私だけがいない町を歩いてみよう!
中庭から出た私達は静まり返った校舎を抜け、閑散とした学園前通りを歩く。
心なしか閉まっている店が多いようだ。
女子生徒で大盛況のカフェも営業していない。メレンゲののったココアが美味しかったな。もう飲めないけどね。
『学校に誰もいませんでしたね…。通りも賑わいがなくて。平日なんですけど、おかしいですね』
『まあ、君が殺されてから、学園は封鎖されているからね』
『ここら辺は学生街だからお店を開けてないんですね』
話しながら、いつもの通りを歩く私。
飴色の光が反射するタイル敷きの道の上で、革靴が立てる足音だけがない。
『そういえば、私っていつ発見されました?今日の朝とかですか?』
『事件が公になったのが、2日前』
『え?!あれから何日経ってるんです?』
『あの夜からは3日。あと君の体はまだ発見されていないよ』
『そんなにですか…なんで体が無いんです?』
証拠隠滅だろうか?
私の記憶が正しければ最後にお腹に激痛が走ったような記憶がある。
何かで刺されたと推測しているのだけれど、証拠を残したくないなら絞殺でよかったのではないだろうか。
刺殺って血痕とか飛び散るので後始末に困るのでは?
『さぁ?僕は殺した訳じゃないし、人間の気持ちなんて知らないよ。ここに致死量の血痕があって、いくつも血飛沫の後が飛び散ってて、血塗れのナイフがあって、君が行方不明になった。君が事件に巻き込まれて恐らく無事ではいないと騎士団が捜査しているけれど、それだけだ』
『え、それって滅多刺しにされたってことですか?私が何をしたっていうんです?』
善良に生きてきたのにそんなに恨まれるものなのだろうか。
お婆さんが道端で困っている時には重そうな荷物を持つタイプだし、家で飼ってるのは保護猫だし、隙あらば外国人に道案内していたし、慈善活動だって人一倍やってきたのに、なんだか納得できない。
『まあ、僕も君を見ているとめちゃくちゃにしたくなった犯人の気持ちも分からなくはないとは思うけどね』
なんと、天使様からまさかの言葉に私は絶句した。
『そ、そういうものですか……私の善行ポイントはまだまだ足りていなかったんですね。殺されたのは仕方がなかったんですか……。なら、せめて。体だけでも早く帰って来て欲しい…!!』
『君はもう魂だけだから肉体とは縁が切れているんだけど……拘る必要あるの?』
『せめて体くらいは家族とニコラの元に帰りたいです。私は帰る前に死んじゃったので』
『ふーん』
「いってきます」と、朝には家族には挨拶したし、前のデートではニコラに「またね」と言ったのだ。永訣することになったけれど。
生きている間にもっと「大好き」だと、「愛している」と、「感謝している」と伝えれば良かった。来世の私に可能ならば、毎日が最期の日だと思って生きて欲しいと伝えたい。
『というか、私の死因って結局刺殺なんですか?首を絞められた記憶もあるんですが……その後ナイフでザクザクに作戦変更だったんですか?準備万端じゃないですか』
『そうだよ。首は絞められた。でも君の死因はそれじゃない。その後で気が変わったんだね。準備してたのか突発的な犯行かは知らないけどさ。人間って意外と長時間きっちり締めないといけないから作戦変更の猶予があったんじゃない?』
『絞殺の時間……私が一生使わなそうな知識の解説ですね』
『何言ってんだい。君はもうとっくに一生を終えてるよ』
ファウストさんの口が意地悪そうに弧を描く。
『補足すると、首絞めって長時間苦しいし、万一生き残っても後遺症が残るし、体液垂れ流しで死体は汚いし自殺にはおススメできないね。首吊り自殺なんてすべきじゃない。人間は醜く足掻いて生きるべきだよ。迷ったら参考にしてね』
『迷うも何も、私はもう死んでいますけどね。死者にジョークですか?傷ついたらどうするんです?』
『話している限りだと君の精神は鉄よりも硬そうだけど……。それで死因に話を戻すけど、首を絞めてる最中に君の顔を確認したら憎すぎて思わず刺しちゃった。それでやってみたら爽快だったから滅多刺しとかじゃない?……あくまで予想だけどね。僕は君が殺された瞬間を見ていないから』
『そんなに恨まれてた自覚はないんですけど』
口を尖らせる私。ファウストさんに思いっきり両の頬を摘ままれた。
めちゃくちゃ痛いし、こんな時でも繊細で白魚の如く美しいファウストさんの指先が妬ましい。
『足を踏んだ方は覚えてなくても踏まれた方は覚えているものだよ。……現場には血が飛び散ってたからね。生きてる人間を刺さないとあんなに現場は汚れないんじゃないかな?血流とかの問題で。だから、死体を傷つけた訳じゃないしと思うよ』
『凄惨な光景だったんですね……ところで体も無いのによく事件って分かって捜査しましたね?赤いペンキで校舎を私がデコレーションして、家出したって可能性は考えてないんですかね?』
頭が痛いんだけど、と、文句を垂れながら眉間の皺をに伸ばそうとするファウストさんは凄まじい艶っぽさであった。
『……君が発想力豊かなのは分かったよ。あのね、そもそも血液は物凄い特徴のある体液なんだよ。匂いもそうだし、成分もそうだし、騎士が見間違えるわけがない。家畜の血で……って可能性もなくはないけど、校舎に無断で侵入して血塗れにした時点で大事件だから、行政は黙ってないでしょ。あそこ、一応王立だから。校舎は公共物でしょ?』
『確かに』
『そこに、ナイフと…あと、君の私物もあった。犯人も詰めが甘いよね。そして私物の持ち主である君が行方不明。これで捜査しないほど騎士団は無能じゃないんじゃない?』
『そうですねぇ』
お厳しい一部の市民の皆様から税金泥棒と批判されることもあるが、基本的に騎士団は真面目に働いている故に、めちゃくちゃ忙しい。ニコラなんか幹部候補だから10連勤以上はザラだった。私とのデートも貴重な半休や全休の日に誘ってくれていたが、別れ際やデート中に同僚に引っ張られて事件の捜査や、国賓・王族の護衛に駆り出されていることがあった。
良く考えなくても、当然捜査しているだろう。
『それに、現場は王のお膝元、お偉いお貴族様と、頭の良いエリート平民の為の名門王立学園。場末で破落戸が野垂れ死んだのとは訳が違うんだよ』
『そういうものでしょうか。同じ命なのに不平等な扱いを受けるのは、嫌な世の中ですね』
『何言ってんだい。人間の中では伯爵令嬢とやらはお偉くて高貴なんだろ?』
『他の方と大して変わりませんよ』
確かに私の父は伯爵だけれど、私は特別偉い訳じゃない。
領民が餓えなかったのは父や兄、それから補佐官達のお陰だし、家が存続しているのは社交をしてくれている母や姉のお陰だ。
食べ物があるのは農家の方のお陰だし、着飾れるのは職人さんのお陰。
皆が役に立っている中で私は伯爵令嬢という役割があるだけである。
『……大して変わらない、ね』
『どうかしました?』
『……君って賢いのか阿呆なのかたまに分からない発言するよね』
ファウストさんは金剛石の如く煌めく白銀の目で遠くを眺める。色が薄い分、映りこんだ周囲の景色が彼の目の中で美しいまま閉じ込められたような印象を受けた。ニコラの虹彩も薄い色だったと、懐かしくなる。デート中に彼の目の中に映る私が好きだった。
『何度でも言いますけど、試験の結果はそこそこよかったです。あ、この大通りを真っ直ぐ進んで突き当たりがニコラの家ですよ』
『君たち幽霊は飛べないんだね、不便だな』
ファウストさんはそういうと翼を広げ、瞬く間に宙へ浮かんだ。光を反射する純白の両翼のえもいわれぬ素晴らしさ。
王都の大聖堂に設置された彫像のような造形美。何故、わざわざ高額な美術品を購入して祈りの場に置くのか長年謎だったが、美しいと人はそこに神聖さを見いだそうとするのだと、ファウストさんを前にして疑問が氷解する。
私は思わず拍手をした。
『すごい!ふふ、でも飛べるのになんだかんだ私に付き合ってゆっくり進んでくれるのでファウストさんは優しいですね』
『……急に変なこと言わないでくれない?鳥肌が立つ』
羽根も鳥っぽいですし、鳥ギャグですか?白鳥ですか?と聞いたら無言で叩かれた。あと、翼も仕舞ってしまった。
ひどい。肉体言語の前に言葉で注意してほしいと思う。
私達は道なりに進んだ。
透け透けの幽体の身ではあるが、家を透過して最短距離で移動しないのは私が他人のプライバシーにも配慮したい大人の女性であるからだ。
あと、仮に通り抜けたお宅の壁の向こうがトイレの場合に、用を足している方と遭遇するリスクがあるのを回避するためでもある。
私は純粋な乙女であるからして、見知らぬ男性の下半身なんて目撃してしまった日にはショックで立ち直れないのが予想できているからだ。
『もうちょっと先です、ニコラの家って徒歩でいけるくらい学園から近いんですよね』
ここ一年くらいは実家よりも学園から大分近いニコラの屋敷から結構な頻度で通学していた。彼の屋敷には私用のお泊まりセットが常時準備してある。
『君さっきからニコラニコラってそればかりだね。死んだ後は人間は真っ先に家族を心配するもんだと思っていたけど、グレーテは違うの?虐待でもされた?』
『まさか!優しくしてくれましたよ、大好きな家族です』
『じゃあなんで?恋愛脳だから婚約者だけが未練なの?』
わぉ、辛辣。
『うーん…確かに人によってはそう捉えるかもしれませんね』
『僕は人じゃないけどね』
私は不思議と家族の心配は頭になかった。遺していくことに未練もない。
『なんとなく理由はありそうな感じなんですが、説明が長くても許してくれます?』
『道中暇だから聞いてあげてもいいよ。君はお馬鹿だから難しいかも知れないけれど、可能な限り手短にね』
『ど、努力します……私が伯爵家の末っ子だってことはお話しましたよね?』
『甘やかして育てた弊害でこんなポジティブモンスターが爆誕したんだろ。続けて』
『それで兄姉が一人ずついるんですが、結構年が離れているんです。二人とも結婚して既に家庭があります。とても円満で…私には可愛い甥っ子が3人もいるんですよ。父と母も健在で、二人は私がニコラに嫁いだら兄に爵位を譲って田舎でのんびりするって宣言していました』
実家では現在兄夫婦と子供達と私の両親が同居中である。私に甘い両親だが、孫である甥っ子達には輪をかけて甘い。
姉夫婦にも去年、念願の初息子が誕生して家族が揃うパーティーはさらに賑やかに、明るくなった。
『幸せ家族ってわけだ』
『そうですね、私の夭逝が記念すべき初不幸です。実家はこんな感じなので、何も心配ないんですよ。可愛がられていたので、とんでもなく嘆いてくれると確信はしていますけど。それよりもニコラが心配なんです』
『つまり、君が大好きなニコラ君は実家とは反対に不幸まみれの境遇ってわけだね?』
『幸、不幸の定義は人によりますが……ニコラはご両親を随分前に事故で亡くされているので、私まで亡くしたら気に病んでしまう気がして。お友達はいるはずですし、何より私の家族とも親戚で仲良しなので彼を慰める人はいるはずですが』
『ふーん……』
『あ、ここです。このお屋敷です!入りましょう』
何時ものように呼び鈴を鳴そうとして、私はファウストさんに呆れられる。侯爵家が代々受け継いできた由緒あるお屋敷は規模こそ私の家と同じだが、門の構えや、庭の装飾、外壁の意匠の一つ一つに創意工夫を凝らしており、歴史の厚みと、財力の差が見てとれた。
丁度、中から箒を持った女性と、片足を引き摺った中年の庭師が裏口からこちらに向かってやってきた。
私とファウストさんは顔を見合わせて彼らに接近する。
「旦那様は今日は帰ってらっしゃるかしら」
女性の方は長くこの屋敷に勤めているベテランのメイドだった。掃除と洗濯のエキスパートである彼女にはニコラの家で隠れて遊んでいた際に何回か匿ってもらったことがある。
「帰ってこねぇよ。しょうがねぇだろ。最愛のグレーテお嬢様が行方不明だ。旦那様は気がきじゃねぇだろう。休むなんてできねぇさ」
粗野な口調の庭師は心配そうに続ける。彼はニコラの屋敷に侵入しようとした泥棒を片足を犠牲にして捕まえた忠誠心の厚い男で、ニコラを大層可愛がっていた。
「……あれって本当なのかしら。町の噂の、学園が血だらけって」
「馬鹿!滅多なこと言うんじゃねぇ。嘘に決まってるだろ。グレーテお嬢様は無事だろ。俺らにとっての次の奥さまはあの子しかいねぇ」
「そりゃあ、私もそう思っていますよ!でも、あんなに可愛らしい子だから変な輩が狙ってたんじゃないかと、私は不安で不安で―――」
二人には申し訳ないけれど、私は既に死んでいる。私の生存を祈っている二人の会話をこれ以上盗み聞きするのは心苦しいので、その場をそっと離れようとファウストさんに申し出た。
『どうやら自宅にはニコラはいないようですね。少し様子を伺ってから移動しましょうか』
心なしか普段より暗い邸内に使用人達は口々に屋敷に一切帰らない主人と私の安否を心配しているようだ。
お邪魔して、一通り使用人たちの話を立ち聞きしてから、私とファウストさんは屋敷の前に戻ってきた。
大通りは明るく人が闊歩している。
『ニコラはどこに行っているんでしょう…』
『家以外に心当たりないの?例えば浮気相手の家とか』
『う……』
私はショックで呻く。
心臓に激痛が走ったような気がしたのだ。まあ、私の臓器は漏れなく完全に全部停止しているけど。
『……冗談だよ。君、本気にしたの?……あんなに使用人達にまで伝わる溺愛をしている男がそんな器用な真似をすとは思えないんだけど』
『……え?今なんて言いました?ちょうど風がすごい勢いで吹いて、後ろの方が聞こえなかったんですけど』
ファウストはため息をついた。
『……まあ、いいや。今日は平日の昼間だろう?人間は働く時間だ。職場じゃないか?』
『その通りです!死後3日経過しているのを失念していました。今はお仕事の時間でした……!ファウストさん、さすがです』
『しっかりしてくれよ……あと、君の恋人が家に帰って来ないの理由は、僕には検討もつかないよ』
『……そういえば、騎士は勤め先であるお城の宿舎に一室貰えるって話して貰った記憶があるような』
ニコラは基本的に毎日王都の屋敷に帰宅するし、私を家に招く際も、休日もいつも屋敷で過ごしていたからすっかり忘れてしまっていた。
『それ、早く言ってくれない?とんだ無駄足じゃないか』
『ニコラが学園を卒業して騎士になって、お城に勤めだしたのが私が10歳位の時で、その時に教えて貰ったキリなんですよ。しょうがなくないですか?』
『遊びに行ったことないの?』
『私、お城に差し入れとか、忘れ物届けに行くと何故かすぐに帰るよう叱られるんですよね。』
ファウストさんがわざとらしく目を見開いた後、大袈裟に首を振ってみせた。舞台役者のような振る舞いですら、彼は美しい。
『可愛そうなグレーテ。それは城にやはり愛人がいてばったり出くわさないように……』
『その説は違うって流れだったじゃないですか!何回も意地悪言わないで下さい!!』
冗談でも聞きたくない台詞が続きそうだったので私は言葉を遮る。ファウストさんは白い歯を覗かせて愉快そうに笑った。
悪戯好きの悪ガキのような表情だった。美貌に似合わない表情だと思った。
彼を無視して私はこれからの考えを巡らせる。職場のお城に向かうのは決定なのだが、いかんせん遠い。
のんびりしていたら日が暮れてしまいそうだ。
私は人の子の無力さを実感したので素直に、にやついているファウストさんに相談する。
『ファウストさん、どうしましょう……ニコラの職場が遠いんです』
『馬車でも何でも乗ればいいんじゃないかい?君の脳内には徒歩しか選択肢がなかったの?君って本当に生前人間だったのかい……?犬とかじゃ……?』
『え……?乗り物って乗れるんですか?幽霊って壁、通り抜けちゃいますよね?』
口をぽかんと開ける私にファウストさんがズイッと顔を近づけて目を細める。
整いすぎて眩い顔面が鼻先にあるのでドキリとした。
パーソナルスペースを物凄い勢いで侵害されているのが理由かもしれないけれど。
『……君に付き合って亀のようにちんたら歩くのは御免だよ。乗り物に乗るコツくらいはサービスしてあげるよ、おいで』
『え、コツがあるってことは何らかの技術ですか?悲しいお知らせなんですが、私、結構不器用でありとあらゆることの習得に時間が……』
どんくさいのを自覚している私はアワアワする。
楽器・裁縫・運動など、私は全ての器用さが必要な技能から見棄てられているのだ。
そんな私にファウストさんは頭をガシガシ掻きながら文句をつけた。
乱れたじかはずの髪型は彼が頭部から手を離すとスッと元のセットに戻る。形状記憶のへアセット。人外なんだなと実感させられる。
『あーもう。僕は優しいけど、愚図な君に付き合えるほど気が長くないんだ。黙っていればそこそこ見栄えが良い顔しているんだから、静かに立ってて。口開かないで』
『愚図……』
『凹まないでよ、面倒だな』
『……なんでこんなにストレートな物言いなんだろう、きっとファウストさんはお友達も少ないに違いないとは思ってないですよ』
愚図なんて初めて、面と向かって吐かれた台詞である。ひどい。おっとりしているとは頻繁に言われたけれど。
『僕は嘘は嫌いなんだ、思ったことを言って何が悪いの?さ、サービスしてあげるんだから……おいで?』
蠱惑的に私の耳元で囁く。
私との会話の隙にぶつぶつと虚空に向かって呟いていたファウストさんは、どうやら呪文を唱えていたらしい。
胸と胸がくっつく位まで更に近づくと、ふにっと柔らかい感触が降ってきて、私は彼におでこにキスをされたと理解する。
それと同時に体が芯からじんわりと温度が上がった。
『おお、ありがとうございます、効いてきた感じがあります』
『……これでも僕って人間から美しいと評される外見なんだけど、さっきから君って全然照れないね。リアクション、残念すぎないかい……?』
『そうですかね?』
『人間の女はキスをすると真っ赤になったり、恥じらったり、憤慨したりするって経験則があったんだけど』
首を捻るファウストさん。
そう言われてもおでこにキスなんて挨拶じゃないだろうか。
そりゃあ脂ぎったおじ様に唐突にされたら不快になるけれど、基本的には挨拶の一種だろう。
『父にも、母にも、兄にも、姉にも、ニコラにも、親友のエレノアにも、昔は教会の先生達や保護された子供達だって、隙あらば額に口づけてきたので、あまり抵抗感はないですね。ファウストさんのことは私にとって1ヶ月地上に残る時間をくれた大恩人なので吝かでないという気持ちであります』
『……僕に、人間にとっての接吻の意味を再考させてくれてありがとう。やっぱり、君って生前、凄い人懐こい犬とかじゃなかった?』
犬は個人的に可愛いので大好きだけど若干貶されているような。
深く突っ込んではいけない気がしたので私は話題を変えた。
『それで具体的にはキスの前と後で何が変化したんでしょう?』
ファウストさんは得意気に鼻をならした。
なんだか意地悪だし、偉そうだけど、ちょっと可愛げがある人だなと思った。
ああ、でも、ファウストさんって人じゃないんだっけ。
『意識的すれば物体の上に存在することが可能になったはずだ。階段を上ろうとしてすり抜けて落下したり、馬車に乗ったはずなのにすり抜けて道端に置き去りにされたりするのを防げる』
なるほど、話を聞く限りだと魔法をかけてもらう以前は人間の日常動作ですらままならない可哀想な身の上だったらしい。
『幽霊ってデフォルトだと不便なんですね』
『そもそも地上で生活することが前提の存在ではないからね。ああ、いいところに来た。あの馬車にしよう』
ファウストさんは呆れたように溜め息を吐いてから道の先を指を指した。
カタカタと馬と籠を繋ぐ連結部分から音が響いている。
『え…でも………』
『……ご不満ですか?お嬢様は』
まさに慇懃無礼と言った口調のファウストさん。
しかし、私は抗議したい。
こちらに接近してくる黒い影は、どう見ても荷馬車であった。
座席もなく、箱が幌のなかに積まれているだけのもの。恐らく食料か備品を運んでいるのだろう。
貴族令嬢の端くれである私は意味が分からない。
サスペンションのついたフカフカのシートまでは所望しないけれど椅子のない馬車ってどうのればいいのだろう。箱に入れとでもいうのだろうか?
困惑する私を一瞥してからファウストさんが続ける。
『あの馬車には君たちの国の王家の紋章だろう?方向的に城に納品にいく道すがらだ。何を迷ってるんだ。ほら、乗るよ』
『え、でも座席とか……』
口をモゴモゴさせる私にファウストさんがデコピンをした。
痛い。
めちゃくちゃ痛い。小気味よい音がした。
さっき叩かれた時に薄々予感していたが、この天使様、麗しい月光のごとき美貌のわりに暴力的であった。
『君さ、本当にお馬鹿だよね?君、幽霊。座席、いらない。風圧とか、感じない。死んでる分際で、贅沢言わない。お分かり?』
そう言うとファウストさんは私を抱えあげて跳躍するではないか。
『ひ、ひぇえ~~』
煩いと、文句を言うと馬車の幌の上に彼は着地した。
筋肉もないのに恐怖で小鹿のように足が震える私を幌の上の縁に座らせる。
透ける足の下で御者台があった。赤ら顔の男が、賢そうな芦毛の馬を操っている。
馬は振り返るようにちょっと首を曲げて足を止めたが、すぐに何事もなかったかのように駆け出した。
もしかして動物は幽霊を知覚できる?
それとも偶然が重なっただけだろうか。
『ったく……いちいち手間をかけさせないでよね』
『こ、怖かったですよ。人間ってあんなにジャンプしないんですよ。知りません?』
『知ってるけど。というか。やめてよ、上着の裾引っ張るの』
私の手は恐怖のあまり彼のスーツの裾を握りしめていた。
純白のスーツだから、手汗が私にあれば残念な感じになっていただろう。
『ごめんなさい。伸びちゃいました?』
『いや、僕の服は人間のやつと違って伸びないけど』
『じゃあなんでです?』
『なんとなく不愉快だから』
片頬だけあげて意地悪そうな笑みを浮かべるファウストさん。
でも、無理矢理私の手を振り払わない当たりに優しいですね。
そう、発しようとした途端、察知したのか、照れ屋なファウストさんに御者台に突き落とされそうになったので彼の評価を改めるべきか真剣に悩んだ。