何で私には死ぬ方法がない
人の、心の澱に触れる瞬間
彼女は自分で死ぬことが出来ない。死にたくなるような思いをしても、死にたいと駆られる気持ちになっても、次の瞬間には笑う。困った顔で「悔しい」と笑うのだ。
彼女の人生は車椅子と共にあった。彼女は、人が何気なく行う動作の数々に人一倍の苦労を要するためヘルパーを使ってその行為を満たしている。
服が着られず、鉛筆が握れず、箸が持てず、トイレや風呂を一人で済ますことが出来ず、平坦さに欠いた舗道では電動の車椅子がぐらついて転げ落ちる。彼女は「歯を食いしばって生きてるけど、その歯すら道路にぶつけて何本か無くなった」と話してくれたこともあった。
私はそんな彼女のヘルパーの一人として数年間そばにいたが、未だ彼女の言葉で記憶に残っているものがある。
何で私には死ぬ方法がないの。
それが、彼女がたまにぽつりとこぼす呟きだった。
刃物を上手く持てず、自分では首に紐もかけられない。舌は噛み切るほどの力がない。息を止めても四六時中そばにいるヘルパーがそれを防ぐ。彼女の様子は逐一ヘルパーに見られている。彼女はどうあがいても自分で選択する、という行為に「死」を加えることは出来なかった。
それを強く感じたのは、彼女に関する最初にして最後の出来事が起こった日だった。
心臓麻痺で亡くなったのだ。呆気なかった。
私は、彼女の死に涙した。だがそこには喪失を嘆く気持ち以外も含まれていた。
何で私には死ぬ方法がないのと言う彼女がいつだって浮かべていたあの笑みを目の当たりにしないで済む――その事実は思いのほか、不謹慎にも私に安堵に似たものを持たせた。彼女がヘルパーに本当にしてほしかったことを想像する恐ろしさほど、ゾッとするものはなかったからだ。
けれど、彼女のいない今、思う。笑顔と共に言った彼女のサインを、そして言葉を。
それを思い出すと、私は時々、世界を笑い飛ばして……蹴飛ばしてやりたくなる。