Ⅳ:動き出す時
静かな午後の光が、イザベルの部屋を柔らかく包んでいた。
彼女は書斎の窓辺に腰を下ろし、外の風景をぼんやりと眺めていた。
手入れの行き届いた庭園の美しさも、今の彼女にとっては単なる幻のようにしか感じられない。
(今私に必要なのは…味方。でも、簡単に信じられる人なんているの?)
誰を信じるべきか――かつて無条件に信じたロレンス、カトリーヌ…
彼らは皆、彼女を裏切った。イザベルは胸の奥で沸き起こる不安を感じた。
裏切りに対する恐れが心の奥に重くのしかかる。
だが、もう一度従順な自分に戻るつもりはなかった。
強くなると決めた今、誰にも再び利用されるわけにはいかない。
その時、控えめなノックが響いた。返事を待たずに、使用人が無遠慮に顔を覗かせる。
何の挨拶もなく、ただ命令を伝えるだけのその態度は、イザベルがかつてどれほど軽んじられてきたかを象徴していた。
「お嬢様、ロレンス様がこちらにお越しです。公爵様がお呼びです」
イザベルは内心で深く息をついた。
ロレンス――彼女の元婚約者であり、裏切り者。
彼の名前を聞いた瞬間、全身に冷たい感覚が広がり、胸の中に抑えきれない感情が湧き上がった。
使用人がその場を立ち去ろうとした時、イザベルは冷たい声で呼び止めた。
「待ちなさい」
その瞬間、使用人は動きを止め、驚いたように振り返った。
イザベルは冷静な表情を保ちながらも、視線は鋭かった。
「あなた、私が公爵家の一員だということを忘れているようね」
「え、お、お嬢様…?」
しどろもどろになっている使用人の姿に、イザベルは冷静な顔のまま続けた。
「二度と、そのような無礼な態度をとらないで。分かったかしら?」
「し…失礼致しました」
その言葉を聞いて、使用人は慌てて退室した。
しかし、イザベルは分かっていた。彼女が今、使用人に逆らえば、必ずそのことはお継母様に報告される。彼女の立場は依然として危うい。やがてお継母様の逆鱗に触れることは、避けられないだろう。
(きっと…お継母様の耳に入るわよね。ああ、うんざりする)
イザベルはその覚悟をしながらも、深く息をつき、冷静さを保とうとした。
――――――
少ししてから、イザベルは準備を整え、応接室へ向かった。
そこには、ロレンスが待っていた。彼は背が高く、鋭い目つきをしている。
その無表情な顔に、かつて彼女に見せた優しさの痕跡は感じられなかった。
(…変ね)
彼女の胸に蘇るのは、ロレンスと過ごした幸せな思い出。
婚約の話が初めて出たとき、彼女は心から喜び、彼との未来を夢見ていた。
式の準備にワクワクしながら、彼と婚約指輪を選びに行った日のこと。
ロレンスが贈ってくれた花や、優しい言葉に胸が高鳴り、彼の笑顔に安心を覚えた。
彼がそばにいるだけで、イザベルの未来は明るいと信じて疑わなかった。
しかし、その幸せな時間は短かった。
婚約が成立した後から、彼の態度は次第に冷たくなり始めた。
彼女が問いかけても、無視されることが増え、愛情を感じることが少なくなっていった。
彼女の夢見た未来は、一瞬で色を失い、冷たい現実に変わっていった。
(婚約さえまだ成立していないのに、まるで私が死ぬ前と同じ表情をしている)
ロレンスは既に彼女を見下すような態度を取っていた。
それは、彼が以前見せた愛情とはまるで異なるものだった。
婚約前であるはずの今、どうして彼がこんなにも冷たいのか――その違和感が彼女の胸を締めつけた。
「久しぶりだな、イザベル」
ロレンスが口を開く。
その声には冷たさがこもっていたが、彼の視線には何かを探るような色が見え隠れしている。
彼が何を考えているのか、イザベルにはまだ掴めない。
「ええ、久しぶりね」
イザベルは冷静に答えた。今は、彼の真意を探ることが重要だ。
「婚約について話がある。」
ロレンスの言葉に、イザベルは心の中で冷笑した。
かつての彼は、彼女の意志など一切尊重せず、自分の決定だけを押し付けてきた。
一体今回はどんな決定を伝えてくるのだろう。
「そう。どうぞ話してちょうだい」
イザベルは静かに答えたが、心の中では彼の一挙一動を注意深く観察していた。
ロレンスの顔には、愛情の痕跡は見当たらず、ただ冷徹な計画を進める冷たさだけが残っているように見えた。
「お前の意見を聞きたい。これからどうしたいのか、考えはあるのか?」
ロレンスの問いに、イザベルは一瞬考えた。彼が自分に意見を求めるなど、前世では一度もなかった。
彼は常に自分の意思を押し付け、彼女に選択肢を与えることなどなかった。
それが今、彼女に意見を求める?――何かが違う。
「…少し考えさせて。今すぐ答えを出すことはできないわ」
イザベルは冷静に返答した。焦って答えを出すべきではない。
彼の意図が完全に見えるまで、彼女は慎重に動くつもりだった。
ロレンスは短く頷き、無言で部屋を去っていった。
扉が静かに閉まると、イザベルはようやく息を吐き出した。
彼と対面するだけで全身に力が入り、気が張り詰めていた。
(やっぱりおかしい、話が逆行前のように進まない…?逆行の影響で何か現実に障害でも生じた?)
彼の言葉には、まだどこか違和感が残っていた。
――――――
応接室から戻る途中、イザベルは廊下でグレタお継母様と出くわした。
グレタの冷ややかな視線が、イザベルの全身をなめ回すように見つめている。
「イザベル、使用人から聞いたわ。お前ごときが指図をしたと?」
その言葉の冷たさに、イザベルは心の中で覚悟を決めた。
次の瞬間、グレタの手が勢いよくイザベルの頬を叩いた。痛みが走り、彼女はぐっと唇を噛みしめた。
「私に逆らうつもりなのかしら?お前はただの飾り、公爵家の名を汚すことは許されない」
グレタの言葉に、イザベルは怒りを抑え込みながら頭を下げた。
今はまだ、反抗する時ではない。