その隣人にへつらう者、彼の足の前に罠を張る
私とファウストさんが夜会参加者の頭上で浮遊しつつ喋っている間にも、ラウラと親友は正面衝突し、対立は激しさを増してった。
罵りあいとまではいかないが、淑女の夜会のマナーとしては若干アウトの様相を呈し始めている。
ああ、私がいつもみたいに仲裁できればなぁ……。
「私は、ただ。ニコラウス様がパートナーがいらっしゃらないようでしたから、気がかりで声をかけただけなのにノール侯爵令嬢が大騒ぎにして……」
舌戦で口紅が剥げかけのラウラ。だらしない様だが、隙のある様子は艶っぽくもある。その唇は本来の色も、もぎたての果実のように赤い。
「それは、大きなお世話というものでは?ライト侯爵にはグレーテがいますから」
きつい口調で言い返す親友は元来厚化粧を好まない質であるおかげか、化粧が乱れた印象がない。それが隙がなく強そうな印象に繋がっている。
ラウラは口を結ぶと、迷いを断ち切るように一息に言い切った。
「そうなんですか?私はてっきりお一人でいらしたから新しい婚約者をお探しになられるのかと……それとも喪が明けてからかしら?」
場の空気が凍る。
静観を決め込んでいたニコラの眼差しが絶対零度のものになる。通常時はシャープな目元のハンサムであるだけにとても怖い。咄嗟に利き手を腰付近にやっているが、それは普段剣の柄がある場所ではなかろうか……。
精悍な騎士姿で参加者の中に護衛として紛れ込んでいるウィルフレッドさんが汗を拭いながら必死でハンドサインを何回も送っている。
雑学が豊富なファウストさんの解説によると、あれは、騎士間で通じるサインで、落ち着け、任務中、作戦続行せよの順に繰り返しているらしい。
一方の親友は薄くて柔い肌を怒りで真っ赤にさせている。ファンデーションが薄づきの分血色がよくわかる。
周囲の貴族も言葉が失ったように静まり返った。流石に私の事件は話題にしないだけで皆知っていたのだろう。
人垣の奥に発見した、普段からのんびりしている食いしん坊の兄が鋭い視線をこちらに投げ掛けていた。
「あんた、あんたねぇ……!なんてことを……!!!」
ご令嬢失格の乱暴な口調であるが、親友を咎める者はいない。
「喪が明けてって、本当に最低!グレーテは無事に決まってるでしょ!私の親友なのよ!深窓のご令嬢みたいな顔をしてあの子はしぶといんだから!足癖も悪いし、打たれ強いし、まだ帰ってきてないだけで、すぐに……!」
途中で親友は言葉を詰まらせる。
真ん丸に削ったサファイアのような目から音もなく雫がポロポロ溢れた。水滴が頬を伝い、顎の線をなぞり、床へ落ちていく。
彼女ご自慢の緩巻きの金髪も心なしかしんなりしている。
ああ。ごめんね、親友。もう私、帰れないんだよね。私もつられて悲しくなった。
同級生のご令嬢の何人かは貰い泣きをしたせいか、ハンカチを取り出して化粧室に駆けていく。
「夜会で泣くなんてみっともないですわ。ノール侯爵令嬢ともあろうお人が。ニコラウス様は侯爵なのですし、万が一があったらお家の為に新しい婚約者を探すのは自然でしょう?私は可能性の話をですね―――」
周辺の人々の好奇や嫌悪の視線に晒されて肩を揺らしながらラウラは続けた。
常識外れで非礼な発言だが、ラウラは何がしたいのだろうか、頭は悪くなかったはずである。盲目になるほどニコラが好きなの?
しかし、先ほどからニコラの鋒のような威圧に距離をとっているような……
王家主催の夜会、主賓がでてきてもいないのに最悪の空気になってしまった今シーズン1の不祥事の現場に好奇心で立ち会わせてしまったことに無関係の貴族の皆様が後悔し始めたその時、それまでニヤニヤ二人を眺めていたファウストさんが背後を振り返った。
『おや?また新しい小娘が参戦してくるようだよ。ああ、さっきの娘だ』
「ノール侯爵令嬢、ラウラさん、お止めになって。今日は王弟殿下の夜会ですのよ」
鈴を転がすような可憐な声が仲裁に入る。
鳶色の背筋まで真っ直ぐ伸びた髪。真っ直ぐ切り揃えられた前髪が幼く可愛らしい印象で、殆ど露出のない珍しいエンパイアラインのドレスが高貴で清楚な雰囲気を醸し出している。曇ったように鈍い色相の淡青に染められた気品ある生地に繊細な刺繍が施されているので華奢な彼女は妖精のようである。
同級生で公爵令嬢のジュリエッタだ。
先ほどまでは弟にエスコートされていたが、今は彼女の父で篤志家である公爵が支援している平民出身の学園教師、マーロウ先生が彼女をエスコートしていた。
未だに婚約者がいないジュリエッタだが穏やかな性格と清楚で禁欲的な見た目から「最後の高嶺の花」と社交界で呼ばれて憧れられている。
どれくらいの憧れられているのかというと、ジュリエッタが常に選ぶ清楚なデザインの首もとのドレスが、彼女の影響で社交界の一部女子でも流行りつつある程だ。
正式な夜会のドレスは私のローブデコルテや、ラウラのワンショルダー、親友のオフショルダーのようにこれでもか!とデコルテや、肩、胸元、補整下着で作った谷間を晒すものであるにも関わらず、だ。
彼女は垂れ目がちな目尻を柔らかく下げ、困ったように笑った。
「ラウラさん、どうなさったの?今日は王弟殿下がお帰りになられたことを祝う場ですよ」
「……そうですね、ジュリエッタ様。すみません」
ラウラは目線を下に落とす。
『おや?随分とあっさり引き下がるんだね。言いたいことがあるだろうに呑み込んで。さっきまでは格上の侯爵令嬢である君の親友には元気にキャンキャン吠えていたのにな』
『ジュリエッタはラウラの実家と同じ派閥の公爵家のご令嬢なんです。だからじゃないですか?私の手に負えない時は大体彼女が諌めてくれます。ジュリエッタのご実家は元は廃摘された王子が起こした関係で領地は持たないんですが代々篤志家として大変ご立派で名誉ある家なんですよ。彼女も穏やかで優しいんです』
捕捉すると私はニコラと親友の実家と同じ派閥の家である。王弟殿下と、ご学友に選ばれたウィルフレッド様も同じ派閥で、仮に名前を着けるなら中立派、みたいな、のんべんだらりとした派閥である。
こんな力の抜けるような説明しかできないのは私が当主でも嫡男でもないから政争にに理解が浅いせいかもしれないけど。
『ふーん、あの泥棒猫もどきも、ボス犬である公爵令嬢の前では形無しってわけ?すごいつまらないね、それ』
『そう言われましても、貴族とはそういう生き物です……』
強きを助け、弱きは挫く……とまではいかなくても、権力者に媚びへつらい、自分より身分が下の人に高圧的になりがちなのが、悲しいかな、貴族である。
ニコラが泣き続ける私の親友にハンカチを貸しながら、一歩進んでラウラと向き合った。
ニコラは背丈があるわけではないが、独特の存在感がある。騎士様という肉体を鍛える職業についているから自信があって大きく感じるのだろうか。
臆するところがないというか、堂々としているというか、健全なる魂は健全なる肉体に宿るというのはその通りだと思う。
彼が口を開く。
「確かに俺は侯爵家の唯一の生き残り。親戚も疎遠だから婚約者は必要だ」
「っでは……!」
「だが、それは罷り間違っても夜会で無礼な降るまいをしない女性だろう……意味は分かるな?」
常より低い声は大広間によく響いた。
意訳すれば、お前など眼中にない。そういうことである。
ラウラは暫く黙り込んだ後、タイトなドレスにも関わらず早足でその場を去った。
『ああ、ああ、可哀想に。君のニコラも案外言うねぇ』
『元から結構言う人ですよ』
眼下ではラウラが抜けた分のスペースがポッカリとあいて寂しげだった。
「さぁ、皆様。今日は目出度い日ですので大いに楽しみましょうね」
「騒がせて、すまなかった。俺も久しぶりに王弟殿下にお会いできるのが楽しみだ」
ジュリエッタの取りなしと、ニコラの謝罪を合図に集まった貴族達がバラけていく。ジュリエッタの寛大さとその手腕の賞賛をしながら次のゴシップのネタを探し始める。ニコラに同情して災難だったなと声をかけている者もいた。
すっかり消沈している親友はジュリエッタのエスコートをしていた先生に付き添われ、家族の方へと送られていた。人格者として有名な彼は親友の家族と一緒になって彼女を励ましている。
ジュリエッタはニコラにその場を仲裁して納めたことに対する礼を述べられていた。ニコラの誠意を尽くした感謝の言葉に謙遜して彼女は耳を赤くしている。
私より低身長で華奢な楚々としたジュリエッタは、男性の中では身長が飛び抜けて高いわけではないニコラと理想的な身長差だった。
私は高身長のファウストさんには顎置きや肘置きにされるが貴族女性の平均よりもやや大きいのだ。
ジュリエッタとニコラの立ち姿が端から見れば一対のようで胸が痛む。黒のスリーピースと落ち着いた水色のドレスという大人っぽい配色同士なのもその感覚に拍車をかけている。
こんな嫉妬まがいの感情はよくない。私は善良な幽霊のはずなのに怨霊になりそうだ。ニコラは優しいジュリエッタにお礼をしただけ。そこには何もないのに。
離れた場所で一連の流れを観察していた騎士服の女性がメモを取っている。
明日から始まる生徒や教師への聴取の際に誰を呼ぶのか参考にするためだろう。ラウラは真っ先に取り調べの対象になるだろうなと私は思った。
ジュリエッタを彼女の親族へ返しに行くと、ニコラは先ほどまでの位置に戻り、ボーイから酒の入ったグラスを貰うと物憂げに立っていた。スパークリングワインで唇を濡らすニコラは色っぽい。
ニコラが囮になる作戦だが、ラウラの件で本命はあらかた釣り終わったので早くもアルコールを飲んでいるのだろう。
婚約者と踊った後でなければ他の女性とは踊らないといったマナーをニコラは律儀に守るつもりのようで、然り気無くこの後のダンスのパートナーに誘う女性達にすげない対応をしている。
影のように等間隔の距離でニコラに張りつく貴族服の男性がいたが、彼も騎士様だろう。女性の人相と爵位を確認して、それとなく白シャツの袖の内側にメモを取っている。
まさか、彼女達もちょっと欲を出してハンサムな若手侯爵に声をかけただけなのに後日騎士団から、呼び出され侯爵の婚約者が失踪した事件について嫌疑をかけられるとは思うまい。己の欲深さとタイミングの悪さを呪えば良いと思う。
ニコラをダンスに誘う女性達は、私の事件のことは先ほどのラウラの大立回りの反応からしてそこそこ有名らしいので流石に知っているだろうが愛人狙いらしいのが大半だった。婚約者のいる男性に愛人希望でモーションをかけるという行動が常識的かはさておいて、あんなに群がる女性達ですら正妻になりたい、婚約者として成り代わりたいと匂わせないのに、堂々と学園で私に突っ掛かったラウラはやはり非常識なのだろうなと思う。
飽きっぽいファウストさんは『用事を思い出した』と言って、私がニコラに話しかけてくる愛人希望の女性達に怨嗟の呪いをかけている最中にフラッと外に行ってしまった。
彼は呉々もその場から離れるなと私に厳命して天井に向かって羽ばたいていく。大広間の天井は天使が描かれた宗教画なので、ファウストさんが天井を通過して出ていく様は神々しくもあった。
さて、ファウストさんがいなくなると暇である。勿論ニコラのご尊顔は見飽きないハンサムフェイスではあるのだが、憂い顔で壁に凭れるニコラに暫くすると女が声をかけ、すげなく断られ、騎士様がひっそりとメモを書くだけの繰返しなのだ。
見知らぬ女が、それも胸をバーンと出した夜会のドレスでニコラに媚を売り、それを婚約者である私は止められないのである。ずっと。
大層面白くない!
何故、婚約者である私が、折角ドレスアップして可愛くなった姿でいるのに彼に話しかけられず、何処の馬の骨かも分からない女性が笑顔で話しかけられるのか?生き返って阻止したい……
怒りで内心の呟きがご令嬢にあるまじきレベルに来たところで、私は大広間から程近い庭に出ようと決めた。
こういう時は植物で、特に可憐な薔薇で癒されるのが一番である。ファウストさんは離れるなと言ったが王城内だし、すぐそこだし平気だろう。
窓からスッと外に出れば会場の入り口付近には人がいるが庭は無人だった。貴族の屋敷でパーティーを開く際なんかは庭で逢い引きする不届き者がいるが、さすがに王城の王家主催のパーティーで庭にいる者はいなかった。まあ小部屋とかには盛り上がったカップルがいるのかもしれないけれど、そこは私の知ったことではない。
ふわふわと漂いながら薔薇の植わった区画を目指す。
いったい何故ニコラの顔は見飽きないんだろうと考えながら。私にとってはニコラが世界で一番格好いい恋人で婚約者で、モテモテで素敵な若手イケメン侯爵だが、彼はファウストさんのような画家の人生を狂わせる美貌はない。しかし、一生どちらかの顔を見続けなくてはお前は死ぬと言われた場合には私は迷いなくニコラを選ぶだろう。
やはり、私が世界一ニコラが好きだからニコラの顔も世界一好きなのだ―――という、愛を確信する結論に至った時、ふと前方に目を向けると、なんと、男が倒れているではないか。
男は、白いボロきれを身に纏って、ガゼボの脇の小さな大理石の祭壇の前で倒れていた。
私は慌てて駆け寄る。
『大丈夫ですか?!』
咄嗟に手を伸ばすと、私は彼に触れられた。
驚きながら周囲を見渡せば、夜会から漏れ出た明かりで照らされる庭で彼に、だけ影がない。私と同じ死者なのだろうか。
うつ伏せの体を起こせば、栗皮色の髪の毛が生えた後頭部に代わって彼の顔が露になる。
大きすぎず、小さすぎない目。睫は男性らしくそこそこの短さで、眉毛はやや太めだが、これも男性にしては平均的。ちょっと薄い唇はこの国の住人の最も有名な特徴だ。
取り立てて癖のない、どこにでもいそうな埋没した印象の人物だった。目をそらせば忘れそうな記憶に留めにくい顔である。
『あの、大丈夫ですか……?』
『うっ……』
彼が咳き込む。
『どうしましょう。水なんかは飲まないですよね?お仲間っぽいですし……』
幽体の怪我人には何が有効なのだろうか。
薄く目を開けた彼が口を開く。髪の毛と同色の瞳が覗く。茶色の系統は最も多くの国民が持つ、色の特徴だ。
『手、握って……』
『はい!』
私は必死で弱々しい彼の手を掴む。
この具合の悪い幽霊さんが良くなりますようにと内心祈っていると心なしか彼の顔色が回復した。
『ありがとう。なんとか帰る気力が湧いたよ』
『いえいえ、とんでもない』
こちらこそ、何事もなくて安心している。幽霊とはいえ具合の悪そうな人を放ってはおけない。寝覚めが悪いし。
地味な彼は私の顔の正面でフッと微笑んだ。目を引くわけではないけれど、温かく包容力のある日向のような笑みだ。
『君は本当に善良だね。一旦離れて建て直さなければ行けないけれど、また、すぐに会いに来るよ』
『会いに来る……?』
『うん、待っていてね』
『えっと……お礼の話をしてます?次回会うときには探してお礼しますから的な……?』
『まあ、そうといえばそうかな?』
曖昧な回答にちょっと眉間に皺がよる。
「あなたは、あの時の……!!」「この間の夜会で助けてくださったお姉さまですよね?!」「君、あの日の娘さんでは……?!」と、伊達に声をかけられてきた訳ではない。
お礼は役に立つものかも分からないし、素直にいらないと思った。
だって、お礼と言いながら勝手に婚約者になろうとしてくる男性もいたし、遺産を全部私に譲ろうとした老夫婦もいたし、同年代の女の子達に「お姉さま」と勝手に認定されて付き纏われもした。彼らの対応に骨が折れたのだ。人助けのお礼の筈なのに、なぜか私が疲れた。男の人たちにはニコラ経由で丁寧に断りをいれ、老夫婦には恵まれない子供や養児院への寄付の道をおすすめしておいた。
最後の女の子達だけは悪い気はしなかったのでそのままにしたけれど。そういえばあの子達は元気にやっているだろうか。
私がいなくてもしっかりしているから平気だと思うけれど。でも、二度と一緒にお茶会ができないのは寂しいな。
なんて考えた所で首を振る。センチメンタルな気分になるのはとりあえずこの男からのお礼を断った後にしよう。
『お礼、欲しいよね?』
『いらないです。別に私が勝手に助けただけなので……そんなことよりも早く良くなってくださいね』
地面に人が倒れているのは心臓に悪いし、気持ちのいいものじゃない。ただそう思って助けただけで下心はないので特に何も求めていない。
……そもそも幽霊のお礼ってなんだろうか。私達は物体をすり抜けるし、欲望もないという状態なので、にっちもさっちもいかないと思うのだが……。
ともかく私への礼よりも自身の傷を癒すことに集中してほしい。
それにしても、この幽霊。何故、こんなに満身創痍の状態で夜会の日に王城の庭で倒れていたんだろう。
事件に巻き込まれて魂がボロボロという問題を抱えているのだろうか?私のように。妙に動きに品があるから貴族っぽい。未練があってここに留まっているとしたら政争で虚偽の罪で陥れられた……とか?
生前、辛い目にあってそれが原因で幽霊でも具合が悪いんだとしたら気の毒になってしまう。もちろん私も同じような悲惨な境遇なのだけれど。
またしても、やるせなくなってしまった私はため息をついてから平凡な幽霊の彼に向き直る。
私に向かって彼は眩しいものを前にしたかのように目を細めた。
『ごめんね、生前を思い出させてしまったね。寂しいのかな?それでも君の魂は明るくて親切だ。優しい子』
生前を思い出し、感傷的になったのは事実だが、そうです、あなたのせいですとは言いづらい。曖昧に口角を上げ、誤魔化す。
しかしこの地味な男、どこかズレている。何故急に詫び、その後手放しで私を誉めだすのだ。唐突だ。
『……はぁ』
『君は本当に善良で美しく、清らかで敬虔な子だね。迷惑をかけてごめんね。これだけは覚えていて。何事にも理由があるんだ。夜会で女性が着飾るのも、この国の城が武骨なのも、庭の花が美しいのも』
『はぁ……』
急になんだろうか。
妙に意味不明な物を言われた。なんだ、このズレた男は。
でも舞踏会で、胡散臭い大人からの忠告された場合は、早く帰りたいなら黙って聞いておけと過去に姉から厳命されたので、口は挟まないでおく。
彼女曰く、歳を取ると人間は説教臭くなるらしい。
『ふふふ……急に言われても困るよね』
『え……?!あ、はぁ、まぁ。正直なんのことやらというのが本音ですね』
正直に本音をさらけ出した私に幽体の彼は全てを見透かしたようにがそっと微笑む。
森の奥のせせらぎのような清廉な気配が漂った。
間違いなく変な男なのにどこか上品なのが不思議だ。
『可愛そうで可愛い可愛いグレーテ。助けてくれてありがとう、またね』
そう言って悲しそうに笑う彼は、砂糖が紅茶に溶けるように周囲の空気に混ざって消えていなくなった。
蜃気楼や、幻覚の類いだったのだろうか?夢か現かも定かではないような気分になる去り方である。
そこで呆然と立ち尽くす私。
暫くしてからポツリと呟く。
『あれ……?私、名乗ったっけ?』
遠くでファウストさんが私を呼ぶ声が聞こえた。
私は返事をして彼を探す。
瞬く銀の眼の美貌の天使様に合流した頃にはもうあの地味な顔をした幽霊のことなんか私はすっかり忘れていた。
私が勝手に出歩いたことにネチネチ文句を垂れるファウストさんの相手で手一杯だったからだ。
『動くなって僕は行ったよね?このお馬鹿。あんな簡単な言葉も理解できなくなったのかい?僕は動くなって命じたんだよ?』
『すみません。でも、王城内ですし、すぐそこですよ?それに一瞬です』
『何が、すぐそこなの?僕は動くなって言ったの、繰り返させないでくれる?あと、君みたいなポジティブモンスターは考えが及ばないかもしれないけど、人外は僕だけじゃないし、僕みたいに穏やかな奴はそうそう多くないんだよ?お分かり?折角僕が結界まで張って野暮用を済ませに行こうとしたのに、ちょっと目を離せばすぐこれ』
『すみません。すみませんってば。もう怒らないでくださいよ』
『怒ってない。僕は呆れているんだ』
文句を垂れるのを聞くのはいくらファウストさんが美声の持ち主であっても嫌なものである。
大広間に戻れば王族の方達が既に登場しており、参加者達はクルクルと踊ったり、歓談したりと夜会は盛り上がっていた。踊る女性のドレスは満開の花弁の如しである。
そんな中でニコラは全く同じ位地で動いていない。王弟殿下や王族の方がたには挨拶した後なのかシャツの釦を幾つか外し着崩している。
『ちょっと、グレーテ。君の愛しのニコラばかり見て、僕の話聞いてないなんてことはないよね?』
『聞いていない、とまではいきませんが、途中から着崩したニコラのワイルドさに視線を強奪され、ファウストさんのことが意識の外に追いやられそうになったのは事実です』
『……全く君ってばさぁ……』
『ふぁあ………』
ファウストさんが何か言いたげなところを私の欠伸が遮った。
全く眠くないはずなのだが急に眼球がしょぼしょぼして、目蓋が重くなる。
『ああ、今回は僕が君の姿を変化させたからすぐにエネルギー切れになったね』
『つまり、寝ちゃうってことです?結構な高頻度じゃないですか?もっと幽霊って制約なく動けるものだと思っていたんですけど……』
ファウストさんはお手上げのポーズをした。
『それは前も説明しただろう?もう忘れたのかい?君が惨殺されて傷ついた魂だから修復が必要。だけど、今回は君がドレスが着たいと我が儘を僕に言ったろ?だから変化させてあげた、その分魂に負担がかかるとは考えなかったのかい?』
そんなことを言われても、幽霊歴の浅い私には知らない話である。
『まあ、時間で修復されるから1ヶ月地上にいれば最後の方には寝ずに君の愛しのニコラをストーカーできるよ。………眠りたくても眠れない辛さを味わうが良いさ』
『最後の方、不穏な言葉が続けられた気がしたんですが?』
『……さあね?眠いんなら抱き上げてあげるよ。僕の腕の中から愛しのニコラを観察すると良い。おいで』
ファウストさんの左腕、最早お決まりのポジションに設置される。嵩張るドレスでも器用に彼は持ち上げた。
うとうとし始めた私はファウストさんの極上の肌触りの洋服に身を預けつつ、ニコラを観察する。
シャンデリアの光の加減でニコラの黒い夜会服が緑っぽい光沢で輝く。ニコラは手紙で私のドレスと一緒にクチュールで仕立てたと言っていたな。
そこまで考えて前触れなく、瞬間に私はスッと理解した。咄嗟に泣きたくなる。
あの色、私の髪と一緒だ。