Ⅴ:新たな戦いの始まり
ロレンスとの対面を終えたイザベルは、重い足取りで廊下を進んでいた。
冷たい言葉、感情のない瞳――彼の表情が何度も頭の中で反芻される。
その度に、怒りと苦悔が彼女の心を締めつけ、手の震えを抑えられなかった。
(変わっていない。やっぱり彼は、私を利用する気なんだ)
その確信が心を覆う。ロレンスが純粋に彼女を想っているはずがない。
前世で彼女を見下し、命を奪おうとした彼が、今さら彼女のために何かを変えることなど、到底ありえないのだ。
自室に戻ると、イザベルは深い息をつき、窓際の椅子に腰を下ろした。
光が柔らかく差し込む部屋は静かで、まるで外の世界は平穏そのものに見える。
しかし、その静けさが余計に彼女の心を騒がせた。まるで外の世界が、自分の内なる混乱を理解していないかのようだった。
イザベルは自分の手を見つめた。何かを掴むには力が足りない気がした。
彼女はかつて、ロレンスを信じていた――彼の笑顔に、優しさに。
だが、その記憶は遠い幻のようだ。
(彼は…いつから変わってしまったのかしら。いや、最初から彼は私よりもっと私に詳しくて、私の力に気付いていて…なんて、考えるだけでも恐ろしいわね)
その問いの答えは、どれだけ考えても見つからなかった。
結局婚約した時の彼がどうであっても死ぬ前のあの時、彼は彼女を道具としてしか見ていなかった。
――――それだけは変わらない事実だった。
控えめなノックの音が部屋に響く。
思考を中断され、イザベルは一瞬、扉の方を見た。
「お嬢様、公爵様がお呼びです」
使用人の冷たい声が扉越しに聞こえる。
しかし以前と違い、ノックをして待つその姿勢に、イザベルは微かな違和感を覚えた。
返事を待たずに部屋に入ってくるような無礼な態度は、少なくとも今回は見られなかった。
「わかったわ。知らせてくれて、ありがとう」
淡々とした声で返し、イザベルは心を落ち着ける。
使用人を下がらせた後、彼女は心の中で覚悟を決めた。
お父様――公爵家当主との対面は避けられない。
そして、父もまた彼女を道具として見ている一人であることを、彼女は理解していた。
彼女は静かに立ち上がり、部屋を後にした。
かつての自分なら、ただ従順に命じられたままに進むだけだったかもしれない。
しかし、今の彼女には強い決意がある。公爵に対しても、自らの意志を貫かなければならない。
――――――
公爵の執務室に入ると、そこには彼の厳格な背中が見えた。
大きなデスクの後ろで、重厚な書類に目を通している。その姿は相変わらず冷たく、無機質で、家族の情など微塵も感じられない。
昔はそんな大きな背中に憧れ、公爵家のために激務をこなしていた父を尊敬していた。
「ロレンスと話をしたと聞いている」
公爵は書類から顔を上げることなく、低く響く声で言った。
その声には、彼女への感情など一切含まれていない。ただ事務的に報告を求めるだけの調子だ。
イザベルは冷静に答える。
「婚約について、少しお時間をいただきました」
その言葉に、ようやく公爵は書類から目を離し、イザベルを冷たく見つめた。
その目には苛立ちが浮かび、無駄を嫌う彼の性格がそのまま表れていた。
「時間だと?お前にそんな余裕があると思っているのか。ロレンスとの婚約はこの家のために最優先事項だ。お前に選ぶ権利などない」
その冷淡な言葉に、かつての従順な自分が反射的に表れそうになる。
だが、イザベルはそれを抑え込み、父をしっかりと見返した。彼女の人生は、もう他人のために犠牲にされるものではない。
「お父様、私は公爵家の娘です。家のために私が役立つべきだということはもちろん理解しています。けれど、私にも意見を述べる権利はあるはずです。例えば…その婚約が家に利益をもたらさなければ意味がないでしょう?」
公爵の目が一瞬驚きで見開かれたが、すぐに冷笑に変わった。
「生意気なことを言う。家のために必要な婚約に反対する権利はない。お前が思うほど、私も無能ではない。ロレンスとの婚約は家にとって不可欠だ。お前がどう考えようが、ロレンスとの婚約が一番の利益に繋がる」
公爵の言葉は、鋭い刃のように彼女の胸に突き刺さる。
それでも、イザベルは一歩も引かなかった。かつてならば父の言葉に従い、何も言い返せなかっただろう。
しかし今は違う。彼女は自らの未来を、自らの手で決めると心に誓っていた。
「お父様の考えはわかりました。…お言葉ですが、最終的に私の人生は私が決めます。私は自分の意志で未来を選びます。もちろんただでとは言いません、認めていただけるよう結果を残してみせますわ。」
彼女の言葉には、かつての弱々しい娘の姿はない。
公爵の視線を受けながらも、彼女の心は強く揺るがなかった。
「くだらん。お前はここ最近、グレタにも反抗しているそうだな。恩知らずの娘に育てた覚えはないが、そんな生意気な態度ではこの家で生き残れんぞ。世間知らずがあまり調子に乗るな」
彼の厳しい言葉に、イザベルは無言で頭を下げ、そのまま部屋を後にした。
廊下を歩きながら、彼の冷たさがどこか遠く感じられた。
「いいわ、お父様。貴方はそのままで居て。私は私の力で、全てを覆して見せるの…絶対に」