八時二十三分着の恋
毎朝、同じ電車に揺られて出社する。通勤ラッシュの時間帯は、ぎゅうぎゅう詰めにされるけれども苦にはならない。至福の時間だからだ。
いつもの電車に乗り込むと、真っ先にいつもの場所に向かう。誰にも譲りたくない所定の位置だ。
周囲には見慣れた学生にサラリーマン。実際は知らない人達ばかりだけれど、何度も同じ空間を共にしていると、知らないけれど知っているような不思議な気持ちを覚えてしまう。だけどそう感じる最たる理由は、きっとその景色に好きな人がいるからだろう。
車両の端の座席に深く腰かけて朝から眠そうな顔をしている、名前も知らないスーツ姿の男性。
そこがその人の定位置で、私はその人の前に吊り革を握って立つ。
いつも彼は俯いて眼鏡を直す仕草を見せたり、腕時計を何とはなしに眺めたり、週刊の漫画雑誌を読み耽っていたり、窮屈そうにビジネスバッグを抱えて眠っていたりする。前に立ってずいぶん経つけれど話をした事はない。
見ているばかりで一年が過ぎた頃には、彼の髪に白い色が交じり始めていた。気づいたのはそれだけではなかった。左手の薬指から指輪が無くなっていたのだ。彼の、既婚者であるだろう証が消えていた。その瞬間、私は思わず口を開きかけ、しかし咄嗟に噤んだ。
形として見える変化を垣間見ても、関係性が交差しない人には何の変化も及ぼさない。指輪が無くなっていても、それを包む可能性や期待は、私をどこかに連れて行ってくれるわけでも絆を結んでくれるわけでもないのだ。
けれど膝の上のビジネスバッグに添えられた彼の左手は何の飾り気もなくて、寂しそうだった。私は自身の足元を見るふりをして、彼の左手をそっと視界に入れた。
しばらくすると駅到着のアナウンスが車内に流れる。私は降りる準備を始めた。しかしそこで思いもよらない事態が起きた。
バッグを持ち直して出口の方へと体を向けたところで、彼が席を立とうとしていた。今までは降りる駅が違っていたのに、彼がバッグを持ち直してほんの少しだけ前傾の姿勢を見せる。
驚いた私は、電車がホームに滑り込んでいくそのゆったりとしたブレーキですら大きなものに感じて、ちょうど立ち上がった彼の肩口によろけた。
「すみません」
謝罪すると、彼が私を見ていた。
「いえ。大丈夫ですか」
声を初めて聞いた。想像よりも優しい声だった。
私はこの時、少しだけ交差したのだ、と思った。静かで穏やかなそれは起伏も何もなく、変化にはつながらない。ただ一瞬の世界にいただけで、再び交じることがないのも同時に理解した。
「……大丈夫です。すみません」
電車はダイヤ通りの到着時刻を迎える。
飾り気のない彼の左手は、いつもより鮮明に見えていた。その手首に捲かれた腕時計の文字盤すらよくわかる。
座席から立ち上がったこの人を初めて見上げた瞬間――八時二十三分、駅に到着。