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掌短編集  作者: おでき
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路上の花束

 早朝、家の近くの国道を隔てた先にある緑地公園へ向かう。いつも座るベンチが視界に入ると、そこには杖を両手で握りこみ、膝の間に立てている先客がいた。私は駆け寄った。

「おじいさん、おはよう」声をかけて、隣に座る。

「ああ、お嬢ちゃん、おはよう」おじいさんはゆっくりと顔を向けて、皺くちゃの顔で笑った。

 挨拶もそこそこに、おじいさんは喋りだした。時事から昔の話まで何でも飛び出してくる。そのうちいくつかは以前話題に出たものだが、おじいさんは初めて話すような素振りなので、私も初めて聞いたふうにしている。

 会話をしていると、白い息が空中に消えていくのがよく見える。それを眺めていれば、おじいさんが「そうだ」と口を開いた。

「今日は七草粥の日だね。七草、知ってるかい」

「雑草でしょ。それだけしか知らない」

 私の言葉に、目を細めたおじいさんは杖から片手を離し、指を折って言い始めた。

「セリ、ナズナ、スズナ、スズシロ、ゴギョウ……ああ駄目だ、指が足りない」

 五本の指を折りきってしまったおじいさんに、私は自分の右手を彼の目の前に突き出して、親指だけ折り曲げてみせた。

「ありがとう、お嬢ちゃん」おじいさんは私の指を見て、楽しそうに残り二つを付け足した。「ハコベラ、ホトケノザ……これで七草」

「それって、おいしいの?」折り曲げた親指と人差し指を元に戻し、尋ねてみる。

「お母さんが作ってくれるだけで、まずいとは言えなくなるものだよ」

「つまり、そういう味なわけか」

 私が言うと、おじいさんは苦笑して話を変えてしまった。

「野生というのは我々にとって身近なものだ。雑草は立派な薬草にもなるし、野花も束ねればそれは素敵なものになる。まるで路上に咲くのが嘘のようで……そう、路上の花束だ」

「……おじいさんって実は詩人?」

 すると彼の横顔は緩やかな皺を作った。「もう、お帰りなさい。詩人は、若い友人の朝ご飯が心配だ」

 彼に追い立てられるまま、私は「また明日」と挨拶してその場を去った。


 高校に入学して、クラスメイトの名前を全員覚える前に学校へは行かなくなった。一学期のうちに学校側も両親も私の登校については働きかけを諦めている。

 それから秋が来てしばらく経った頃だろうか。朝早く衝動的に家を飛び出した私は、公園でおじいさんに会ったのだ。一緒に話すうち、おじいさんが聞き上手だったのか、私が我慢の限界を迎えていたのか……私は触れたくもない家族の話をおじいさんにしていた。

 両親は娘のいろんな行動に文句も言わないが、理由も尋ねてこない。

 そう言うと、おじいさんは「皆のいるところに飾りなさい」と小さな花をくれた。どこにでも咲くありふれたものだったが、その日からおじいさんは花を用意してくれるようになった。私は半信半疑ながら言いつけに従い、ガラスの皿に浮かべてリビングに置くことを繰り返した。するとある日の朝、おじいさんと別れて帰宅すると、母親が玄関に立っていたのだ。

「おかえり。今日はお花のおみやげはあるの?」

 その時は、久しぶりの会話と、母親のどこか困ったような笑みに言葉がつまって何も返せなかった。それからは自室で食べていた食事をダイニングに変えた。いつの間にか、出社前の父親も食卓に座って家族三人で朝ご飯を食べるのも習慣となった。話題はいつも、おじいさんのことだ。外とのつながりが公園しかない私にとって、両親に話せる目新しい話題は、毎朝会うおじいさんとの会話しかない。それでも両親はぽつぽつとしか話せない私の話を忍耐強く聞いてくれる。私の話を聞いて、ときおり浮かべる優しい笑顔が嬉しかった。

 冬が訪れる頃にはおじいさんとの花のやり取りは消えたが、公園で会うことと、家族で囲む食卓は習慣化していた。


「それはね、花笑(はなえ)みというんだよ。花が笑うで、花笑み」

 厳しい寒さが続くある日のことだった。両親も私も笑うことが増えたと話すと、おじいさんはそう言った。

「花笑み? 童謡にもあった気がする。『おはながわらった』って」

 おじいさんは頷いた。「ええ、そう。花笑みというのはね、人が美しく微笑むこともいうし、開花することも指すんだよ」

「二つの意味があるのね」

 私もしきりに頷くと、おじいさんが言う。

「笑いなさい。美しい笑みは、人に幸せを運ぶよ」

「上手に笑えるかな」

 小さな呟きにも、おじいさんは答えてくれた。

「花咲くような笑みじゃなく、蕾でも結構。やることに意義がある」

 その言葉に後押しされ、帰ってから自分の部屋で練習した。でもうまく出来ない。明日「難しい」と、おじいさんに愚痴を言ってやろうと思った。しかし、それは叶わなかった。


 夕刊の地方版に、事件の概要が小さく載っている。今朝方、国道沿いでひき逃げが発生して、一人の老人が死んだという。認知症で徘徊癖があったと書かれていた。夜には警察が家に来た。今朝、そのひき逃げに遭った老人と最後に話したのは私であったと、犬の散歩をしていた近隣住民から証言が出たそうだ。

「少しだけ、お話きかせてくれる?」警察の人はそう言って、家に上がりこんだ。

 私は訳が分からなかった。体が震えて仕方ない。暖房のきいた室内なのに、どうしてこんなに震えているのか分からなくて、隣に座った母親の手をまるで小さな子供のように握っていた。


 数日後。

 犯人は捕まり、新聞記事では小さく扱われた。

 事故現場に行くと、道路の隅にお供えの花が横たわり、ペットボトルのお茶もそえられている。灰色のアスファルトの上のわずかな弔いは、私をくやしくてくやしくて仕方ない気持ちにさせた。

 しばらく何をするでもなく立ち尽くす。すると風が吹いた。肌を撫でるように通り過ぎていく。今度は強い風が吹いた。それに紛れて、ふと、ささやきが耳をかすめた気がした。周りの音に注意を払う。……そのとき、声がした。


 笑いなさい。


 風のなかの一瞬にまぎれた声。しかし確かに聞こえた。間違いようもなかった。私は口元に力をこめて頬を持ち上げてみせた。拍子に視界はぼやけていく。

 鏡がなくても分かる。ちっとも美しい笑みなんて出来ていやしない。なのに尋ねたかった。

「上手に笑えたかな」蕾を含んだ咲きかけの花束を路上に置いてつぶやく。

 声は聞こえない。

 けれど……風が吹いて、蕾がそっと揺れた。

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