宰相が引退する日
三度目の人生、即位してから20年くらい。
宰相が引退するときに話された、もしかしたら起こっていたかもしれない一度目の人生の先の話。
書籍用に書きましたが、ページの都合で載せられなかった部分です。
シリアス寄りです。
少しずつ仕事を引き継いでいた宰相が、宰相職を引退する日になった。
宰相はこの国で大きな権力を持ち、一度目の俺は宰相によって追い落とされた。そして二度目の俺を雇った主人でもあって、三度目の今の俺にとっては導いてくれた師であり、怖い人物で、一番頼りにしていて、リーゼの父であるという意味では家族でもある。
本来だったらもう少し早く引退しているはずだったが、周辺国との関係が悪化していたこともあり、何とか留まっていてもらったのだ。
宰相は確かに厳しいけれど、彼がいなくなるというのは大きな柱が一つなくなる感じがして、なんとも不安になる。俺としてはずっと宰相の座にいてほしいけれど、義父ももういい歳だ。彼が引退の意向を示したのはずいぶん前のことだし、さすがに頷かないわけにはいかなかった。
次の宰相を任命した後、俺は宰相……妻であるリーゼの父と王宮の一室で茶をのんでいた。王と国の宰相として、ではなく義父と息子だから、と言って側近も排し、二人だけだ。
「これでようやく肩の荷が降りましたよ。のんびり隠居ができます」
晴れ晴れしい顔をしている義父に茶菓子を勧め、自分の口にもひとつ入れた。
「隠居するつもりなのですか?」
聞き返してみると、義父はフッと笑って俺の勧めた茶菓子を口にした。
義父の子は三人。上から、リーゼ、長男、次男である。義父は宰相職を辞す前に長男に家督を譲っている。今は長男が公爵領を治めていて、王都でやることが終わったら領地へ行くつもりらしい。
「そうしたいとは思っているのですよ」
含みのある言い方で察した。彼の長男はあまりリーゼに似ておらず、小さい頃からやんちゃだった。頭は良いが直感で動く傾向があり、どちらかというと俺と近いタイプである。
義父レベルで考えればまだ任せきれないに違いない。おそらくこれから領地でその腕を振るうつもり……つもりがなくともそうなるのだろう。もっとも、義父レベルには誰も一生到達できない気がするが。
「義父上がのんびりしているところなど、想像できませんね」
彼はずっと動き回ってきた。最近では部下や彼の次男に仕事をだいぶ渡していたとはいえ、時間ができれば新しい仕事を探してきて結局忙しくなっているような人だ。きっとこれからも性格的にのんびりなどしていられないのではないかと思う。
「暇な時間に困ったら、いつでも戻ってきてくださってかまわないのですよ。いっそ『宰相顧問』という座でも作りましょうか」
冗談っぽく、半分本気で言う。そうしてくれたら俺は心強いが、彼が頷くことはないだろう。案の定義父は軽く笑っただけだった。
「陛下は私がいなくてももう充分やっていけます。むしろ私がいないほうが自由に動けていいはずですよ」
「それはどうでしょう。彼がいますから」
彼とは義父の次男である。
次男は自由奔放な兄を見て育ったからか、慎重で何事も頭の中でじっくりこねくり回してから実行に移すタイプだ。非常に切れ者で頼りになるが、けっこう口うるさ……王である俺にも物怖じせずに意見をズバッと述べてくれる貴重な存在である。
……と思ってから、はたと気が付いた。そういえば俺の周り、口うるさい奴らばかりだな。王に対する遠慮など誰も持っていないな?
「彼を宰相にできずにすみません」
次男は次期宰相との声が高かったが、俺は違う者を任命した。義父の公爵家の派閥とは別の派閥をまとめている男だ。次男でなく、さらには自家派閥でなかったことから反発されるかと思ったけれど、意外にも義父は俺の案にすんなりと頷いた。
国内の派閥はいくつかあるが、現状は義父の派閥が一強となっている。一つの派閥が強いのはメリットもあるが、危険もある。今までは政策を早急に進めたかった。 各派閥の言い分を聞いていては対応が遅れてしまうから、一つの派閥が強いのは有利だった。だけどこれからはじっくりと話し合う必要も感じていた。そこで今回、信頼できる臣下である別の男を宰相にしたのだ。
「いいえ、それは私も納得していることです。それにもし彼が本気で宰相職につきたいと思えば、自力でなんとかするでしょう」
「それは怖いような、頼もしいような……」
「ははっ、彼は私でも御せないと思う事がありますからね。まぁ陛下ならば大丈夫でしょう。頑張ってください」
「そんな、貴方の息子ですよ?」
「陛下の義弟でもありますな」
何とも投げやりな言い方で、責任の押し付け合いをして笑う。
「義父上、王としてでなく、俺個人として礼を言います。今日まで導いて助けていただき、ありがとうございました」
俺が王として今日までやってこれたのは、間違いなく義父の力があったからだ。若いうちは全面的に支えてもらい、業務が自分でできるようになってからは、俺が動きやすいように調整してくれていた。
「いいえ、お礼を言うのはこちらですよ。私は陛下に救われました。感謝しています」
意味がわからなくて義父を覗き込んだ。ずっと助けてもらっていた。最初はこの人に睨まれたら終わりだと思いながら、そして即位してからは思い描いた政策を実現させるため。恩は積み重なるばかりで、お礼を言ってもらえるようなことは何一つないような気がした。
「私は時として非情な決断もしてきました。多くを得るために小を切り捨てることも、助けられる者を見殺しにしたことだってあります」
義父が俺の裏で動いてくれていたことは知っている。具体的に全てを把握しているわけではないが、その中には汚れ仕事があることも分かっている。王という国にとっての光の存在を消さないために、陰の一部を担っていたのもまた義父だった。そのおかげで俺は世間では名君であるという身に余る評価を得ており、逆に義父は一部で恐れられたり憎まれたりもしている。
「本来王の役目であるそれを、代わりに行ってくれていたまでのことではありませんか。私利私欲を満たすために動いていたわけじゃないことくらい、充分に分かっています」
「王のイメージは清廉潔白でなければなりませんから。私としてもそう在って下さるほうが都合が良かっただけのことです」
何のことはない、とでもいうように、義父はさらっと述べた。その言い方ほど簡単じゃなかったことはわかる。義父は効率を重視する人だけれど、情のない人ではないから。割り切っていたとしても、罪悪感は常に持っているはずだ。
「私は必要があればこの手を汚すことも厭いませんでした。だけど、どうしてもやりたくない、何としてでも避けたいと思っていたことがあるのです」
「何ですか?」
「我が子をこの手にかけることです」
俺が目を見開くと、義父は自嘲気味にフッと笑った。
「幾人も殺めておいて今更なにを、と思われるでしょうね」
「いえ、当然の事でしょう。俺も自分の子を殺めるなど考えられない」
「リーゼが生まれる前は、私は大人でも子供でも必要であれば何でも利用してきました。でも実際に赤子の彼女を抱いた瞬間、それからその成長を見るにつれて、どうしうようもなく情が湧いてしまいましてね」
自分にそんな心があると思わなかったと義父は苦笑した。
「老爺の戯言と思って聞き流してくださいますか?」
「もちろん。ここには俺以外いませんし、必要ならば何も聞かなかったことにします」
義父は俺に軽く探るような視線を向けたあと、ゆっくりと話し始めた。
「ご存じだとは思いますが、私は玉座に興味はありません」
「よく知っていますよ」
奪おうと思えばできる位置にいながら、彼は俺を支えることに徹した。自身が頂点に立つよりもそれを補佐する方が向いているのだと、かつて彼は言っていた。実際に俺もそう思う。王座に腰掛けた俺に向かって、その座を眺めながら「面倒な椅子ですな」と冗談だか本気だか分からない顔で笑ったこともあった。
「でも、もしどうしても必要であって、やむを得ない状況になれば、その座を奪う覚悟だけはしていたのですよ」
義父は俺を見ながら「特に陛下の即位前は」と付け加えた。俺の父が王であった時代のことだとすぐにわかった。彼らは民を顧みず国を疲弊させるばかりだったから。
「私は当時幼子だった陛下に賭けていたのです」
「俺に?」
「陛下が良き王になってくれるなら良し、もしそうでなくても、リーゼを送り込むことでこちらが操れるようならば、まだ何とかできるかもしれないと考えていました。今となっては失礼な話ですけれど、当時は陛下がどのように成長されるかわかりませんでしたから」
父が王だったとき、まずは父に王としての自覚を持たせようと奮闘したそうだ。だがそれは失敗に終わる。何とか政治の実権を握ることに成功したものの、父や母の激しい浪費を止めることはできなかったという。
「もし俺が父と同じような道を歩んでいたら?」
「国も民も顧みず浪費を続けるだけであれば、私と陛下は敵対していましたね」
俺は実際に義父が謀反を起こし、玉座についたことを知っている。俺はその時王宮にいなかったが、もし俺が王もしくは王太子であったならば、真っ先に狙われていたに違いない。
「驚かないのですね。私が謀反を起こす計画があったと言っているのに」
「え? あ、いや、驚いていますよ。少し間違えば、俺は義父上に討たれていたということでしょう?」
義父は苦笑しながら、でもしっかりと頷いた。
「もし万が一その状況になっていれば、私は王族全てを相手にしたでしょう。嫁いで王族となっていただろう、私の娘も含めて」
「娘……リーゼ?」
「父としては最低だと分かっています。本人の意志を無視した婚姻を強いておきながら、さらに全てを奪おうというのですから。ですが、多くの民と娘一人、この国の宰相としてどちらを選ぶべきなのかは、誰の目にも明らかです」
ハッとして背筋が一気に冷えた。もしそうなっていたとしたら、リーゼは……。
「その選択をしなくて済みました」
義父は穏やかな表情だが、俺は平常な顔を保てている自信がない。
「も、もし、俺がいなかったら……例えば重大な罪を犯していたり不慮の事故とかでリーゼと結婚する前に王宮からいなくなっていたとしたら、その場合はどうなっていましたか?」
「陛下がいなかったらですか?」
義父は俺を見てから自分の顎に手を当て、少し考える仕草を見せた。
「おそらくですが、陛下の異母弟君の誰かにリーゼを嫁がせて王位に就けるようにしたと思います」
「その弟も駄目な男だったら?」
おかしな仮定をするとでも思ったのか、義父はお茶を一口飲んでから苦笑した。
「どうしても無理であれば、同じように計画を実行したのではないでしょうか。あくまで最悪の仮定の話ですよ。実際はそうなりませんでしたし、仮に奪おうとしても上手くいかなかった可能性だってあるのですから」
全身が冷たい。息が詰まったようになって、上手く呼吸ができない。
「もしそうなっていれば、私は生きている意味を成さなかったでしょう。想像するだけで怖いですよ。リーゼが幸せそうにしていて、孫の顔まで見れたのです。これ以上に嬉しいことはありません。全て陛下のおかげです」
義父が俺にお礼を言っているが、耳を素通りしていく。
もし……もしそうだったらの話だ。そんな状況になっていたら、リーゼはどうしただろう。逃げただろうか。俺がどんな態度をとっても健気に支えようとしてくれていた一度目のリーゼが脳裏に浮かぶ。すべて国のためにと育てられた彼女ならきっと、敵となった父に歯向かうことなく……。
いや、彼女は俺が婚約破棄をしてから、領地へ戻っていたはずだ。そこでのんびりと幸せに過ごしていたかもしれない。一度目の宰相はかつての俺との婚約の解消を何度も願っていた。だからきっと情が湧いていて、手を掛けることなどなかったに違いない。
だけど、もし……。
「陛下?」
「あ、いえ。そうならなくて良かったと思っていたところです。もし敵対していれば、義父上には敵いませんから」
その後も雑談をしたはずだが、何一つ頭には入らなかった。
義父が部屋から退出すると、俺も急いで部屋を出た。
「リーゼは今どこにいる?」
側近に尋ねると、お茶会室にいると返ってきた。
「すぐに行く」
「えっ? おそらくお茶会をしているところですよ?」
俺は側近が止めるのも聞かずに、足早にお茶会室に向かった。
義父が言うように、必ずそうなっていたとは限らない。鉱山にいた一度目の俺に情報は入ってこなかったから、実際どうなっていたかはわからない。
だけど、俺が鉱山で無責任にリーゼの幸せを祈っていたあの時、リーゼはもしかしたらもういなかったかもしれないのだ。俺のせいで……。
お茶会室につき、側近が動くのを待たずにバンッと扉を開けた。
「リーゼ!」
中にいた人たちが驚いてこちらに注目する。その中にリーゼの姿を確認して、俺はようやく息を吸った。
「どうなさったのですか?」
リーゼはご婦人二人とお茶会をしていた。二人のご婦人は慌てて立ち上がり、俺にお辞儀をする。
「リーゼ、よかった」
「何かあったのですか?」
俺は勢いよくリーゼを抱きしめた。リーゼのぬくもりが伝わってきた。彼女が生きていることを実感して、ようやく安堵の息を漏らす。
二人のご婦人が「まぁ」といったように目を丸くし、ちょっと慌てたように視線を逸らした。それからチラチラとこちらを窺いつつ、侍女と何かを話している。
「王妃様、わたくしたち、少し長居してしまったようですわ」
「そうですね。わたくしたちはこれで失礼しますわ」
二人は丁寧にお辞儀をすると、ホクホクとした顔で出ていく。リーゼがそれを見て、ちょっとだけ俺に顔を顰めたのがわかった。
「クラウス様、一体どうしたのですか?」
「なんでもない」
「なんでもなくはないでしょう。顔色が悪いですし、お茶会の途中でいきなりやってくるなんて。しかもいきなり……ご婦人方の前だったのですよ」
「本当になんでもないんだ。ただリーゼに会いたくなっただけだ」
少しの間黙って腕の力を強めると、リーゼの腕がそっと俺の背に回った。まるで子供をなだめるように、その手が背をポンポンと優しく叩く。
「リーゼ、すまない」
「え?」
思わず声が漏れた。ここにいなかったかもしれないリーゼに向けた謝罪。
「……あぁ、大丈夫ですよ。お茶会はもうほとんど終わっておりましたから」
リーゼはお茶会に乱入したことを詫びていると思ったらしい。腕の中でもごもごと動いたので、俺は腕の力を緩めた。
「何て顔をしていらっしゃるのですか。謝るくらいならば終わるまで待てばよかったではありませんか。驚いたのですよ」
「すまない」
「大丈夫ですよ。カップを見てくださいませ。もうお茶は入っていないでしょう? ちょうど帰るところだったのです。あとで詫びの品でも送っておきますわ」
俺の側近は慣れたものとばかりに壁にくっついて気配を消している。それを良いことに、俺はもう一度リーゼを抱きしめて、彼女の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。