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偽物の聖女は辺境の地で愛を歌う

作者: 当麻リコ

「ではナディア。前に出なさい。あなたの番です」


シスターに言われて、ナディアは一歩進み出る。

教会の中には静謐で清浄な空気が満たされていて、自然とナディアの表情も引き締まった。


聖歌隊に入れるか否かが、今日決まるのだ。

教会の孤児院で育った少女たちにとって、聖歌隊に入ることは数少ない希望のひとつだった。


「神に捧げる歌です。心を込めて歌うように」


だからナディアは歌う。

心を込めて。

自分の大好きな歌を。


透き通った声は柔らかで、それ自体が祈りのようだった。


同じ聖歌隊希望の子たちも、シスターも、司祭様でさえ。

ナディアの美しい歌声にうっとりと聞き惚れた。


異変はすぐに起きた。


教会内に飾られていた花々が、意志を持ったように上を向き始めた。

閉じていたつぼみが開き、枯れかけていた花がみずみずしさを取り戻し、色を濃くしていく。


気づいたのは試験官をしていたシスターだけ。


けれどナディアの運命を決定づけるのは、それだけで十分だった。



◇◇◇



「じゃあ行ってくるわねナディア。また後で」

「ありがとうロージー。いつもごめんね」


侍女のロザリンドに礼を言う。

彼女は「いいってことよ」と大輪の薔薇のような笑顔を残して、ナディアの部屋を出ていった。


一人残されたナディアは、フカフカのソファにそっと身を沈めた。


王宮の離れの一室であるこの部屋には、五年経つ今も少しも慣れることがない。

物心つく前から教会の孤児院で育ったナディアにとって、ここはあまりにも豪華で広すぎるのだ。


「はぁ、どうしてこんなことに……」


もう何千回目かもわからないため息をつく。


十歳の聖歌隊入隊試験で、好きな歌を歌えと言われた。

それが「聖歌の中で」ということだとは思わず、ナディアは本当に大好きな歌を歌ってしまったのだ。


それはずっと頭の中で聞こえていた歌だった。


大人たちが話す難しい言葉とも違うその不思議な歌詞は、誰に教わらなくても意味が理解できた。


お天気の歌や植物の歌。

それに心を落ち着かせる歌や、傷を癒やす歌も。


ナディアが雨を願って歌えば雨が降り、晴れを願えば太陽が顔を覗かせる。

擦り傷程度であればすぐに血は止まったし、泣いている友達に歌えば、すぐに笑顔になった。


それが当たり前だったし、歌にはそういう力があるのだと思っていた。


だからその歌を、ナディアはシスターの前で歌ったのだ。

言われた通り心を込めて、神様に祈るように。


植物の歌を選んだのは、その日教会に飾られていた花に元気がなかったから。

いつも以上に心を込めて歌うと、しおれた花々が息を吹き返し、つぼみまでが活き活きと花を咲かせ始めた。


歌い始めてすぐに怖い顔になったシスターに歌を止められて、ナディアは聖歌隊への入隊を諦めなければいけないのだと絶望した。

けれど神官長様の部屋に連れていかれたナディアは、まさかそのまま王宮に住むことになるとは思っていなかった。


その歌が「精霊の歌」というもので、その歌で奇跡を起こす人間は「聖女」と呼ばれ、王宮で保護される。

そう知ったのは、ロザリンドがここに来てくれた時だ。


同じ施設で姉妹同然に育ったロザリンドは、ナディア付きの侍女として立候補してくれたらしい。

王宮で泣き暮らす聖女様を理解して慰められるのは自分だけだと。


実際、彼女は小さい頃からしっかり者で、姉のような頼れる存在だった。


孤児が聖女の侍女をするなど前代未聞らしいが、どんなに宥めても怯えて歌うことを拒絶するナディアを懐柔するために、仕方なく許可が出たらしい。


「あんたってホント、あたしがいないとダメなんだから」


孤児院でいつも言われていたセリフを聞いた瞬間、ナディアは泣きながらロザリンドに飛びついた。


聖女しか入ることを許されていない祈りの間も、ロザリンドが一緒じゃないと歌わないと駄々をこねた結果、渋々ながらも受け入れられた。

彼女が幼い頃からナディアと仲が良く、精霊の歌をすでに知っていたというのも大きかったようだ。


ナディアの存在は秘匿されている。

ナディアにつけられた家庭教師たちも、彼女の身分もここで暮らす理由も知らされていない。


だからロザリンドのようにナディアの過去を知りつつも外部に秘密を洩らさない人間は貴重なのだ。


以来ナディアは、ロザリンドに身の回りの世話をしてもらいながらここで暮らしている。


「一体いつまでここで暮らせばいいんだろう……」


静かな部屋の中、ナディアは一人呟く。

もう何年も家庭教師とロザリンド以外の人間とまともに話していない。


一人きりよりはずっといいけれど、外出はほぼ禁じられ、籠の鳥状態の生活では息が詰まった。


その上、大好きな歌まで『祈りの間』以外で歌うことを禁じられて、ナディアのストレスは限界を迎えつつあった。


「はぁ……」


シンと静まり返った自室で、ナディアは再び大きなため息をつく。


この建物は高い木々に囲まれていて、三階だというのに窓からロクに景色を見ることもできない。

おまえはどこにもいけないと言われているような閉塞感に、ナディアは押しつぶされてしまいそうだった。


「精霊の歌以外ならいい、よね……?」


とうとう耐えきれなくなって、ナディアは恐る恐る聖歌を口にする。


どうせこの建物は王宮からかなり離れている。

きっと誰にも聞こえない。


小声で歌ううちに、徐々に開き直る気持ちが芽生えてナディアの声が大きくなっていく。


ああ気持ちいい。

やっぱり歌うって最高だ。


偉い人に指定された精霊の歌ではなく、自分の気分で好きなように歌う気持ちよさをナディアは久しぶりに堪能した。

胸にたまっていたモヤモヤが晴れていくのが分かる。


聖女という立場上ここから出ることは叶わなくても、せめて自由に歌うことができれば。


けれどナディアのそんな些細な願いさえ、この場所では叶えられないのだ。


「それって君のオリジナル?」

「きゃあっ!」


唐突に声が聞こえてナディアは跳び上がる。


振り返ると、窓の外に見たことのない青年の顔があった。


「あなた誰……ってちょっと待って!?」


ハッと気づいてナディアの顔が青くなる。


「え、だっ、待ってここ三階!」


慌てて窓辺に駆け寄ると、その青年は巨木の太い枝の上に平然とした顔で立っていた。


「邪魔してごめん。歌が聞こえてきたからつい」


まるで普通に地面に立っているような態度で青年が申し訳なさそうに言う。

そのせいでナディアは、自分の方がおかしいのかと一瞬混乱してしまった。


「あ、あなたこっ、こんなところで何を……?」

「授業をサボって昼寝をしにきたんだ。いつもはもうちょっと下の方で寝てる」


青年が指をさすのにつられて下を向く。

地面が遥か遠くに見えて、ナディアはくらりと眩暈がした。


「今日もそうしようと思ってたんだけど、君の歌声に引き寄せられて」


目をキラキラさせて青年が言う。


「そ、そうなの……授業ってことは、あなた学生?」


戸惑いながら問う。


サボっていたということは不真面目な生徒なのだろうか。

もし悪い人だったらどうしよう。


「そう。イーライっていうんだ。君は?」


少し警戒を滲ませるナディアに、青年は屈託なく答える。


「……ナディア。見ててハラハラするから、とりあえず座ってくれない?」


その表情に疑うのが馬鹿らしくなり、苦笑しながらナディアも自分の名前を教えた。


イーライと名乗ったその青年は、隣の敷地にある王立学園の生徒らしい。


確かに、そんなことをロザリンドから聞いた覚えがある。

この巨木の囲いの向こうに、貴族の子女が通う全寮制の学園があるということを。


「ねえ、もっと歌ってよ」

「……いいけど、今歌ってたこと、秘密にしてくれる?」

「もちろん! あ、俺がサボってたことも秘密で」


人差し指を口元に当ててイーライがニカッと笑う。


その笑顔がなんだか憎めない感じで、ナディアもつられて笑ってしまった。


イーライはナディアの歌声に興味津々らしい。

自己紹介が終わるなり、もっと聞きたい、また聞きに来ていいかと嬉しそうに言うばかりで、ナディアの正体を問うこともない。


ナディアはすっかり毒気を抜かれて、彼への警戒を解いてしまった。


◇◇◇


イーライはそれから度々授業を抜け出し、ナディアに会いに来ては歌をせがんでいった。


「本当にいい声してる。オペラは寝ちゃうけど、ナディアの歌はいつまでも聞いてたくなるから不思議だ」


枝に座り、太い幹に寄りかかりながらイーライがうっとりと目を閉じる。


「ねえイーライ、お願いだから寝ないでね?」


褒めてくれるのは嬉しいが、いつ落ちるかハラハラして気が気ではなかった。


「まさか! そんな勿体ないことしないよ。ずっと聴いてたい」

「本当に? ならいいんだけど……」


ぱちりと目を開けてイーライが笑う。


最近ではすっかり義務でしかなくなっていた歌を、イーライは手放しに褒めてくれる。

それが少し照れくさくて、それ以上に嬉しかった。



「でね、ロージーはすごく優しいの。歌手になりたいって夢があったのに、私のためについてきてくれて」


休憩を兼ねてのおしゃべりに、イーライは嫌な顔一つ相槌を打ってくれる。

家庭教師は勉強のことばかりだし、ロザリンドとしか日常会話をすることがない。


「ふーん。その子も歌が好きなんだ」


すっかり喋るのが下手になっている気がするのに、彼は辛抱強くナディアの話を聞いてくれた。


「そう。小さい頃からよく一緒に歌ってたわ」


侍女で幼馴染のロザリンドの自慢をするナディアに、イーライが優しく目を細める。


「でも、王宮にいた方がその夢叶えやすそうだけどね」

「そうなの?」


孤児院で育ち、世俗から隔離されていたナディアにとって、イーライの話は新鮮で知らないことばかりだ。


「うん。だって貴族のパトロン見つけるにはもってこいじゃない」


驚き目を丸くするナディアに、イーライは呆れることなく理由を説明してくれる。


「なるほど! 考えたこともなかったわ! あとでロージーに教えてあげなくちゃ」


パチンと両手を合わせ、今にもロザリンドのもとへ駆け出していきそうなナディアに、イーライが笑って「落ち着いて」と宥める。


「ナディアが言うにはその子しっかり者みたいだし、たぶんとっくに何人か見繕ってるんじゃないかな」

「そうかしら……でも、そうかも。ロージーって本当にすごいのよ。美人だし頭がいいし、歌もとっても上手いし」

「歌ならナディアの方が絶対上手いと思う」

「あはは、ロージーの歌を聞いたことないのに?」


妙に力強く断言してくれるイーライにナディアは笑う。


イーライと話すようになってから、声を上げて笑うことが増えた。


王宮では歌ではなく聖女としての力のみ必要とされてきた。

そんなナディアにとって、自分の歌を純粋に楽しんでくれて、日常のちょっとした話を聞いてくれるイーライの存在が奇跡に思えた。


「でも褒めてくれて嬉しい。歌が大好きだから」

「うん。ナディアは楽しそうに歌うから、こっちまで歌いたくなる」

「本当に!? じゃあイーライも一緒に歌いましょうよ!」

「え!?」


勢い込んで窓から身を乗り出すナディアに、イーライが顔を引き攣らせた。

もしかして、今までのは全部お世辞だったのだろうか。


「……分かった。ナディアが喜ぶなら」


不安になりかけるナディアに、イーライが観念したとでもいうように両手を上げて瞑目した。


お願いだから木の上で目を閉じないでほしい。


「けど、笑うなよ?」


念を押すように言って、イーライが渋々歌いだす。


それがさっきまでナディアが歌っていた聖歌だと気づくまで、たっぷり十秒ほどかかった。


「さあほら、ナディアも一緒に!」


開き直ったような顔で調子外れの歌声を響かせるイーライに誘われ、ナディアも笑いながら歌い始める。


うまくハーモニーは重ならないけれど、その日ナディアは今までで一番楽しく歌うことができた。


イーライと話していると日々の鬱屈とした気持ちが晴れていく。

いつからか、ナディアはイーライに会えるのが楽しみになっていた。


◇◇◇


「聖女ナディアよ。第一王子ギリアン様との結婚の日取りが決まりました」

「え……?」


イーライと出会って三ヶ月が経つ頃。

王宮に呼び出され、宰相に一方的に告げられナディアは言葉を失う。


「あなたも来月で十六です。婚約を発表するいいタイミングになるでしょう」

「あのでも、結婚なんてそんな急にっ」


孤児でタダの平民ですらないナディアに、反論の余地などない。

それは分かっていても、聞かずにはいられなかった。


「聖女が次期国王と結婚するのは法律で定められています。例外はありません」


淡々と告げる宰相の横で、王子ギリアンが不満たっぷりの顔で不貞腐れている。

彼自身、納得などしていないのだろう。


聖女という立場上、これまでも何度かギリアンと顔を合わせる機会があった。

けれど彼がナディアを良く思っていないことは強く感じていた。


「殿下と結婚なされば不届き者もあなたに手出しできなくなります。さすれば厳重に秘匿する必要も減じ、自由に出歩くこともできるでしょう」


説得でもするかのように宰相が言う。

丁寧な物言いではあったが、敬意などないのはその表情から明らかだった。


「もちろん王太子妃ともなれば表立っての警護もつけられます。御身の安全は保証されましょう」


天候や植物、果ては人心に影響を及ぼすことのできる聖女は稀有な存在だ。

他国に知られれば、自国のものにすべく誘拐されたり、敵国の手にあるくらいなら暗殺してしまおうという動きが生じる恐れがある。

だからこそナディアは王宮入りして以来祈りの間以外で歌うことを禁じられ、極力人目に触れぬよう閉じ込められてきたのだ。


過去にそうした説明を受け、外に出たいというのを却下された。

納得しつつも、その生活に倦んでいたのは確かだ。


その制限が、ギリアンとの結婚で緩和される。


少し前なら素直に喜べていたかもしれない。

けれど、今は脳裏に浮かぶ顔があった。


イーライ。


王立学園に通っているということしか知らない青年。


――私は彼が好きなのだ。


ギリアンとの婚約を突き付けられた途端自覚して、ナディアはぎゅっと目を閉じた。

今更そんなこと、気づいたって意味はない。


「……謹んで、お受けいたします」

「受けるもなにも、お前に断る権利などない」


迷いを見せたことが不服だったのか、ギリアンがわずかに怒りを滲ませて言う。

きっとナディアがどんな反応を見せても気に食わないのだろう。


「も、申し訳ありません」


慌てて頭を下げるが、ギリアンは不快げに鼻を鳴らした。


「聖女じゃなければ誰がお前などと……」


王族らしからぬ盛大な舌打ちが聞こえて、ナディアは小さく震える。


孤児であるナディアを見下しているのはずっと感じていた。

ナディアの安全など、彼にとってはどうでもいいことなのだ。

ましてや愛などあるはずもない。


つまりこの結婚は、ナディアの自由のためとはただの建前でしかない。

ただ聖女を国に縛り付け、次期国王に箔をつけるためのものなのだ。


孤児で愚かなナディアでも、それくらいは簡単に理解できた。




「いいなぁナディアは。王子様と結婚なんて」


自室に戻るなり、ロザリンドが夢見るような表情で言う。


「遠くから見たことあるけど、格好よくて素敵な人よね。それだけでも羨ましいのに、次期王妃様だなんて……」

「そうかな……」

「そうよ! どうしていつもナディアばっかりなのかしら。同じ日に親に捨てられて、同じ孤児院で育ったのに」


ロザリンドはそう言うけれど、ナディアにとっては彼女が羨むものはどうでもいいものばかりだった。


ナディアの望みはただ自由に歌うことだけ。

それから、イーライと好きな時におしゃべりがしたい。


たったそれだけなのに。


◇◇◇


「今日は歌わないの?」


その日の聖女の役目を終えて、部屋でぼんやりしていたナディアに声がかかる。

ノロノロと顔を上げると、窓の外に心配そうな顔をしたイーライが立っていた。


「なにか嫌なことでもあった? 暗い顔してる」


即座に言い当てられて、一瞬泣きそうになる。

この国で、ナディアの気持ちを理解してくれる人なんて存在しないと思っていたから。


結婚なんてしたくない。


けれどそんなこと、打ち明けていい相手ではない。

イーライは貴族学校に通う青年で、いずれ国王となるギリアンの臣下になる人なのだから。


「まさか。逆よ。なんと私、王子様と結婚することになったの」


だから笑顔で告げる。

できるだけ幸せに見えるように。


すごいじゃないか。

もしかしてその歌で殿下の心を掴んだの?


そんな言葉をくれると思って待ってみたが、イーライは何も言わない。


いつものどこか飄々とした笑みはなく、感情が抜け落ちたような顔だった。


「……君はそれで幸せ?」


少し掠れた声で尋ねられて、ナディアの唇が震える。


「っ、もちろん」


一拍置いて、なんとか笑顔のまま答えることができた。


王族に逆らうことなんて許されない。

ましてやただの孤児が。


だから受け入れるしかない。

嫌々だなんて、思うことすら罪なのだ。


「だって王子様との結婚よ? 女の子なら誰だって夢見てる」


涙を堪えて笑う。


ロザリンドだってうっとりした顔で言っていた。

だからきっとそれが当然のことなのだ。


ナディアが少しもそれを望んでいなかったとしても。


「とてもそうは見えないけど」

「そんなことっ、……」


イーライに再び本心を言い当てられて、思わず俯いてしまう。


それ以上なにも言えなくなって、それがそのままナディアの答えだった。


「――一緒に逃げようか」


少しの沈黙のあと、いつもと変わらないトーンで言われて思わず顔を上げる。


きっと冗談を言ってる。

そう思って笑おうとしたのに、イーライは真剣な表情をしていた。


そんな顔を見たのは初めてだった。


まさか、と思う。


だけどその瞳には確かな熱があって、イーライも自分と同じ気持ちでいてくれたことを知ってしまった。


嬉しいと思ったのは一瞬だった。


貴族のエリート校に通うイーライには、約束された未来がある。

王子の婚約者を連れて逃げるなんて、その先には破滅しか待ち受けていない。


ナディアの答えは決まっていた。


「そんなこと、できるわけない」


したくない、とは言えなかった。

ナディアも本心ではそれを望んでいたから。


涙を堪えて笑おうとしたけれど、痛みに耐えるような顔になっていたかもしれない。

ナディアにはもう自分がどんな顔をしているのか分からなかった。


「……そっか。そりゃそうだよね」


苦しみを堪えるような表情のあと、イーライは自嘲の笑みを浮かべた。


「ごめん、馬鹿なこと言った」


うつむき小さく呟いたあと、ナディアの顔を見ることもなく、そのままするすると木を下りて行ってしまった。


その日以降、イーライが窓の外に姿を現すことはなくなった。


◇◇◇


悲嘆にくれる間もなく、婚約披露パーティーに向けての準備と聖女としての仕事を淡々とこなし一ヶ月が過ぎた。


「とうとうこの日が来たわね、ナディア」

「……ええ、そうね」


嬉しそうにナディアの着替えを手伝うロザリンドに曖昧な笑みを返す。


いつも忙しく宮廷内で働く彼女も、今日ばかりは主人の晴れ舞台ということで綺麗なドレスを着ていた。

それは浮かない顔をしているナディアよりよほど美しく輝いて見えて、いっそうナディアの心は沈んでいく。


彼女はナディアの婚約を純粋に喜んでくれている。

ならばせめて彼女の前では明るい顔でいよう。


そう、思っていた。


「その婚約、お待ちください!」


ナディアが聖女だと明かされた瞬間、ロザリンドがそう叫ぶまでは。


それは有力な貴族が大勢集まる大広間で唐突に始まった。


「彼女は偽物です! 本当の聖女は私なんです……!」


目に涙を溜めて陛下に訴えるロザリンドに、ナディアは激しく混乱して呆然と立ち尽くすことしかできない。


彼女は一体何を言っているのだろう。

さっきまであんなに親切にしてくれたのに。


「子供のころからずっと彼女に利用されてきました。今だって本当は恐ろしいです……けれど、このまま殿下が騙されて結婚させられるのを見過ごすことはできません……!」


震えながら訴える彼女は誰の目から見ても哀れで健気で、美しい。

まるでどんな表情が人の心を打つのか知り尽くした、悲劇を演じるオペラ歌手のように。


対するナディアは激しい動悸に荒い呼吸を繰り返すばかりだった。


違う、私は偽物なんかじゃない。ロザリンドは嘘をついている。


そう言いたいのに、彼女の裏切りに対するショックが強すぎて、ナディアはガタガタと震えることしかできなかった。


「ふむ……そなたが本物の聖女であるという証拠はあるのか」


疑わしい表情の陛下が、それでもロザリンドの話に耳を貸そうとする。


そうだ、証拠。

そんなの、提示できるわけがない。


落ち着きを取り戻しかけたナディアの前で、ロザリンドが震える手で花瓶の花を一輪取った。


そして歌いだす。

ナディアが教え、小さい時から一緒に歌ってきた、精霊の歌を。


聖女でなくても、魔力のあるものが精霊の歌を正しく歌えば、わずかだが効果がある。

姉妹同然に育ってきたロザリンドはそれを知っていた。


ロザリンドだけがそれを知っていた。


「おお……本物だ……!」


まだつぼみだったその花が歌に合わせてゆっくり開くのを見て、どよめきが起こる。


ナディアにとっては当然のことでも、人から見ればそれは珍しいことなのだともう理解していた。

そしてそれが『奇跡』と呼ばれていることも。


聖女は人前で歌うことを禁じられている。

そして祈りの間に入れるのは本来ならば聖女のみだ。

けれどナディアの我儘で、ロザリンドだけが入室を許された。


そのロザリンドが、衆目の中で見事に花を咲かせた。


それが彼らの目にどう映ったか。

考えるまでもない。


偽物のナディアが、本物のロザリンドに祈らせるためだ。


「そんな……ロージー、どうして……」


やっとのことでそれだけ口にしたナディアに、ロザリンドが大袈裟なほど身体を震わせた。


「ごめんなさい! ごめんなさい! ぶたないで!」


涙を流しながらロザリンドがギリアンに縋りつく。


「貴様、聖女を騙るだけでは飽き足らず、本物の聖女に狼藉を働くつもりか!」


義憤に駆られたのか、ギリアンがナディアから守るようにロザリンドを背中に庇ってそう叫んだ。


「そんなっ、私はただ、ロージーと話がしたいだけです!」

「ふざけるな! 今すぐ聖女の前から失せろ!」


まるで清らかな乙女を守る騎士のような勇ましさだ。

ナディアの前でそんな素振りを見せたことなど一度もないのに。


きっとロザリンドの美しい涙に心を奪われたのだろう。


「婚約は無効だ。王族を謀る極悪人め。ただで済むと思うなよ」


嗜虐的な笑みを浮かべて言うギリアンの背後で、ロザリンドが涙を流したまま、ナディアにだけ見えるように唇を笑みの形に吊り上げた。


姉のように慕い、心から信頼していたロザリンド。

そう思っていたのは、ナディアだけだったのだ。


今この場で歌えば疑いは晴れるのかもしれない。


分かってはいても、ナディアにはその気力が湧いてこなかった。


居並ぶ貴族たちに嘘つきと罵られ、国王から婚約破棄と追放を言い渡されても、それは変わらない。

唯一信頼する人間に裏切られたナディアにはもう、自己弁護をする力も残されていなかった。


「殿下が不要なのであれば、私が彼女を貰い受けても?」


罵倒を受けるまま茫然と立ち尽くしていると、凛とした声が聞こえてナディアはノロノロと顔を上げた。


ざわめきがひときわ大きくなって、会場にいた貴族たちの視線が一斉に集中する。


そこには正装姿のイーライが立っていた。


「……どうして、あなたが、ここに……?」


呆然としたまま、掠れた声でナディアは問う。


「遅くなってごめん。まさかこんなことになるなんて」


痛ましい表情でイーライがナディアの頬にそっと触れた。


イーライの隣には厳めしい顔つきの壮年男性がいる。

その人物に気づいて、周囲がどよめくのが分かった。


彼は他の貴族たちとは違いナディアを罵ることもなく、国王陛下に向かい合った。


「ずいぶんと下劣な見世物ですな、陛下」

「ローゼンバーグ辺境伯……」


国王が忌々し気な顔でその名を呟く。


ローゼンバーグ辺境伯。

聞いたことのある名だ。


確か国境警備の要である騎士団を擁し、その強さは国王直属の精鋭騎士団にもひけを取らないほどだとか。

ローゼンバーグ辺境伯は王侯貴族から一目置かれ、国王も気を遣うほどの発言権を持っている。


そう家庭教師から聞かされた記憶がある。


その辺境伯が彼なのか。

だがどうしてそんな人がここに?


度重なる不測の事態に混乱し、ナディアはぼんやり彼を見ることしかできなかった。


「父上、彼女を連れ出しても?」

「ああ構わん。あとは私に任せなさい」


今、イーライはローゼンバーグ辺境伯のことを父と呼んだか。


「行こう、ナディア」


新たな情報に頭がパンク寸前のナディアの肩を抱いて、イーライは彼女を会場の外へと連れ出した。




「助けに、来てくれたの……?」


イーライと乗り込んだ馬車の中で、ナディアは混乱のまま口を開く。

その後ですぐ、馬鹿なことを聞いてしまったと後悔する。


いつから狙っていたのかは分からないけれど、あれはロザリンドが引き起こしたことだ。

誰か協力者がいた様子もない。


だからイーライだってこんなことが起こるなんて知らなかったはずなのだ。


「そんなかっこいいもんじゃないさ」


自嘲するようにイーライが言う。


「フラれたんだから諦めなきゃって思ったんだけど」


そう言って苦笑し、うなだれるようにうつむいた。


「どうしてもあれがナディアの本心だと思えなくて。父に相談したんだ。駆け落ちしたい相手がいるんだけどって」

「ええ!?」


思いがけない告白に、先ほどまでの絶望も忘れて思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。


「殿下と結婚する相手ならそれは聖女だって父が言った。そりゃ断れないよね」


イーライは笑いながら言うが、それがそんな軽い話でないことはナディアにも分かった。


けれど彼が冗談みたいに話してくれるおかげで、ナディアはようやく落ち着きを取り戻せてきた。

座席の背もたれに寄りかかって、ゆっくり深呼吸をする。


「あなた、ローゼンバーグ辺境伯のご子息だったのね……あの方だけは私に怒ってないみたいだった」

「父はもともと聖女一人に背負わせる国のあり方に否定的なんだ」


イーライの父親は今の制度が間違っていると、ずっと陛下に訴えていたらしい。

だから今日の婚約発表も、ギリギリまで反対していたのだという。


「いっそぶち壊してしまえ、なんて俺をけしかける始末だったよ」

「……ロージーにぶち壊されてしまったわね」


言ってナディアは小さく笑う。

あんなことが起こったすぐあとだというのに、笑うことができるなんて。


ついさっきまでは足元が崩れていくような恐怖があったのに、気づけばもう震えも止まっていた。


「ホント、先を越されちゃったな。予想外もいいところだ」


笑いながら言って、イーライがナディアの手をぎゅっと握る。

どきりと心臓が跳ねた。


「……ロージー、どうしてあんなことをしたのかしら」


緊張を誤魔化すようにそんなことを口にする。


ロザリンドの一番近くにいたのは自分だ。

そんな自分でさえ分からないことを、イーライに聞いたって答えられるはずもないのに。


「彼女、もともと貴族とのコネを作るつもりで君についてきたらしい」


けれど思いがけず答えが返ってきてナディアは目を瞠る。


「それって、前にイーライが言っていたパトロンというもの?」

「そう。彼女は王宮メイドに自分の仕事を押し付けて、あちこち粉をかけてたって」


王宮で働く知り合いに聞いたらしい。

ナディアの部屋にいない間は、羽振りのいい貴族のもとへ行って情事に耽っていたのだと。


「……なんだ、私、ずっと騙されていたのね」


諦めにも似た思いで苦笑する。


ロザリンドがここにいてくれたのは、ナディアのためではなく自分のためだった。

歌手の夢を諦めたのではなく、歌手になるためにナディアを利用するつもりで。


「言ってくれれば、協力したのに……っ」

「ナディア……」


言いながら、あまりに自分が情けなくなって涙がこぼれそうになる。

自分はロザリンドからこれっぽっちも信頼されていなかった。

親友でも姉妹でもなく、体のいい踏み台でしかなかったのだ。


「ふふ、バカみたい。ちょっと考えれば分かりそうなものなのに」


無理に笑って涙を呑む。


「違う。ナディアのせいじゃない」


眉根を寄せ、悲しそうな顔でイーライが首を振る。

ナディアの手を握るイーライの手にグッと力が入った。


「もう一度、ちゃんと言わせてほしい」

「な、にを……?」


ぎこちなく問うと、イーライが真剣な顔で背筋を伸ばした。


「ナディアが好きだ。俺と一緒に逃げよう」


真っ直ぐにナディアの目を見て告げられたプロポーズに、堪えていた涙がひとつこぼれ落ちた。


もうナディアは聖女ではなくなってしまった。

ギリアンとの婚約も破棄され、逃げる必要もない。


それでもイーライは自分を必要としてくれている。


何も考えず今すぐ彼の胸に飛び込みたかった。

けれど先程浴びせられた罵倒の数々が脳裏によぎり、身体が竦んでしまう。


「……偽聖女で、なんの能力もない嘘つきなのに?」


自虐的な気持ちで問う。


何年も軟禁状態に耐え、国のために尽くしてきたのに、みんなあっさりとロザリンドを信じてしまった。

まるで聖女の力以外おまえは無価値だと言われているみたいで怖かった。


「そんなこと関係ある?」


けれど怪訝そうに眉をひそめながら逆に問われ、ナディアはぽかんとしてしまう。

その拍子に、涙がもう一粒零れ落ちた。


「ナディアと話せば嘘つきじゃないことくらい分かる。それに、聖女かどうかなんてどうだっていい」


きっぱり言い切って、イーライがナディアの涙をそっとぬぐう。


「君の歌声に惹かれた。歌う時の幸せそうな横顔に心を奪われた。どんな人間でも優しい言葉で語る、春の陽だまりみたいなナディアの世界を愛してる」


あのいかにも計算高そうな侍女を善人みたいに言うのは君くらいだよ、とイーライが揶揄うように言って優しく笑う。


そんなふうに想っていてくれたなんて。

陽だまりみたいなのはあなたのほうだ。

その笑顔に私は何度も救われてきたの。


涙はあとからあとから溢れて、返事をしたいのにうまく言葉が出てこなかった。


「ありっ、……がとう、イーライ……っ、私も、あなたが……!」


それでもしゃくりあげながら懸命に気持ちを伝える。


イーライは涙でくしゃくしゃになったナディアを笑いもせず、苦しそうに眉根を寄せてナディアを抱きしめた。


「帰ろうナディア。君のいる場所はあんな寂しいところじゃない」


ナディアの背中を宥めるように撫でながらイーライが言う。

だけどナディアに帰る場所なんてなかった。

聖女じゃなくなったナディアは、ただの孤児なのだから。


「でも、私……どこにも帰れない。家族なんていないもの」

「家族ならここにいる。俺じゃ頼りない?」


イーライが温かい微笑を浮かべながらナディアの目元に口づける。


「あなたがいい……っ、あなたじゃなきゃ、ダメなの……!」


胸が苦しくなるほどの幸福に満たされて、ナディアはイーライを抱き返し、声を上げて泣いた。

イーライはナディアが泣き止むまで、馬車に揺られながら辛抱強く待っていてくれた。


帰ろう。

イーライと一緒に。


この先どうなるかなんてまるで分からなかったけれど、イーライさえいてくれれば何も怖くない。


そう思えた。


王宮の離れでの暮らしには、なんの未練もなかった。


◇◇◇


その後、イーライは馬車をローゼンバーグの街屋敷まで走らせた。

ナディアを暖炉のある部屋に招き、フカフカの毛布にくるんで温めた牛乳を入れてくれたあとでぎゅっと抱きしめてくれた。

それから窓越しの時のような他愛のない話をして、ゆっくりとナディアの心を落ち着かせてくれた。


日をまたぐ頃に辺境伯が戻り、部屋を移しての話し合いが始まった。


「疲れているところすまないが、早く結果を知りたいだろう」

「ありがとうございます父上。是非聞かせてください」

「私も大丈夫です。どんな結果でも覚悟はできています」


イーライとナディアが意志の強い目でそう答えると、辺境伯はまっすぐに二人を見て深く頷いた。


「陛下とは話をつけた。本物の聖女がいるから十分だろうと」

「一体どんな話術でやりこめたんですか……」


辺境伯の言葉を受けて、イーライが呆れたように返す。


彼の言う通り、辺境伯は一体どうやってその着地点まで持っていったのだろうか。

きっと簡単にはいかなかったはずだ。だってロザリンド曰く、聖女を虐げていた女だ。


「私に対する、処罰は」


ごくりと唾を飲み込んで問う。

謀っていたつもりなんてないが、あの場では誰もがナディアのことを罪人と認識したはずだ。

捕らえられて拷問されてもおかしくはないはずなのに。


「それも問題ない。一人の少女を数年間に渡り監禁していたという事実を差し引けば、大した罪ではないのだからな」


言って辺境伯が鼻で笑う。

その目には怒りのようなものが滲んでいた。


彼自身騎士団を率いて先陣を切るという勇猛な戦士なのだ。

その眼光には背筋が寒くなるような凄みがあった。


「父上、お顔が鬼のようになっています」


気の抜けたような声でイーライが言って、そっとナディアの手を握る。

それから安心させるようにこちらを見て、にこりと微笑んだ。


「おおすまん、ついな」


それで辺境伯の表情が緩んで、ナディアの肩の力も抜けた。


「まあともかく。無事本物の聖女も見つかり、殿下も気に入って万々歳ということだ」

「父上は聖女制度には反対だったのではないのですか?」

「なに、望んで聖女になりたがる者がいるのだ。やらせておけばいい」


にやりと悪い顔で笑って辺境伯が言う。


「あれは聖女とは名ばかりの人柱だ。堂々と警護と監視をつけられるようになれば、これまで以上に自由などなくなるだろう」


それを聞いてゾッとする。

やはり聖女に自由などなかったのだ。

もしギリアンと結婚していたら、その先には絶望しかない。


「ナディアを陥れて成り上がろうとする女には似合いの末路ですね」


らしくない冷たい声音で言って、イーライが短く嘆息する。


「ごめん、今のは良くない言い方だった」


反省したように言って、イーライがナディアに頭を下げる。


「お前にしては珍しく感情的だな」


辺境伯が面白そうに言って、それからひたりとナディアに視線を向けた。


「それで、君は本当に息子と結婚する気はあるのか」

「はい。彼を愛しています」


屈強な騎士でも気圧されるような鋭い眼光で問われ、けれど逸らすことなくナディアは頷く。


隣でイーライが恥じらうように身じろぎをした。

彼がそばにいてくれるなら、ナディアはもう何も怖くなかった。


「……ふむ。ならばおまえたちの結婚を許そう」

「よろしいのですか……?」


反対されるのを覚悟していたのに、あまりにあっさり許可が出て思わず問い返してしまう。


「駆け落ちされても困るからな」


辺境伯が苦笑する。

その目元がイーライにそっくりだった。


「偽の聖女などいらぬという言質は取った。安心して式の準備をしなさい」


優しく言って、辺境伯が目を細める。


「君がどんな人間なのかはそこの愚息に嫌というほど聞かされた。私は君を歓迎するよ」

「……ありがとう、ございます」


信じられない思いで深々と頭を下げる。


隣でイーライが「余計なことを言わないでください」と焦ったように言っているのがおかしかった。


「しかし王都は大丈夫でしょうか」

「ふん、知ったことか。せいぜいあの性悪を崇め奉って自滅するがいい」


イーライの心配そうな問いに、辺境伯が嘲るように笑った。


◇◇◇


辺境伯の言葉通り、ロザリンドを聖女として祭り上げた王都は、その後衰退の一途を辿っていくことになる。


ナディアが聖女として王宮入りしてから数年、その能力に頼りきりでなんの対策もしてこなかった王都は、ナディアが去って一年もしないうちにほころびを見せ始めた。

おかしいと気づいた時点で対策を打てば食い止められただろうことも、対応が遅れているらしい。


「たかだか辺境伯に言い負かされるような愚鈍な王だ。さもありなんといったところか」


辺境伯は呆れたように言うばかりで、静観を決め込んでいるようだ。


ロザリンドは無事ギリアンと結婚したそうだが、一輪の花を咲かせる以上のことはできず、その能力を疑われているらしい。


対するナディアはイーライと共にローゼンバーグ辺境領に戻り、領民に盛大に祝われながら結婚式を挙げた。

ナディアにとって、これまでの人生で一番幸せな瞬間だった。


そしてその一番は、イーライが隣にいてくれる限りこれから先も更新され続けていくだろう。



「ねぇ、本当に聖女の力を使わなくてもいいの?」

「いいんだってば。そんなのなくてもうちの領地は安泰なの」


もう何度目かも分からない質問に、イーライは笑って答える。


聖女の力は本当にあって、領地をもっと栄えさせることができるというナディアに、イーライは一度も頼ったことはない。


信じていないわけではない。

信じているからこそそんな力を使わせたくないのだと。


「そんなの必要ない。ナディアが隣にいてくれるだけで幸せなんだ」


イーライはナディアを抱きしめて幸せそうに言う。


おかげでナディアは一度も自分が役立たずなのではと不安になることもなく、穏やかに過ごせていた。


辺境伯もナディアが本物の聖女だということに気づいているようだが、次期当主の妻としての役割以上は何も要求してこない。


王都にはナディアを連れ戻そうとする動きもあるらしい。

ナディアがいなくなる前と後では明らかな差があって、やはり彼女こそ本物の聖女ではないのかと陛下やロザリンドを糾弾する派閥が出てきたのだ。


けれどそれをイーライと辺境伯が跳ねのけ守ってくれている。


そんな頼もしい家族たちを見て、彼らの言葉通りに何もしなくていいと思えるほどナディアは呑気ではない。


自分も彼らの役に立ちたくて、ナディアはよく考えた末に聖女の力を使うことを選んだ。

もちろん、王都のように自治力を奪わないよう、領地政策の補助程度になるよう細心の注意を払って。


「聖女の力を当てにするために結婚したんじゃないのに」

「そんなの知ってるわ。だけど守られてるばかりじゃなくて、私もあなたを守りたいの」


不貞腐れたように言うイーライに、ナディアは笑いながらあくまでも自分のためだと主張する。

ここがナディアの帰る場所だと教えてくれたのは彼なのだ。

ならばそんな彼との居場所を守るために、自分の力を使いたかった。


「それに、国境の戦力を強化すれば国を守ることに繋がるでしょう?」


つまり王都が衰退しても罪悪感を覚えずに済む。

それも大きな理由だった。


くわえて、辺境領の兵力をさらに増強すれば、王都からの聖女返還要求を跳ねのけるのも容易になるだろう。


「私は持てる力すべてを使って、ここでずっとあなたと生きていたいの」

「……なるほど。俺が全力でナディアを守りたいのと同じか」


それなら納得できる、とイーライが理解を示してくれてナディアはホッとした。


「けど、たまには俺のためだけに歌ってくれる?」

「あなたが望むならいつだって」


二人は笑い合い、領地のために互いの力を尽くすことを誓い合った。


ローゼンバーグ領はその後栄華を極め、仲睦まじく寄り添う若き領主夫妻が領民の憧れとなった。

そうして領主の屋敷からは、美しい歌声に時折音程の外れた歌声が重なって聞こえてくるようになったのだった。

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[一言] ナディアの初恋が実って良かった
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