5.エンゲージ
幼馴染のハルお兄ちゃんは、お客さまの「花香様」として現れた。深月さん――わたしの失恋の象徴とともに。
わたしは「いらっしゃいませ」と言葉にして、ゆっくりと冷蔵庫を閉めた。
入れ替わりに、タツキさんがお茶をふたつ、お盆に載せて運んでいく。お茶は、ハルお兄ちゃんと深月さんの前に置かれた。
「この前はありがとうございました。おかげでだいたいのデザインが絞り込めてきました」
深月さんが切り出した。ハンドバッグから付箋つきの小さな冊子を取り出して、ぱらぱらとめくる。
改めて言葉にすることでもないけれど、その小冊子はカタログだ。婚約・結婚指輪の。
「まず気になっているのはこれなんですが」
深月さんがカタログを広げて、ローテーブルの上に置く。その上にさっちゃんが座り込む。
自然。あまりにも自然な動作だった。誰も反応することができないくらいに。
なー。と、さっちゃんは目を細めてひと声鳴いた。
「はいはい」
タツキさんが片手でひょいとさっちゃんを抱き上げて、かの子さんの隣に下ろす。慣れてるなあ。
ハルお兄ちゃんが、なんだか楽しそうにその様子を見ている。深月さんも苦笑い。
……幸せそうだ。
いや、なんでわたしは。気持ちを下に引きずられている場合じゃないから……。
カウンター下の物を取るふりをして、わたしは深呼吸をする。
「椎野サン」
顔を上げるといつの間にか隣にタツキさんがいて、思わず声をあげそうになった。
なんなの、忍びの者なの?
「コーヒー準備するんで、俺が運んだらシュークリーム持ってく準備してください。皿なんかはあそこで」
「は、はいっ」
声が上ずってしまった。落ち着こう、落ち着こう。
「じゃあ、お願いしますんで」
タツキさんはコーヒーメーカーの方へ行ってしまった。なんとなくだけど、タツキさんて自宅にサイフォン持ってそうなイメージがある。ここが本当に喫茶店だったら、きっとこだわりのコーヒー(というか、珈琲)を出してそう。
いやいや、わたしはちゃんと仕事をしよう。
教えてもらった棚からお皿を出し、トレイに並べる。フォークも用意して、と。
冷蔵庫から洋菓子店の箱を出して開ける。横三列、二羽ずつ整列した白鳥たち。翼のあいだにアラザンを背負っておしゃれしている。
二客のコーヒーカップを載せたトレイを運ぶタツキさんがわたしの視界に入った。
そろそろかな?
わたしは端にいる白鳥二羽に狙いを定めて拾い上げる。お皿に載せる。フォークを添える。
タツキさんが戻ってきた。
「じゃ、お願いします」
バトンタッチだ。わたしは白鳥たちのトレイを手に、ローテーブルへと向かう。
三人の話は盛り上がっていた。
「婚約指輪かネックレスか、まだちょっと迷っていて。母なんかは、『婚約指輪は邪魔だから、ずっとタンスにしまってる』なんて言ってます」
「そうね。お母様のころは、縦爪が派手なデザインが主流でしたから。今はほら、指輪の代わりにネックレスを婚約の品にしたり、結婚指輪と重ねづけできるデザインも増えていますよ」
「へえ。色々あるんですね」
ローテーブルにカタログや雑誌、サンプル品が広げられている。
この短時間で、いつの間に。
「こちら、どうぞ」
なんとか話の切れ目を見つけて、わたしは白鳥たちを差し入れた。深月さんとハルお兄ちゃん、ローテーブルの端から回ってそれぞれに。
さっちゃんは、かの子さんの隣で腹ばいに座り込んでいる。そういえば、タツキさんお手製の「さっちゃんマニュアル」には、「食べ物や飲み物が載っているところには絶対乗らない。賢い」とメモ書きしてあったなあ。
「わあ、かわいい!」
喜ぶ深月さんと、
「さっきはこれのおつかいしてたんだね」
納得するハルお兄ちゃん。
わたしも、このためだとは知らなかったよ……。
カウンターに戻ろうとしたとき、ふと、深月さんの首元に目が行った。
ラウンドブリリアントカットの小さな赤い石。銀色のチェーンのネックレス。シンプルで、今日の服装のアクセントになっている一品だ。
だけどなんだか、くすんでいるように見える。石自体の色味かもしれないけど、チェーンの輝きもどことなく鈍い。
これは、もしや。
かの子さんを見る。かの子さんもわたしを見て、「お願いね」と頷いた。
「深月様。深月さん。素敵なネックレスを着けていらっしゃいますね。深月さんの雰囲気にぴったり」
にこにこと、かの子さんが話しかける。
深月さんがハルお兄ちゃんを見て、少しはにかんだように笑って、
「いつかの誕生日に、彼からもらったんです。これ、わたしにとって初めての宝石なんです」
「まあ、プレゼントなの! 素敵だわ」
「おれはちゃんとしたネックレスを選ぶのなんて初めてで、人に聞いたりあちこち店を回ったりしましたよ」
あれは新卒のころだったかな、とハルお兄ちゃんは頭をかいた。
そっか、『初めて』、か……。
落胆を顔に出さないようにしているわたしの前で、三人の話は進む。
「あら、それなら大事に着けているのもわかるわ。もうずっと着け続けてらっしゃるのでしょ?」
「え! どうしてわかるんですか!?」
深月さんが驚く。かの子さんをはじめ、わたしたち――『さらさ』の従業員が予想していただろうことは、当たっていたみたいだ。
かの子さんは大人の余裕を感じさせる笑みを浮かべて、
「わかりますとも。だから数分だけ、そのネックレス、わたしたちに預けてみません?」