#1 いつもの朝
「チッ、チッ、チッ」
いくつかの小鳥のさえずりが、静かに眠る森に朝を知らせる。
「ピヨピヨピヨ......」
やがて遠ざかる羽音を遠くで聞いていると、そよそよと初夏の生ぬるい風が頬をなでる。
「くぁ~」
だらしなく横たわっていると、やがて口から零れた吐息を、右手を持ち上げ制する。
眠い目をこすり体を持ち上げると、やがて眼前に広がるのは、巨大な幹に鮮やかな緑の葉が無数に繁る、視界を埋め尽くすほどの木々たちだった。
空を埋め尽くさんとする無数の葉、しかし塞ぐことができないほどに明るく空から降り注ぐガルギアの光が、木々の隙間を縫い、木漏れ日となって森を暖かい光で充満させる。
「おはよう......」
誰にでもなく独り言をそうつぶやくと、まるで返事をするように、さぁぁと心地よい風が辺りを駆ける。
風に乗り、再び眠りに誘わんとする眠気がどこかへと飛んでゆくと、もう一度だけ小さい欠伸をし、いよいよ寝床からずりずりと這い出た。
嗚呼、何と可憐で儚い仕草だろう。無意識のうちの自分の上品な仕草に、なかなか気持ちの悪い感じにニヤニヤと口角を上げる。
......台無しだね。
今日また、いつもの朝始まろうとしている。
私は、モーニングルーティーンの始めとして、まずは朝食を探しに森の中へと足を進めた。
何も変わらない日々とは、良いものだ。
道中、木漏れ日に照らされ色白く光る、木々に成る木の実やキノコを見つけ、
それを朝食として見繕う。
穏やかな森の中を歩きながら、背伸びをして、寝固まった体をほぐす。
私の寝床は人と比べ、少し...いや、かなり寝るのには向かない場所で、毎朝体を襲う痛みは長年の悩みの種だ。
毎日同じ様に悩み、結局は何も改善せずただ繰り替えされる日々。
そろそろなんとかしないとなぁと思考を巡らせるフリをするうち、気づけば見慣れた小川のほとりにたどり着いていた。
森の中で少し開けたその場所に流れるこの森唯一のオアシス。
そこでもやはり零れる陽光は、さらさらと心地良い音を立ててせせらぐ小川に映し出されている。
天高くにあるガルギアの放つ陽光が、まるで地に落ちてそこにあるかのように、小川はきらきらと煌き、虹色の光を反射させていた。
小川の近くに腰をおろすと、その光の魚を捕らえるように水をすくう。
手の中に満たされた水は驚くほど冷たく、まるで私の心のように透き通っていた。
その水を顔にぶつけると、キンキンに冷えた水が、寝起きの頭を覚醒させる。
もう一度すくうと、今度は口に含んで寝起きの口内に広がる粘り気を落とす。
冷えきった水温が、心地よく体の熱を奪ってゆく。
......しかし今は、生暖かい風が辺りを満たす、じめじめとした初夏の頃。
それだけでは満足できなかった私は、顔を洗うだけでは飽き足らず、服も脱がずに川に飛び込んだ。
ザブン!という水しぶきの上がる子気味のいい音に合わせて、全身をまるで氷風呂の中に飛び込んだかのような刺激が駆け抜け、思わず「ひゃぁ~~!!」という悲鳴にも似た声が口から洩れた。
数秒冷水に身を浸し、その温度に体が慣れてくると、ざぶざぶと音を立てて体を動かす。
体を掌でこすり、寝ている間に体についた虫や汚れを洗い落とす。
森で生活をしていると、切っても切り離せないのが虫刺されや土汚れの悩みだ。
誰もが一度は振り返るような美貌を持つ私にとって、これは間違いなく致命傷だ。
また、その悩みを消してくれはせずども、緩和してくれるこの川は、私にとっての救世主に他ならない。
今日もありがとうございます。
と、いるでもない何かに感謝の祈りをささげつつ、朝食の木の実、もとい甘未たっぷりのフルーツに大きな口を開けてかじりついた。
飛び込むと同時に、一緒に川に浸しておいたのだ。
川の温度でキンキンに冷やされた、ルースと呼ばれる艶やかな赤い楕円上の果物は、やがて口内で甘い果汁をまき散らす。
その至福の甘味を、果汁を一滴たりとも逃さぬようにと口と手に全神経を集中させ、手についた最期の一滴をもなめとり完食する。
今朝は同じ果物を5つ取っていたうちの、3つを食べた。
残りは保存用。
私は、この至福の一時に一人酔いしれていた。
果物とは、ヘルシーなのにビタミンたっぷりで、
かつ朝から食べても胃もたれすることもない極上至高の食べ物だ。
そんな極上の食べ物を味わいながら、川の中で仰向けにプカリと浮かんでいた。
その時、
「きゃーーー!!!」
突然聞こえた甲高い悲鳴が、思考を遮る。
そしてまた、その叫び声が非日常の始まりを知らせていた。
「助けて!!いやだ~~~!!」
次いで森の中から聞こえた悲鳴は、私を二重の意味で驚かせた。
私はとっさに音の方向を振り返る。
痛った、今首グキって言った。
......首を抑えながら周りを見渡すも、しかし音のよく反響するこの森では、正確な場所も特定できず、その美貌を少し顰めるしかなかった。
驚いた理由のその一つは、そもそもここは大森林の中。
私という例外を除いては、基本人も寄り付かないような場所であるにも関わらず、人の声が聞こえたこと。
そしてもう一つは、その叫び声が日本語であったこと。
その驚きに、先ほどまで眠気の残滓が残っていた私の意識はすっかり現実に引き戻されてしまった。
「誰か!!誰か~~!!」
と再び聞こえた叫び声は、ガサガサと木々をかき分ける音と共に、幸運か不幸か、一直線にこちらへと迫っているようだった。
断続的に続く悲鳴と人が森を走る音は、やがて私の真横、私から見て右手から響き、ついにはすぐそこへと迫り来ていた。
直後、ガサァ!と大きな音を立て、私の2m先ほどの森の間から飛び出したのは、入院着?薄っぺらい服をはためかせながら走る高校生にも満たない、まだあどけなさの漂う小柄な人の子。
次いで間髪あけず大きな音と共に現れたのは、体調2,3mもあろう、鳥のような外観の竜だった。
どこか間抜けそうな面構えをした、黄色いくちばしを持つ緑色の奇怪な竜。
その巨体では森を走り回るのには向いておらず、バシ!バシ!と体のあちこちを木々にぶつけながら走っていた。
「キュルルアアア!!」と奇声を上げるその緑竜は、その大きなくちばしで、逃げ惑う人の子をつつきまわす。
2人......いや2匹?は、私に気づくことなく奇声を上げ、私の目の前を通り過ぎ再び森の中へと消えていった。
あまりの出来事に、呆然とその場に立ちすくしていた私は、数秒遅れて意識を取り戻す。
そして少し思案した後、2匹を追うことにした。
忘れまいと朝食のルースを2つ抱え走り出した私だったが、どうした物だろう。
幸いにも、少しは走るだけで追いついた2匹は、相も変わらず奇声を交わしながら走り続ける。
まるで会話をするように交互に奇声を上げるその姿は、少し可笑しさまで覚えた。
走りながら、私はその身を震わす。
直前まで、外気よりも何十度も低い冷水に浸かっていたのだ。
乾ききらないうちに走り出した私の体周りの水滴が、今も体の体温を奪っていく。
しかし、うかうかとしていられないのは、竜が遊び半分で人の子を追いかけまわしてるのではなく、その目はしっかりと獲物を捕らえていることだった。
つまりは、この竜は今この瞬間にでも朝ご飯を済まそうとしているのだ。
朝から肉とは、ヘルシー極まる私には理解できないね。
視界の端では木々が流れゆく。
このまま並走していても仕方ないと判断した私は、数秒間渋った後、片手に抱えたルースを竜の頭めがけて投げつけた。
スコーン!と小気味のいい音を立てて緑竜の頭に直撃したルースは、どこへ行くやらそのまま森の中へと消えていった。
嗚呼、さよなら私のルース。
盛大な犠牲を払って成功した、命名「果物ぶつけてこっち向かせよう大作戦」だったが、どうやら私はその先のことを考えていないようだった。
森の中を爆走しながら不思議そうに振り返る緑竜。
そして勿論、その目線の先にいるのは私。
あ、こんにちは。
振り返ったまま、不思議そうに首を傾げた緑竜に、私はぺこりと会釈する。
直後、ギャギャギャァ!という音を立てて急回転しこちらに向き直った緑龍は、
私を一見し、「キュルアアアア!!」と奇声を上げた。
こんにちはー!そしてさようなら!!
私はその足を止める事無く、竜に向かって勢いのままに跳躍する。
そして、手元に黒い剣を生成し、身体をひねりながら振り抜いた。
振り抜いた剣は竜の喉元にパックリと切り傷を作り、遅れて血を撒き散らす。
緑竜は、慌てて息を吸うように大きく口を広げるも、苦しそうに身を揺らしながら、その場にズドンと大きな音を立てて横たわった。
倒れた巨体の喉元からは血が噴き出し続け、もがく様にその場で暴れる。
しかし、鳴き声を上げる事すら叶わず、ただその場でのたうち回っていた。
やがてその勢いも次第に弱くなり、ゆっくりと力尽きて行く。
私は手に持った剣を振り払い、剣に付いた鮮血を散らす。
さっきまで生きていた生き物の生暖かい体温を含んだ赤い液体が、森の中に悲壮を漂わせ、剣先からポタ、ポタ、と零れ落ちる。
その滴は、決して陽の光を跳ね返すことなく、まるで恒星そのもののように紅い色をしていた。
物言わぬ躯となった緑竜の前にかがむと、手を合わせ、祈りをささげた。
......ごめんなさい。と
時間をおいて祈りを終えた私は、返り血で染まった顔を拭いながら、ゆっくりと立ち上がる。
この竜に追われていた子は大丈夫だろうかと。
そして、
––––––––トゥンク。
立ち上がった私が聞いたのは、秘かに生涯聞くことなどないであろうと思っていた心の音だった。
それは例えばおとぎ話の中だけの話だと思っていた、不確かで夢のような音。
けれど確かに聞いてしまったその音は、人をまるで変えてしまうような不思議な音だった。
そう、その時私が確かに聞いたものは、人が恋に落ちる音だった。
私はどうやら、一目ぼれしてしまったらしい。
木々の梢が、風に吹かれてざわざわと耳心地のいい音を立ていた。
木々の隙間から覗く木漏れ日は、揺れる葉を映し出し、地に落ちた影はその形を変えながら辺りを明るく照らしている。
うららかに差し込むその光は、宙を舞う砂埃に反射し、光のカーテンさながらだった。
そんな神秘的な風景の中に、たった一人の少女が映っている。
緑竜の奥で腰を抜かし、足を折り曲げ、座り込むように倒れこんでいた一人の少女。
まだあどけなさの残る、幼い顔つき。
その可憐さは、どんな花にでも例えることは難しかった。
私を見上げる形で、そのつぶらな両眼には、小さな滴を数滴浮かばせる。
その滴が頬を伝ったとき、私の心は再び大きく波打った。
その光景は、まるで美術館に飾られた絵画のようだった。
今すぐにでもこの風景を記録できるものが欲しいと願いながらも、生憎持ち合わせのない私は断念せざるを得ない。
視界の先で私に気づいたらしい人の子は、驚きからか、おぼつかない手足を必死に動かし、ずりずりと後退し始めてしまった。
私はとりあえず、女の子と対話を試みることにする。
完全に怯えてしまっているらしい人の子に、私は怖がられないよう笑顔を浮かべ、歩み寄る。
「もう大丈夫だよ」と優しい声で語りかけながら手を差し出す。
しかし、近づこうとする私に対し、限界まで目を見開いた人の子は、血相を変え、手足をばたつかせて後ずさった。
「やぁ......あ!こない......で!!」
その悲鳴は、静まり返った森の中に何度もこだました。
.......あんまりにもあんまりじゃないだろうか?
私は差し出した手を硬直させる。
私の、安心を誘うために浮かべた暖かい表情とは対照的に、人の子はその表情を、真っ青に染めていた。
恐怖一色に染まったその顔に、涙を垂れ流して限界まで顔を歪める。
「殺さないで!!殺さないで!!!」
悲鳴じみたその叫び声は、森の中を反響した。
四肢を必死にばたつかせ、私の接近を拒絶する。
......どうしよう。
まるで話せる状況じゃない。
それに、折角助けた女の子にここまで拒絶されるというのは、かなり心に刺さるものがある。
私は必死に笑顔を浮かべて近づこうとするも、人の子はその距離の倍後ずさり、余計に恐怖を露わにする。
人の子は張り裂けんばかりの叫び声を絶え間なく上げ、しまいにはその地面を生温かい水分で満たしていった。
......こりゃだめだ。
落胆のため息をつくと、
私は会話を試みることを断念し、打開策を見出すため、状況の整理に努めることにした。
まず、人の子は何にここまで怯えているのか。
相変わらず絶叫する人の子の視線の先にいるのは私。振り返っても誰も–––
と言いたいところだったが、そこには竜の躯があった。
......あれだろうか?
しかし、少し思案したのち私はその可能性は除外する。
なぜなら、背中を向けて横たわるその屍は、
こちら側からは喉の切り傷など見えず、血の一滴さえも伺えない。
それはまるで眠るようにそこに鎮座してる。
ただ横たわるだけのその屍に、命を乞うほどに恐怖するだろうか?
恐らくは可能性が低いだろう。
......となればやっぱり私に怯えているのだろうか。
思い当たる節は、そりゃ勿論ある。
だって今私返り血でびっしょりだし。
だからと言って、そこまで怖がられる事もあるだろうか?
だって、私はこの子を助けたいわば命の恩人。
感謝こそされど、怖がられる所以はないはず。
もちろん、それは私視点の話であって、彼女がそう認識していなければ意味が無いのだけど。
もしかすると、彼女にとっては緑龍の命を奪った私をみて、その次には私が殺されるのだと勘違いをしたのなら。
それならばまだ納得できる結論だ。
けれど私はそんなにも怖い見た目をしているだろうか?
私は、恐怖に顔を引きつらせる人の子のその瞳を見た。
涙で顔を歪めようともにじみ出るその愛らしさに、吸い込まれるような淡いオレンジ色の瞳。
しかしその時、私はその瞳に写っているものを見て、ようやく理解した。
理解してしまったのだった。
怖い見た目、そうだ。その通りじゃないか。
......私は改めて、普段なら気にしないような、自分の容姿を確認する。
誰もが羨むような、すらっと長い美脚。
腰から胸にかけての引き締まった体躯。
胸には控えめなふくらみが2つあり、その慎ましさが、より一層私の美貌を際立てている。
手足を露出させる青く半透明なスーツは、その完璧なまでの体のラインを強調していた。
......しかし、私の美しさを語るには、これでは足りなかったのだ。
くびれた腰から生えるのは、4対の蜘蛛足に、それを覆うベール状のスカート。
背中からは空色の8つの触手が伸び、それぞれが意志を持ったようにうねっている。
プルンと艶やかな唇に、ツンと高い鼻。
ほんの少し吊り上がった大きな2つの目に、その周りに広がる丸い8つの目。
そしてその極め付けには、その要所要所を返り血で染め、今もぽつりぽつりと、体から真っ赤な液体を滴らせていた。
そして、その血に染まった凛とした顔つきは、誰もが一目置くようなオーラを放ってる。
ほら、いまだって物理的に一目置かれて......
......。
もう何も隠せまい。とぼけようにもとぼけれまい。
私の端麗さというものは、それ確かなものなのだけど。
......だけど。
しかし、すっかり忘れてしまっていたのは、この世界ではそれが普通だから。
けれどそれは、日本語を話すこの少女にとっては、それこそトラウマ級の異形が、真っ赤な液体を纏いながら、目の前に立っていたのだ。
そんな異形が、深い笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてきたのなら、どうだろう。
私はすっかり忘れてしまっていたその事実を、再び噛みしめたのだった。
そうだ。そうだった。
–––––––––––––私、化け物だった。
執筆中にパソコンのモニターが壊れてしまった為、またしばらく失踪します。