柘榴の実は血に溶けたり
小さな頃から不思議な力があった。それが特別なものだと知ったのは十数年前、両親が離婚した小学生のときだった。
不仲となってからの両親は娘の前では口論せず、互いの存在を無視したような生活を送っていた。二人の言い争いは、もっぱら夜。子供が寝静まる時間帯を狙うように漏れ聞こえてくる真夜中の会話は、幼心をざわつかせたものだ。
今でも母親の言葉が耳に残っている。父との離婚が決まったとき、母はせいせいしたとばかりの口調で言っていた。
……あの子、ここに置いとく。気味悪いったらないのよ。
母は以前から家と私を忌み嫌っていたらしく、早々に新しい場所に移り住み、父が親権を持つことになった。しかし、もとより仕事ばかりの父と二人暮らしを始めても、父は母の言っていた意味が分からないようで、距離は置かれた関係でも私を毛嫌いすることはなかった。
だが、家を出た母だけは早くから気づいていたのだ。私が、家の裏庭にある柘榴の木と意思疎通できる力があることを。
柘榴の木は私に多くのことを話した。
たわいない日常会話をはじめとしてもうすぐ雨が降るといった天気から、近隣住民のだれそれが近く死ぬといった死期の予告まで、会話は多岐にわたった。特に予言めいた言葉は外したことがなく、私はすごいと思うこそすれ気味悪いと思わなかった。しかし母は違った。娘が一人で木に向かって喋り、木が下したという予言を口にするのを聞くうちに裏庭から遠ざかり、いつしか私と柘榴の木を異質なものとして排除しだしたのだ。
それでも私は柘榴が好きだった。私を抱擁するように枝をしならせ葉をめぐらせ、優しい声で甘やかしてくれる。柘榴の木だけが私に好意的だったというのもあるかもしれない。私が「好きだよ」と言って、青々とした葉に朱色の花を咲かす木肌を撫でれば、心地よい声で「私もお前を好いている」と告げてくれる。いつだって柘榴の木だけが味方だった。
むせ返るほどの土の匂いに立ち込める熱気。暑い季節に燃えるような色の花を咲かせる柘榴の木に、小さな頃から心を寄せるのも無理はない。
「私に会いに来ておくれ」
柘榴の木はそう言って、夕闇のなか部屋に戻ろうとする私に明日の約束をよく取り付ける。
私だけを求める声に肯定以外の返事など出来ず、そうして過ごすうち季節は何度も巡ってとうとう大学を卒業する年に至った。すると父は、自身の仕事先から私の結婚相手を用意した。
顔合わせをさせられた夜、私は真っ先に柘榴へ報告した。
「お前と離れるのは寂しい」柘榴がうめくように呟く。
葉が揺れる。愛しい人にするりと頬を撫でられるような感覚が走る。私は柘榴の木に両手で触れて身をあずけた。
「私もよ。おかしくて……どうにか、なりそう」誇張ではなく本心から、柘榴と別れたくないことを伝えたくてそう言った。
この手で触れられなくなる瞬間を思えば、身が引き裂かれるように辛くて仕方なかった。
秋になり、婚約と同時に父が体調を崩して倒れ、病院に運ばれた数日後に死んでしまった。結婚相手の彼は私に寄り添って涙を流してくれたが、実の親の死だというのに私はあまり泣けなかった。葬式を済ませると、一気に力が抜ける。彼は心配してそばにいると申し出てくれたが、断った。
家はひっそりとしており、四十九日をもって父の納骨をする。それまでは一人で暮らしたかった。父が死んでも心配するのは柘榴の木のことだ。いよいよ結婚から逃げられない。彼は生前の父親に、二人の晴れ姿を見せると約束していたらしく、一周忌を終え喪が明ければ式を挙げるつもりなのは目に見えていた。
「明日は満中陰か」
柘榴に寄り添っていると、声が響く。私は無言で頷いた。柘榴の言うとおり、明日が父の四十九日にあたる。
「ねえ、私ね、ずっとここにいたいのよ。そばにいたいの。だからもし、正式に結婚を申し込まれたらこう言うわ」
私は近くにあった柘榴の実を手の平で包んで、愛撫をほどこした。
「結婚してくれるなら、父と過ごしたこの家に、ずっと住みたいの……」
そう言うと、枝が少しだけ揺れた。実に口付けを落としていると、くっくと低い笑い声がする。
「情につけこむか」
「あなたとずっといるためだもの」言いながら枝に触れ、ついで幹を撫でる。「愛しているわ」
いずれ自分の夫となる男よりも先に、その言葉を伝えたかった。
月日が過ぎるのは早く、一周忌の後、私は結婚した。今や彼のことを主人と呼ぶべき立場となったが、私にとって愛を交わす相手は主人ではなかった。主人を会社に送り出すと、家事の合間に裏庭へ行き、柘榴の木に寄り添う。ただ触れるだけで満たされていくのだ。だが最近では柘榴のほうが満足していないらしく、私に睦言をくれる。
「お前を抱きしめたいのに、それが叶わぬ。どうやら欲が出てしまったようだ」
愛されているのが分かり、私はますます愛しさが募った。
「あの人に、そろそろ子供が欲しいと言われたわ」嫉妬してほしくて、つい口に出してしまう。
柘榴は黙ってしまった。
もうすぐ初夏だ。花が咲くのを心待ちにしながら、秋にはたわわに実るであろうその枝に触れて、私は微笑んだ。
「愛するあなたがいれば、私はそれでいいの」
……そう告げてから数ヶ月、秋の訪れに一面が燃えるような色をつけ始めた日、実のなった柘榴の木の下で、主人は変わり果てた姿になり横たわっていた。
赤い柘榴の実が破裂して、いくつか主人の近くに転がっている。土気色と真っ赤な景色を眺めながら、足元に広がり流れる血の滴りに、私はヒュウッと喉元が縮まった。
それからしばらく傍観していたが、警察を呼ぶ。やってきた警察の人間はお悔やみと同情の言葉をくれた。
夜には主人の遺体が司法解剖のために運ばれた。私は裏庭に向かい、柘榴の木の前で立ち止まる。
「お前の腹に、我が子を宿らせたいものだ」
柘榴はそう言って、私の頬を撫でるかすかな風に自らの匂いをともして笑っていた。
愛すべき夫が死んだというのに、私はその場違いとも冒涜とも言える言葉に、途方もない情愛を感じた。
主人の葬儀を終えて数日、寡婦となった私に柘榴が安堵したように呟く。
「ようやく、お前と私だけになった」
その言葉だけで、父と主人の死に合点がいった。二人の死の予言を果たさなかった柘榴の真意をつかんだ。が、気付いた真実には蓋をしてしまったほうがよい。
愛を囁く柘榴の木を見つめる。そうして、ふくらむはずだったお腹に手をあてて微笑み、私は口を開いた。
「安心して……もう、誰も邪魔しないわ」