噂話、知らぬは本人ばかりなり
しばらくしてウィルフレドさんの懸命な励ましのお陰でニコラは落ち着いたようだった。
鼻頭が赤く、目も充血しているが、冷静さを取り戻している。ウィルフレドさんが淹れた追加のお茶のマグを両手で掴んでいる様子は実年齢よりも幼く見えた。
「落ち着いたな」
「本当にありがとうな、ウィルフレド」
ウィルフレドさんがニカッと白い歯を輝かせニコラの背を叩く。
そう言えば、ミーハーな私の親友は騎士様達、特に若い男性が仲が良さそうにしていると大興奮で喜んでいたなんてことを思い出した。
この状況も教えてあげればきっとキャーキャー騒いで喜ぶのだろうけれど、もう彼女と私は会話ができないのだ。生きていればなぁ。
「……俺のいない間に捜査は進展したか?」
ニコラはウィルフレドさんに切りだした。
捜査というと、私の失踪事件の捜査のことだろう。まあ、真実はこうして私は幽霊となっている為、殺人事件が正しいのだが遺体が発見されていないので現状は失踪事件扱いである。
「俺は部門が違うし、担当騎士じゃないから詳しくは知らないけど、まだ有力な情報はないらしいぞ。はい、資料」
ウィルフレドさんがどこからか書類の束を取り出し、机に放る。黒と緑で統一された部屋に白い紙がよく映えた。
ニコラがページを捲るり、目線が素早く紙面を移動する。本が好きなニコラは文章を読むのが早い。
「周辺住民への聞き込みは手がかりなし……」
「不審者?っていうのはいなかったらしいぞ。まあ普段の生活の中ではさほど近隣の学園なんか注視しないから正確性に難はあるが……これだけ洗ったなら外部犯の可能性は低いだろ」
「内部犯、少なくとも学園にどうどうと入っても不審でない人物の犯行か」
ニコラが険しい顔をする。
『学園の人が犯人……?』
私の背筋に冷たい汗が流れた気がした。地面に押し倒された痛みや、刺された苦しみを思い出す。
死んでしまった今、それらに対して恐怖は感じなかったが、私……というか他の人間に対して襲い掛かり、殺害するという身勝手で残虐な行為をしても平然と生活しているような危険な人物が王都に、学園に存在していることに嫌悪感を抱いた。
気持ちの悪さに震えると、頭にずっしりとした重みがかかる。こんなことをするのは一人しかいない。
『何だい?君が散々恨みを結果惨殺されて可哀想って話しかい?僕が暇を潰す間に君のニコラってば立ち直ってるじゃないか。つまらないな』
『何言ってるんですか?ニコラが健やかに生きていることは神に感謝するレベルで喜ばしいことですよ、つまらなくないです………つまらなくない……つまり……つまります……?』
『馬鹿は死ぬまで治らないというけれど、死んでも治らないんだと君と出逢って僕は知見を得たよ』
私とファウストさんの会話は当然、ニコラには聞こえない。
ニコラは真剣な顔をして捜査資料を捲り続ける。
「警備員や庭師、侍女、従僕なんかの使用人連中への聞き取りも半分は終わったのか」
「大きな学園だから、何せ人数が多くてな。最終的には全員の発言をまとめて学園に残っていた生徒や教師をリストアップして、また詳しい捜査をするつもりだ。あと、事情聴取をするのはグレーテちゃんの知り合いの生徒だな。全員に聞き取りをしたいところだが……何せ生徒は数が多いし、教師も含めて大半が上流階級の人間だ。呼び出しをするのも一苦労、貴族社会は慣習が多くていけないよな」
「教師や生徒の聞き取りはまだなのか……」
「昨日国王陛下から包括的な貴族への捜査の許可が降りたばかりだ。本格的には明後日からだな。明日は残りの使用人達への聞き取りで終わるだろうし」
「……失踪事件は早期解決をしないと、いけないにも拘らず……何が貴族の特権だ…」
「歯痒いよな」
奥歯を噛み締めるニコラ。美しいブルーグレーの瞳が潤み、整った焦げ茶の眉が厳めしく歪められている。
『もう君は死んでるから早期解決はしなくていいんだけどね、どっちにしろ変わらないし』
『……生き返るとかできません?あんなに苦しそうなニコラを前にして胸が潰れそうなんです……』
『生き返るのは不可能だ。……それに、君は元から潰れているような見た目じゃないか、気にしなくても大丈夫だろう』
『待ってください、今淑女である私の体型に言及しました?』
私のお胸はたわわではないけれど平均サイズだ、そりゃあファウストさんみたいな超絶イケメンスタイル良しエンジェルは豊満なボディのお姉さんを侍らせて見慣れているのかも知れないけれど断固抗議したい。
『被害妄想だよ』
ふっと、背後から笑ったような声がして、ひょいっと膝の裏に腕を入れられてまた左腕に抱き上げられる。
おかしい、さっきから淑女に対する扱いじゃない。
ニコラ達の方に向き直ると、目線が上になったので、ウィルフレドさんのズボンのお尻のポケットに封筒が入っているのが見えた。
装飾が施された厚紙の封筒だ。
『あれは………舞踏会の招待状……』
私が呟くのと、ウィルフレドさんがそれを差し出すのは同時だった。
彼は気まずそうな顔をして、頭を掻いている。赤い前髪が一房額に垂れた。
「あー……、ニコラウス。こんなタイミングで本当に言いにくいんだが、お前、明日の夜の王弟殿下の帰還パーティーの返事出してないだろ?三日前迄に返事が来ないから宰相様が聞いてこいってさ。家督を継いでない俺と違ってお前は侯爵様だしさ……」
「……それどころじゃなかったんだ、グレーテもいないし出席しないつもりでいた」
そう言えば、私が襲われる一週間前にニコラから銀色のドレスを送られたっけと私は思い出す。薄水色と灰色の糸で丁寧で緻密な刺繍が施された逸品で、デコルテと背中が開いているのが大人っぽくて嬉しかった。
大神殿への留学からやっと帰ってくる王弟殿下は私の成長に驚くだろうという手紙が一緒に入っていてくすぐったいような気持ちになったものだ。
ウィルフレドさんはため息を吐く。
「お前の気持ちも理解できる。グレーテちゃんが気が気でないのも。でも、俺たち王弟殿下の御学友だろ?出ないわけにはいかないだろ」
そう、ニコラとウィルフレドは王弟殿下の御学友である。今上の国王陛下は王弟殿下と親子程も年が離れており、さらに同腹の兄弟ということもあって大層可愛がっていた。そこで陛下が王位を継げない可愛い弟に用意した御学友が名門伯爵家の次期嫡男であるウィルフレドさんと、歴史ある伯爵家である私の実家という後ろ楯のある若き侯爵であるニコラだった。
私もたまに遊んで貰った王弟殿下は穏やかで背の高い御仁で学園を卒業してすぐに王位継承権を放棄して高位神官になっている。
貴族社会から距離を置いたとはいえ、国王陛下との仲が良好で、神殿の中でも権力を持つ王弟殿下のパーティーに欠席するのは良くない。例え、王弟殿下本人がニコラに休息をとって欲しいから欠席でもいいと言う程優しい人だとしてもだ。
ニコラは頭を抱えて下を向く。
「だが、グレーテが苦しんでいるかも知れない中で、俺だけそんな場に出ることはできない……」
絞るように出す声は苦しげだ。
ウィルフレドさんは顔を歪めながら言った。
「……だが、お前の上司が出て欲しいって言ってるんだ。出て貰う」
「何故だ?」
「……グレーテちゃんが行方不明の今、お前にすり寄る奴らの中に何か知っている奴らがいるかもしれないだろう?いいか、内部に犯人がいるなら、無差別に彼女が被害に遭った訳じゃない。彼女が居なくなれば犯人にとって得をするから被害に遭ったんだ。若しくは、彼女自身を犯人が欲した可能性もあるけど……まぁ、そこら辺は5分5分だろう。上司的には前者の可能性もある以上囮として出て欲しいってところだろうな」
「……分かりにくいな…どういうことだ?」
「明け透けにいうと、お前のことが好きなご令嬢か、お前と縁を結びたい親が、グレーテちゃんを拐ったんじゃないかっていうのをお前の上司は可能性として上げているんだよ。正攻法じゃ勝てっこないだろ?だから……」
ニコラが机を激しく叩いた。大きな音に身をすくませる。
ファウストさんは、野蛮だねと呟いた。
「ふざけるな!!そんな理由で、グレーテが…?!そんな、そんな下らないことで……!!許さない、絶対に許さない!!」
彼が腕を振るうと、机の上の植木鉢が落ちた。ガッと厚い陶器と床板が当たる音がする。
「お、落ち着けって。可能性の話だ、あくまで!!」
ウィルフレドさんが恵まれた体型でニコラを抑えた。ニコラとウィルフレドさんの体型が逆じゃなくて本当に良かったと思う。
普段の様子から考えられない程激昂したニコラは、ウィルヘルムさんほど体重差がある騎士でも止めるのを苦戦するほど暴れた。
『君の愛しのニコラは野蛮だね、乗り換えなよ』
腕の上であまりの事態にフリーズしている私にファウストさんが囁いた。甘く低い声が鼓膜に響く。耳朶に付きそうな程近い唇はきっと意地悪に歪んでいるのだろ。
『これは私への愛故の怒りです、これくらいなら余裕で受け止められます』
『こんなどうしようもないものが?上品さの欠片もないのが愛だって?人間は理解ができないな』
『ファウストさんもいつか理解できますよ』
『冗談にしてはつまらないね』
荒い息のニコラが招待状を握りしめている。怒りで震える彼は銀糸とウォールナッツの髪の毛をボサボサにしていた。
普段が格好いい分、怒っていると怖い。
「パーティーには参加する。俺のパートナーはグレーテだけだから一人で。そんなふざけた理由でグレーテに危害を加えた奴がいたら俺の手で捕まえて拷問にかけて、グレーテの居場所を吐かせる」
「一人で参加するのは良いとして、パーティーは帯剣禁止だからな?」
「そんなもの場合によるだろう」
「馬鹿野郎、いついかなるときでも王族主催のパーティーに参加者が武器なんて持ち込んだらアウトなんだよ。落ち着け、お前はただの囮だ。怪しい奴への対処は当日の警備にお前の所の同僚を紛れさせるからそいつがやる。余程のことがない限りその場で逮捕ってのは無さそうだが…事情聴取のための勾留くらいならできるだろ」
「……参加者全員拷問にかけていい。貴族ならやましいところの一つや二つあるだろう。男も女も老いも若きも全員だ」
「お前、狂ったか?」
「正気だ。本気だ。当たり前だ。だってグレーテは今も俺の助けを待っている。きっと寂しいはずだ。早く犯人を見つけないと」
ニコラの握りしめた拳から赤い液体がポトリと床に落ちた。茶色い染みになって、板にこびりつく。
私は堪らない気持ちになった。
ああ、ごめんなさい。ニコラ。
こんなに大事にしてくれているのに私はもう死んでしまったの。
ニコラが一生懸命探してくれてもそこには酷い状態の私の死体しかないの。
貴方をどん底に突き落とすものしかこの先にはないの。
「……焦ってもしょうがない。グレーテちゃんが戻ってきた時に婚約者が犯罪者だと困るだろう?だから強引な手段は取るべきじゃない。分かるな?」
ウィルフレドさんが優しく諭す。
部屋を重苦しい沈黙が支配した。針のように刺々しくて、皮膚をさす程悲痛な空気だ。
『辛気臭いなぁ……嫌になる。グレーテ、もういい?満足?僕そろそろ買い物行きたいんだけど。また明日の朝からストーカーすれば良いでしょ?この二人は絶対にこの調子で一晩中暗いよ、時間の無駄だろう?』
ファウストさんが眉を下がらせて文句を言っている。
私はそれを宥めることが多いけれど、今回ばかりは部屋を退出するのに賛成だった。
ニコラの嘆きを見ることしかできないのは胸が裂ける程苦しい。
『何、変な顔してるんだい、ただでさえ長所が少ないんだから見た目を損ねるような真似は止めた方がいいって言ったよね?』
私の鼻に寄った皺を白魚のような手でグリグリ伸ばす。ファウストさんの温かくも冷たくもない手は擽ったかった。
『じゃあ行こうか』
純白の羽を開いて、私を抱いたままファウストさんは飛び去った。
「グレーテが遠くに離れた気配がする」
「お前、本当に休んだ方がいいよ。まあ、グレーテちゃんが心配なのは分かるけどさ。皆も心配しているし」
「……そうか」
「そうだよ、【初恋の宝石】のあだ名は伊達じゃない。城に勤める大半の騎士も、学園の生徒も優しくて綺麗なグレーテちゃんが大好きだったからな。捜査に協力的だ、すぐに発見できる」
「……待て、なんだその変な呼び方は。大好きだと?グレーテは俺の婚約者だぞ?」
「宝石のような美貌だろう?エメラルドの目、染み一つない透けるような肌。艶やかな黒髪は黒真珠とも、ブラックオパールとも例えられる輝き。俺の婚約者が言ってたよ、あそこまで整った顔だと一周回って嫉妬もしないとさ。おまけに性格は驕ったところがなく、天真爛漫で明るいときた。皆、好きになっちまう。お前のせいで何人の男が失恋したか、可哀想に。大好きくらい許してやれ、お前がいるせいで口説きに行けないんだから」
「……本人に魅力的な自覚がないんだ。グレーテは。困ったもんだ」
「皆協力してくれる。だから、お前もちょっと休め。明日の夜はまた忙しいぞ
「……そうだな」
ファウストさんが私を連れてきたのは貴族御用達の高級店街だった。
幾つもの馬車が並んでいる。家紋の付いているのもあれば、高級感はあるけれど無地のものもあったお忍びというやつだろうか。この街でお忍びというのは相当高位の身分の方だろう。王族か、有力公爵家のような準王族、他国の高位貴族か。なんだかワクワクした。
『夕方でも賑わっているんですね?』
彼は鼻で嗤う。
『健全なお子様……失礼、学生である君は知らないかもしれないけれど貴族というのは基本的に夜型なんだよ。社交をするからね。大・人・の・社・交!』
『お酒を飲んだり、シガールームに行ったり、ビリヤードをするんですね?』
私の台詞にファウストさんがなんだか微妙そうな表情をする。純白の貴公子のような天使様が、どこか居心地の悪そうにしているのに可笑しくて私は笑ってしまった。
『ふふふ、ファウストさん、ごめんなさい。他にもあるって知ってます。さっき馬鹿にされたので意地悪し返そうとしちゃいました』
透明感のある彼の白肌がほんのり桃色に染まる。
『っ君さぁ!』
とっさに顔を横にした彼と鼻柱がくっついた。
銀の目が大きく見開かれ、けぶる真っ白の睫毛がパチパチと動く。彼の瞳の中に悪戯っ子のような表情の私がいる。なんだかそれも可笑しくて口角が上がってしまった。
ファウストさんは呆れたように肩を竦めた。
『君は死ぬべくして死んだね』
『急に酷いこと言いますね?そんなに機嫌を損ねました?』
『違う、人には有り余る顔だと思って。君は国を傾けることができる人間だ。何事も過剰なものは良くない。君が死んだことで君の国は不安の種が減ったからよかったんじゃない?』
『分かりにくいけど、やっぱり貶してます?』
『さあ?』
ファウストさんはメモを片手に店を幾つも回った。なんと店主にはファウストさんは見えているらしく、彼はお金を出して商品を買っていた。
わざわざ魔法で姿を現して買い物をしているのは何故かと聞くと、売買契約を結んで品物を買うためだとか。所有権は何らかの契約を結ばない限り移転しないだの難しい説明をしてくれたがあまりピンと来なかった。
私が左腕に乗っているため、店主から不自然に見えてないか疑問になったところで、店主が良く慣れた可愛い小鳥ですね、逃げないんですか?と、私の方を見て尋ねたことで真実が露呈した。
人に勝手に小鳥に見えるような魔法をファウストさんはかけていたのである。絶対に許さない。
『ねえ、まだ怒っているのかい?いい加減機嫌を直したらどうだい。大人げない』
『ピチピチの18歳で死んだのでまだ子供です、何て言ったって卒業前だったので!大人じゃないから良いんです!』
店主にうちのペットが五月蝿くてすみませんと謝るファウストさん。いえいえ、綺麗な声のコマドリですね。そうなんです、ずっと飼おうと決めてたんです。なんていう会話が繰り広げられ私の怒りは沸々たまる。
私は淑女である。鳥ではなく淑女なのに!
ファウストさんが慌てて怒れる私に耳打ちをする。
『悪かったって、ほら。この店にあるもの買って上げるよ好きなだけ。どれが欲しいんだい?それでいいだろう?』
私は周囲を見回す。
爪留め仕上げが繊細なエメラルドのピアス。
一粒ダイヤモンドが優雅ななデザインのブレスレット。
連なったダブルのハートの中央に大粒のモルガナイトがあしらわれたブレスレット。
ルビーをセンターにメレダイヤがセットされたクラシカルなデザインのリング。
シンプルなオーバルカットのアクアマリンのイヤリング。
どれもこれも高品質で美しいものだ。ファウストさんは拘り派なので良いものしか取り揃えない店にしか来ないのだろう。
私はそっと首を振った。
『気持ちは嬉しいですけど欲しいものはないです』
『まさか、死者になって欲が薄くなるとはいえ、君も人間だろう?宝石だよ、ダイヤモンドでもエメラルドでも好きなだけ買って上げるって言ってるのに?』
『はい』
私の顔を覗き込むファウストさんは呆気に取られたような表情をした後で満足げに唇を歪めた。
『嘘は吐いていないみたいだね』
『はい?まあ、そうですけど。それが何か?』
『僕たちは君らと違って万能だから、人間が嘘を吐いたらすぐに分かるんだよね。魂が澱むんだよ。こういう場では性は強欲で金目のものが欲しいにも関わらず点数稼ぎで、いかにも清貧ですみたいに振る舞う輩がいるんだ、君もそういった類いかと一瞬残念に思ったけど魂を見る限り違いそうだ。まっさらで綺麗だね、こんな人間初めて見たよ。やっぱりグレーテ、君は知能が足りないからポンポン正直に口に出すのがいいのかな』
『よく分かりませんが、馬鹿にしてらっしゃいますね?あと点数稼ぎって何の点数を稼ぐんです?』
『そりゃあ僕の評価を上げたいから点数を稼ぐに決まっているだろう?人間は美しい者から好かれたがるからね。僕の前では皆取り繕う』
『なるほど、私にはニコラがいるので関係のない話ですね』
『……グレーテ、君が頭だけじゃなくて趣味も悪いのが本当に残念だよ』
ファウストさんは宝石店で何点か品物を買って通りに戻った。
お目当ての物は全て手に入れたらしくご機嫌である。アーモンド型の整った目を輝かせれば、人ならざる者特有の銀の光彩がキラキラ光った。
ウィンドウショッピングをしながらニコラの宿舎に戻るらしい。天使様に性別があるのかは存じ上げないが、どちらかというと男性体であるファウストさんがショーウィンドウを覗き込んで楽しげにしているのは不思議だった。母や姉を筆頭にした女性陣はウィンドウショッピングが好きだったが、男性陣は暇そうにしている人が多かったから。
通りの丁度中ほどで王都一の劇場に差し掛かる。舞台が客席に張り出していた形から、オーケストラボックスつきの額縁舞台に改装されたそこは今日も満員だった。
上演されているのは大人気作品の《夏至前夜の幻》。この間私がファウストさんに歌った劇中歌の舞台だ。
『ファウストさん、この演劇有名なんですよ。観ません?話が本当に面白くて……いや、歌も音楽も最高なんですけどね!』
『見ない。話は知ってるし』
『えー、良いですよ、この演目は何回見ても。私も生前は熱烈なリピーターでしたもん。書かれて百年経ちますど不朽の名作ですよ』
ニコラと何回も観劇したし、劇中歌を替え歌にして遊んだこともあった。
『……そんなに好きなのかい?』
『はい!でもこんなに素敵な作品なのに作者は謎に包まれているんですよね……。物語も作詞作曲もできる多才な方だったのに。ただ、それまで売れない劇作家だったのに急にパトロンができて作品の質があがって、ついに《夏至前夜の幻》という作品が完成して、その後失踪したっていうことだけ有名でしたね』
『随分詳しいんだね?』
『好きになったら調べ尽くす人間だったので!生前の話ですけどけど……。作者の失踪直前に、まだ連れて逝かないでくれ!という叫びが彼の家から聞こえたという証言がある事でミステリー特集が組まれるんですよ。彼は誘拐されて謎のパトロンに囲われて死んだとか、彼の元恋人が痴情の縺れで誘拐したとか、嫉妬した劇作家達に襲撃されたとか……』
『ふーん、人間は想像力が豊かなんだね……ほら、名残惜しそうな顔しても劇場には行かないから。諦めなよ』
ファウストさんのすらりとした長い足は歩幅も立派で、賑わう劇場はドンドン小さくなった。
ちなみにファウストさんは通りを白いドレスシューズで闊歩している。翼を使わずに。
こういうのは徒歩で行うのが粋ってもんだよと説明されたが、城から高級店街までは一っ飛びだったのに拘りが分からない。
私は未練たっぷりに、前歌ったのとは別の劇中歌を口ずさむ。妖精に浚われた恋人を女主人公が救いに行くけれど、妖精の世界では恋人は貧しい現実世界よりも幸せに生きており帰るのを拒否する。その女主人公の嘆きのアリアだ。
『何?そんなに観たかったの?辛気臭い歌を歌わないでよ、もっと選曲、どうにかなったでしょ?……それにしても上手いな……高音が揺らがないよね。ちょっとこれに録音してくれない?』
ファウストさんに黄みがかった透明の拳大の石を渡される。内部に傷があり、それが疎らに着火しだした街灯の光で反射していた。
『何ですか、これ?』
『声を録音できる魔法石。握って歌えば後でその声が再生できる。君が一生働いても弁償できないくらい貴重なものなんだから絶対に壊さないでよね』
『おおお、天使様の不思議道具ですね。気を付けます』
再び私は歌い出す。握りしめた魔法石は人肌のように温かい。
一人あばら家に帰る女の心情を歌った切ない歌詞だ。
――待ってもここにあの人は帰らない
――パンや、ミルクの生活じゃ彼は満足できなかったみたい
――色鮮やかな花に素晴らしい食事
――私たちの愛は豊かさに勝てなかった
――身を寄せあった寒い夜も
――湖でふざけあった暑い夏も
――美しい妖精達の前では無意味になる
――愛は永遠に……
『あ』
『え、何。ちょっと。録音中に止めないでよ』
『歌詞を間違えました』
いつも替え歌で――愛は永遠に……叶っちゃうもんね!ニコラ!愛してる!と歌っていたのが仇になってしまった。いつもふざけていたから身体にそちらが染み着いていたらしい。
本来は――愛は叶わない、永遠に彼は去ったのだ、という悲しい歌詞なのだが、やってしまった。
『録音を消去するのに手間がかかるって知っていて間違えたのかい?というか歌詞くらいちょっと変でもいいから歌いきってよ。プロ意識が足りないな』
『だって私、ただのご令嬢ですもん』
『開き直らないでくれる?本当に最悪』
『むむむ、ファウストさんそこまで言わなくて良いじゃないですか!録音はサービスですよ!感謝こそすれ、怒られる謂れはないです!』
ファウストさんの片眉が上がる。
『ふーん……まだ君は自分の立場を理解していないようだ。僕の温情でこうして君のニコラの側にいれるんだよ?幽霊のグレーテちゃん』
意地悪そうな笑みはファウストさんの清らかな美貌に似合わなかった。
『ぐ、ぐぬぬ。また痛いところをつく……』
結局私はその後、帰り道の途中で別の魔法石を握ってもう一回歌わされた。
辛気臭いのが嫌いと言っていたから情感たっぷりにジメジメした暗い嘆きを表現してやったのに、何故かファウストさんは満足げだった。
なんか悔しい。