ゴーストメモリー
当作品は目黒の寄生虫博物館に行ったことに着想を得て作成しました。
気になる方はぜひ行ってみてください!
夜の博物館の中は案外明るい。擦りガラスから差し込むぼんやりとした光が同じように床を照らしているからだろう。外の光は満月かもしれないし、道沿いに佇む電灯かもしれない。しかしぼんやりとした外しか見えない彼にとってはどうでも良いことだった。仮に光が全く無かったとしても室内には足元の間接照明がある。加えて、手に持っている懐中電灯があれば夜間の巡回には影響ない。彼はずっしりとした手ごたえを返す右手と違い、手持ち無沙汰な左手をポケットに突っ込む。帽子のつばは少し上を向いており巡回に支障はない。時刻は二十五時半。寝静まった標本や展示品の数々は不思議と生を想起させる。
「少し質問よろしいでしょうか?」
彼の語りは女性の声に遮られる。彼は少し苛立ちを覚えながら、
「先生。私の話を聞いてくださるのですよね? まだ語りの序盤ですよ。質問をする意図を教えていただけますか」
声量こそ抑えられていたが、その声にはやや怒気が混じっている。その様子を見て彼女は申し訳無さそうに答える。
「話の腰を折ってしまって申し訳ございません。しかし、私はウィリアムズさんの状態を把握するために話を正確に書き留めなければなりません」
「そうですか。俺は精神障害があるんでしたよね」
「いえ、あくまでも一時的なものです。お話を聞くことで緩和されるか治療できるものと考えております」
「わかりました。お仕事の邪魔をしてすいません。質問どうぞ」
彼女は咳払いをひとつ。話を続ける。
「では、質問を。先程標本とおっしゃられましたが、どのようなものがありましたか?」
「あれは昔の動物の化石だ。ティラノサウルスとかトリケラトプスの」
「そうですか」
彼女は首を傾げながら手元のバインダーの紙をめくる。
「資料にはウィリアムズさんの巡回ルートには新生代の絶滅した動植物や寄生虫標本のエリアしかありませんよ」
「そうだったか?」
「ええ。それにあの博物館は化石の標本と復元図が展示されています。とても生きていると感じることはできないと思います」
しばらく男は左上を眺め、思案していたが、
「たしかに記憶違いだったかもしれない。サーベルタイガーを見間違えただけか」
「小さい頃に見た他の博物館のものと混同したのかもしれませんね。すみません、話を続けてもらっていいですか?」
彼は釈然としない様子で続ける。
周囲には今のものより遥かに大きい動物の復元模型が展示されている。彼は展示の説明を一晩にひとつずつ見ることを密かに楽しみにしていた。その日見たのはドードーだ。マダガスカル沖のモーリシャス島に生息していたらしいが、一九八三年を最後に目撃が途絶えたらしい。
「すみません、少しよろしいですか?」
後ろから突然声をかけられた。おそらく肩が跳ね上がっていたと思う。懐中電灯が一瞬上に飛び、彼はお手玉をしつつも手に納める。振り返って声の主を改めて見ると、白髪の男だった。年は八十はいっているだろうか。奇妙なことに上等なタキシードを着込み、手にはステッキが握られていた。その上ご丁寧にも背の高いシルクハットを左手で持ち、胸にあてている。ここはいつから結婚式場になったんだ?
「はい、どうしましたか」
「マンソン裂頭条虫の展示の場所はどこでしょうか?」
「ちょっと待ってください」
再び女性の声が語りを遮る。
「今度はなんですか? ナスターシャ先生」
ウイリアムズはやや面倒そうに現実に戻る。
「どうしてその老人はそこにいたのですか?」
「それは……」
彼は言い淀んだ。説明するための知識も情報も持っていない彼は目を泳がせる。
「それはわかりません」
「本当にその老人はいたのですか?」
記憶の奥底をさらってみてもその男が存在しないことを証明できない彼はムッとした表情で反駁する。
「彼はいたんです。それだけは確かなことです。神に誓ってもいい」
彼女は唇をやや下に曲げ、バインダーに再び目をやっていたが、納得したように視線を戻す。
「こういうことではないでしょうか」
彼が巡回に出ていた時間は昼。外から差し込む光は曇天特有のぼんやりとした淡い光。
「それもそうか。それならば俺が質問された意図もわかる」
その老人は彼を職員だと思ったのだ。右手に持っていたのは懐中電灯ではなく、拾い物のボールペンだったのだ。
「すみません、また話の腰を折ってしまって」
「大丈夫です。話を戻していいですか」
ウィリアムズは老人の質問と頭の中の地図を瞬時に照らし合わせる。この博物館はそこそこ広大な割に案内が不親切だ。初めてきた人は迷うことが多い。
「そこなら近いですよ。ご案内いたしましょう」
生憎と記憶力に自信がないほうだが、何故か場所は覚えていた。最近見たのだろう。
「お願いします」
老人は深々と頭を下げる。博物館という決して万人が来るわけではない施設に何故彼は来たのだろうか。彼は白髪が集まったつむじを見下ろしながらぼんやりと考える。俄然、好奇心が頭をもたげる。
「本日はどこからいらしたんですか」
「私ですか?」
男はキョトンとした表情で彼を眺め返したが、数秒後に
「車で一時間ほどの片田舎からです」
「随分遠いところから来られましたね。博物館巡りが趣味ですか?」
「いえ、初めてきました」
タキシードは彼の普段着だろうか? しかし興味本位で他人の、しかも初対面の人の服のセンスを問うのはあまりにも失礼だ。彼はぐっと我慢をすることにした。老人はそんな彼の胸中を知ってか知らずか。空とぼけた調子で続ける。
「前から博物館があるのは知っていたので来てみただけです」
ウィリアムズはできるだけ平静に案内を始める。
「そうでしたか。この博物館案内が少なくてわかりにくいですよね」
「いえいえ、展示品を眺めているだけでも楽しいですよ」
「それは良かったです」
今度は彼の中で別の疑問が湧き出る。相手が会話に乗ってきたことがそうさせたのか、彼は質問を重ねる。
「そういえば寄生虫にお詳しいんですか?」
「どうしてそうお思いに?」
「マンソン裂頭条虫ですよ。ピンポイントでお聞きになられたものですから」
「それ、寄生虫のことだったんですか」
老人は少し驚いた表情で聞き返す。どういう経緯で知ったのだろうか。
「東南アジアの展示エリアで記述されている箇所を見かけまして」
「動物やヒトに寄生するので不思議ではありませんね」
「今思えばそういう文脈であった気がします」
「東南アジアエリアは他の地域との関連性がありますからね。別の展示に飛ぶ途中で混同してしまったのでしょう」
老人は得心がいったように感心の声を漏らす。
「ところでウィリアムズ博士。先生の研究対象はなんですか?」
「私ですか? 私は主に北米大陸の陸生生物と北極圏の生物の関連を主な研究対象としています」
「ちょっと待ってください」
「どうかしましたか、ナスターシャ先生?」
バインダーをめくる彼女の指は今まで見た中で最も慌ただしい。しばらく何か探していたが、首を傾げながら質問をする。
「ウィリアムズさん、あなた警備員とか言ってませんでした?」
眉間にシワをよせ、端正な顔が混乱に満ちている。彼も自身の言葉を振り返り、首を傾げる。
「たしかに、言ってましたね。なぜでしょう? 私は博物館の学芸員のはずです」
「そう……ですね、プロフィールにもそう書かれてます」
ふたりの間に沈黙が流れる。
「と、とりあえず先を続けましょう」
気味の悪さを感じつつも彼女は話の続きを促す。ウィリアムズは軽く咳払いをして語りを再開する。
ウィリアムズは老人を寄生虫エリアに案内した。老人はしばらく解説を頼み、ウィリアムズもそれに答え自身が把握する寄生虫の生態などを解説する。温暖化がもたらす北極圏の生態への影響は問題になっており、当然それも研究対象を左右する問題だからだった。
というのは建前で、一番の理由は時間を持て余していたからだ。しかし寄生虫の展示エリアは他のエリアより小さめだ。展示物が小さく、何より人気がない。熱狂的なマニアはいるが、万人受けするものではない。それでも小一時間なんとかもたせた自分を褒めたい。上手く行ったと自身の知識の深さに浸っていると、老人はやや深刻な面持ちで口を開く。
「先生、最近妙な体験をしたんです」
ウィリアムズははっきりと面食らった。展示や解説に対する質問ならいざしらず、個人的な話になるとは。それでも彼は落ち着きを取り戻し、話を促す。
「はい、どのようなものでしょうか?」
「私には妻がいました。いたような気がする、といったほうが正しいのかもしれません」
彼ら夫婦は退職を機に郊外の家を出払い、自然豊かな山奥でひっそりと暮らしていた。ある日、彼の妻は毒蛇にかまれてしまった。病院に運ばれた彼女は診断を受け、トリパノソーマ症と判断され入院した。彼は何度も医師に毒蛇にかまれたのだと説明したが、相手にされなかった。医師が言うには数週間前に旅行したマダガスカルで感染した疑いが見られる、とのことだった。しかし、彼自身はアフリカにすら行ったことがなく、メキシコや南米など他の流行地にも数年以上前に行ったきりだった。
病院から帰宅した彼はさらに奇妙なことに遭遇する。二人が住んでいた山小屋は木々が生えた林となっていた。役所で戸籍を確認して現住所を突き止めたが、都心の古びたアパートが彼のものらしかった。結婚したはずの二人の息子はひとりは娘として海外で生活しており、もうひとりは幼いころに病気で亡くなっていた。とうとう現状を把握しきれないまま、妻は一ヶ月の闘病生活の末亡くなった。
不思議なことはまだ続いた。葬式で彼女の喪主を務めた時、自身の妻であるはずの彼女は兄の妻であることを知った。役所で戸籍を調べた時に間違いなく自身の配偶者であった。しかし、彼女はいつの間にか人生を共にしてきた理解者ではなくなっていた。当然彼の息子も娘もおらず、古びたアパートが手元に残った。
「先生、私はおかしくなったのでしょうか。元の記憶をもっているのにも関わらず、私は今の生活までの道のりを覚えております。今まで選んだことのない選択の数々をえらんだこととその理由も」
ウィリアムズはできる限り笑顔を浮かべて話の終わりを聴き取った。重度の精神的なショックが要因であると判断した彼はできる限り前向きな言葉を投げかけ、抗うつ剤を処方した。目の前の年配の男は最近兄をなくし、情動が不安定となっている。最近は自分から通院するようになり、付き添いの親戚がいなくなったことから症状は緩和されている。しかし何かがトリガーとなって再発する可能性もまだあった。ウィリアムズはパソコンにカルテを書き込み、目を抑える。もう昼休みを大きく過ぎていた。彼はため息をひとつつき、食堂に向かった。
「それで今に至るわけね」
彼女はアイスコーヒーの残っていないコップをストローでいじりながら彼の話を総括する。まだ大きめの氷はコップの壁に当たり、小気味いい音を立てる。食事をとりながら話していると二十分くらいしか残っていない昼休みなどあっという間だ。
「ナタリー。絶対誇張だって思ってるだろ」
話している間ずっと笑っている彼女は真剣に話を聞いているようには見えなかった。ウィリアムズは先ほどの患者の症状を深刻なものだと頭を抱えているのだ。
「そんなことないわよ。私も変な患者見たことあるもの。自分で抱え込まずに他の人に話すのがいちばんだから、ウィルがちゃんと話してくれてうれしいわ」
「変な患者って、自分が大統領で月に行ったことがあることを大真面目に言ってた人?」
「ああ、そんなこともあったわね」
彼女は視線を遠い場所にずらす。理解できない話を聴くことは仕事とはいえ辛い。そんなことを考えていると腕時計のアラームが鳴った。昼休みが終わる。
「今日午後休取ろうかな」
たまには山にドライブに行くのも悪くない。今日は予約もないため、午後は雑事を片付けるだけだ。
「いいなあ。私、今日残業確定なんだけど」
「そりゃご苦労様」
口をとがらせて文句を放つ彼女から逃げ、診察室に戻る。白衣を椅子に投げ捨て、病院を後にする。車の助手席に鞄を置くと、何かがシートから転がっていった。身をかがめて落とし物を拾い上げる。それは重厚な黒い懐中電灯だった。彼は首をかしげながら頭に手をやり、帽子のつばを上に押す動作をする。その指は茶色の短く切りそろえた髪の毛に触れるのみだった。
うっかりメイです。面白ければ高評価、感想などをいただけると嬉しいです!