予兆
男には名声がなかった。カネがなかった。社会的信用もなくなった。
肩書と呼べるものはなくなり、資産というべきものはなく、縁者と呼ぶべき人間関係も持たなかった。
いわゆる無敵の人といえる存在になったのだ。
男には学歴がない。一応時代の流れで最低限の大卒という水準はクリアしているが、それ以上の価値がない。
男には資格もない。一応取得はしているものの、自動車免許はいわゆるペーパードライバーに類するものであり、自動車自体は所有すらしていないのだ。
男には職歴さえない。あるにはあるが、懲戒解雇ならば歴ナシの方がマシかもしれない。
「途方に暮れるというのは、こういうことを指すんだろうか」
人通りの絶えない交差点の、しかしちょっと外れたところに佇む中年男は行く当てすらなくなっていた。
今すぐ大災害でも起きれば多少は慰めになるだろうか、どうせ再起なんてできない人生となったならば、大混乱する社会に紛れて消えゆくのも悪くはない。
―――そんな願いで良いのか?
悪魔の囁きが過る。
心の内にある願いを勝手に聞き届ける存在がいるとすれば、そいつは確実に善良なる存在ではない。
では、外に出した願いを聞き届ける存在がいたとすれば、そいつはどうだろうか。
善良であると断定できるわけではないが、善良でないとも断定できない。ともすると善良である必要すらない。
男は善良であったかもしれない。しかし善良さを求められていたわけではなかった。最終的に、男は善良でなかったことを求められたのだ。だから、男はきっと、善良ではなかった。
「ならば……」
―――ならば、社会の求めに応じて邪悪さを発揮すべきではないのか。
いや、違う。
社会が求めたのは力なき邪悪だ。不道徳で邪悪な"男"として罪を背負う役回りを社会は求めた。
邪悪さを本当に発揮することなど求めてはいないのだ。
要は生贄、人身御供。
いや、それも違う。
そんなキレイなものではない。
神の捧げものとなる人に向けられる憐れみなど、"男"には向けられはしない。
"男"なのだ。オスである。群れから捨てられたオスが取るべき行動は、その群れを滅ぼし生存圏を確立することにある。
飼い馴らされた家畜のような本邦の現代人にはない、本能のような闘争心が必要だ。
社会的に始末されたのであれば、その社会を始末しろ。
その日、1人の男が闇に溶けていった。