。
「うーん、美味しいのはわかるんだけど。名前までは分かんない」
「アーリータイムズ。わりとメジャーなバーボンだよ」
「へぇ」
軽く頷いた後は、静かに沈黙が空間を支配した。しかし、それは苦痛ではなかった。雨音、ニシムラのバーボンを飲む時の氷の音、マスターがグラスにボトルを注ぐ音が空間を満たし、アンサンブルを奏でている。
「どうぞ」
アンサンブルに浸っていると、マスターがグラスを差し出していた。そのグラスには、静かで穏やかな海を連想させる、深いブルーの液体がそそがれていた。
「……綺麗。ねぇ、マスター。このカクテルは何ていう名前なの」と聞くと、マスターは、明日はもう来ない、と呟くように言った。
「え?」
「だから、カクテルの名前だよ。明日はもう来ない。それがそのカクテルの名前さ」
「『明日はもう来ない』、か……。このカクテルを作った人は悲観主義者なのかしら」
「いや、ただの皮肉屋さ。一口飲んでごらん。それが答えだよ」
マスターが勧めてきたので、私は訝しげに一口だけ、グラスに口を付けた。
「……軽くて、フルーツの香りがする。これ、とても美味しいわ。」
マスターを見ると、そうだろ? とでも語りかけてくるような瞳で私を見つめていた。
「これは私の解釈なんだけどね。身近にありすぎるモノはその価値を忘れやすいんだよ。そこに有って当たり前。これって一種の甘えだよね。特に日頃触れている、日常ってやつは特に、さ。だからこのカクテルを作った人は、今有るものは次の瞬間には壊れてしまうかもしれない。あって当たり前ではないということを伝えようとしてるんじゃないかと思うんだよ。よく考えて見れば、あって当たり前のもの程、大切でかけがえのないモノは無い。明日が来ることは当たり前ではない。明日はもしかしたら来ないかもしれない、と思わせることで、今という時間を大切にしなさいといってるんじゃないかな」
「もしかしたら、そうかもしれないね」
「そうさ。君にとって言うなら、彼みたいな存在だね」とマスターはニシムラに目配せした。ニシムラはアルコールが回ってきたのか、カウンターによたれかかっている。
「もう酔ったの? 今日は随分と早いのね」
ニシムラは私の言葉に反応したのか、まだ酔ってないと呟いたが、しばらくもしないうちにそれは寝息へと変わっていた。
私はどうしようもないのでニシムラを抱えてバーをあとにした。マスターがにこやかに私達を見送った後、二人でタクシーに乗り込んだ。
「……あのさぁ」
「何よ」
タクシーに乗り込んで少ししてから、ニシムラが口を開いた。
「もう落ち込むようなことはよしてくれよ。なんか、こっちまで落ち込んじまうからさ」
「私だって好きで落ち込んでいる訳じゃないわよ」
「それは分かるけどさ…」ニシムラはそう呟き、目をつむり、深く息を吐いた後は何も言わなかった。
いや、言いたいことは他にもあるだろう。しかし、あえて口には出さないだけなのだ。そういえば、ニシムラはそういう男であるのを、私は思い出した。たとえ何があろうと、困ったような笑顔でごまかす。ニシムラの両親が亡くなった時も、泣きじゃくっていたのは私で、彼はその時も困ったような顔をしてずっと私の肩を抱きしめてくれた。どんなに辛いことがあっても、ニシムラはそれを表に出さないのだ。
私は、ニシムラの強さを初めて理解したような感じがした。少しだけだけど。
「ねえ、ニシムラ」
「うん?」
「…ありがとう」
「…どういたしまして。少しは元気が出てきたか?」とニシムラは軽く微笑んで問いかけてきた。私はそれには答えず、だまって彼に肩をもたれかかった。ニシムラも何も言わなかったが、おそらく私の言いたいことは通じただろう。もう長いことニシムラとは一緒にいるのだから。
明日はもう来ない、か。
私はそのカクテルの名前を口ずさみ、まだ見ぬ明日に想いを馳せた。その明日はおそらく、これまでとは変わったものになるだろうと思いながら、私は瞳を閉じた。